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「わたしと結婚してくれないか?」
すごい美人が俺に言う。じつに率直に。
切れ長の、くっきりと濃い菫の瞳が俺を見る。豊かな髪は、闇よりも深くつややかな黒。通った鼻筋、花びらみたいに形のいい唇──目の前にあるのは、非の打ちどころのない、奇跡のような顔立ち。
言われた俺は、とりあえず思う。
──どうして俺?
なぜこんな事態になったのか、俺にはまったくわかっていない。自慢じゃないが、俺はぼんくらなことにかけては自信がある。
田舎領主で貧乏男爵の、影が薄いだけの七男坊。──それが、このころの俺だった。
◆◇◆
その日は朝から家中が大騒ぎだった。
東の空が明るくなる前にたたき起こされた俺は、寝ぼけまなこのまま湯殿に押し込められ、髪を整えられ、誰かのおさがりの晴れ着を着せられ……と、させられ通しで目を回してしまった。
俺の父、バルドイ男爵が治めるアルノー市は、王都から西へ向かい、馬車で十日ほどの距離にある。荒野のただなか、氾濫と干ばつをくり返すイェン川のほとり、吹けば飛ぶような小さな町だ。
また、この町は実際に吹けば飛ぶ。昨秋数十年ごとに発生する大洪水に見舞われたばかり。収穫をすべてふいにし、橋は流され、畑では今年の種まきすらままならない。
今朝の様子がおかしいことは、俺にもわかる。だって、うちの一家は俺をのぞいて毎日非常に忙しい。洪水のあと半年以上、ずうっとだ。
なのに両親と六人の兄たち、まだ小さい姪っ子を連れた長兄の妻まで、朝っぱらから全員居間に勢ぞろいである。
しかも、おそるおそる椅子へかける俺を見て、父が言った。
「ティ、おまえももう、十五だね」
──なんと!
父さまが、俺がいくつになったか覚えていた!
少々大げさかもしれないが、俺の誕生日は、姪が生まれるまでのわが家の女王さま、母と偶然同じ日だ。誕生祝いは母が主役で、いつだって俺はおまけの添えものである。
十五といえばもう大人だ、と、父は言う。かたわらの母、壁ぎわにずらりとならんだ兄たちがうなずく。──その通りだ。俺は十五歳、このアセルス王国では成人としてあつかわれる。
「結婚してみないかね?」
父がにこやかに続けるので、俺は驚いてしまった。どういうことですか、と、問い返そうともした。が、無理だった。母と六人の兄が、いっせいにわめき出したからだ。
「ティ、これは素晴らしいお話なんですよ!」
「うらやましいぞ!」
「私たちにはまったくないのに、まさかティに婿養子の話がくるとは思わなかったよ」
「なんでティ? ずるくない?」
「お受けするのよ。こんなことはもう一生ありえませんよ。ね? いい子だから」
「俺、代わってほしい!」
「それは無理だろう。ご令嬢は、ティをご所望なんだぞ」
「絶対お受けするのよ。とってもおきれいなかたなんですってよ」
「お相手はエレメ……」
「このちびすけの、どこがいいんだ? さっぱりわからん」
「父上、僕ではいけないのでしょうか?」
「エレメントルート伯爵令嬢の……エディット姫……」
「おまえたちはまだ先があるじゃないか。俺なんかもう二十六なんだぞ?」
「……おい、私は来年三十だぞ」
「ティ、わかったの? お返事は?」
早く終わらないかなあ──俺はついつい考えてしまう。いつもだったら、みんなが俺を忘れてくれる絶好のシチュエーションだ。でも、さすがに俺が話題になってる最中だから、逃げ出すわけにもいかない。
てんでに騒ぐみんなを長兄がなだめ、ようやく静かになった。コホン、とひとつ、父が咳ばらいをする。
「じつは、ティを婿養子に、とお話をいただいてね。──お相手は、エレメントルート伯爵家のご令嬢、エディット姫というかたなんだが」
……それはもう伺いました。
本当だとしたら、かなり突拍子もない話である。父は典型的な地方の小領主で、ただの男爵だ。古きをいえば王家の血を引いてはいるものの、まあ、名家……というのも微妙な家柄なのだ。息子の一人が伯爵令嬢の婿養子になんて、どう考えても釣り合わない。
「姫はどこかでアルノーの窮状を耳になさったんだな。わがバルドイ家への資金援助を約束する、ついてはティと結婚したい……こうおっしゃる」
資金援助?
俺がぽかんとしたのがわかったのだろう。父はますます困り顔になってゆく。
「まあその、つまり、援助の条件が、ティと姫との結婚、ということになるのかな……」
「それで父上、援助の額はいかほどなのですか?」
わが家の財政を担当している次兄が、たまりかねたように口をはさんだ。
「なにぶん突然の話だから、したく金もふくめてだが……」
なぜかひそめた父の声に、全員がやや前のめりになる。
「「「うおおおおー……」」」
……野太いどよめきが起こった。
みんな、金額以外はあらかた知っていたんだな。なるほど。
両親も兄たちも、領民の暮らしには手をつくしている。それだけあれば、イェン川に橋をかけ直せる。次の氾濫にそなえた護岸工事だってできるかも。確かに声をひそめたくもなる、けたはずれの額だ。
……うん、なるほど。
「ねえ、ティ」
母が隣に腰を下ろし、俺の手を取った。
「お受けなさいな。こんなお話は二度とありませんよ。おまえはこのまま兄さまたちのように売れ残ってもいいの? せめて町娘に手をつけて子どもでも作れば結婚させてやってもいいものを、みんな甲斐性なしのふぬけばかり。──ティ、おまえはこのようになってはいけません」
「母上、よろしいのですか?!」と、二、三人から声が飛んだ。跡取りじゃない貴族の子弟は、なかなか妻なんかもらえないのだ。……兄さまたち、好きな女の子でもいるの?
「無理にとは言わない。ティが嫌なら、もちろんお断りしてもいいんだよ」
穏やかにうなずきながら、父は言う。
「だが、この際だからご本人とお話ししてみなさい。そろそろお着きになるころだ」
えっ?
うちにくるの? そのご令嬢が? いきなり? 今?
そこへ、まるで計ったみたいにタイミングよく、コンコンコン、とノックの音が。
「旦那さま、エディット嬢がご到着でございます」
扉を開けた執事が、らしくもなく頬を紅潮させていた。その後ろから、彼女が現れた。
兄たちはもちろん、いい年をした両親でさえ、彼女を見た瞬間口が半開きになる。
エディット・カヤ・キトリー・ディルク=エレメントルート。十八歳。
彼女が、俺の妻になる女性だった。
こんな長ったらしいフルネーム、このときは、知るわけなかったんだけどさ。