僕はぶっ飛んだ
黒猫カレーの店に初めて入った僕は、あまりの予想通りさにがっかりした。
カウンターだけのとても狭い店内、壁に並んだシーバスリーガルやジョニーウォーカーのボトル、「これは客に見せるものじゃないだろう?」と思える缶詰の空き缶や業務用レトルトのパック。おそらくは夜に営業しているスナックのママのどうでもいい私物。
店の人は黒いニットキャップをかぶった30代の男で、黒いTシャツの袖口からちらりとタトゥーが見えたような気したが、僕はそれ以上観察する気力もなくなっていた。「不合格」それが店の人を見た僕に浮かんだ最初の言葉だったからだ。
たぶん僕が勝手に望んでいたのは、「日常生活やビジネス感覚はダメダメでも、カレー作りは天才的」な職人風なイメージだったのだろう。
見事にくつがえされて、本当にがっかりした。
僕はその場でUターンして店を出ていくこともできたが、店内に入ってさらに強くなったカレーの魔術的な香りがそれを許さなかった。
いや許さないのは僕の肉体なのだろう。僕の肉体はずっと前からこの黒猫カレーを食べることをとても強く欲しいる。
この欲望の強さは自分でも説明できない。それどころか、たかが食べ物でここまで強い欲望を感じたことがここしばらくはなかったからだ。なのに僕の理性は全力で黒猫カレーにダメ出ししている。こんな店内じゃ仕方ないけど。
まあいいか、どうせ750円だし。僕は値段のことを考えて、これ以上黒猫カレーの悪いところを探すのをやめるようにした。
客たちは静かに店の奥まで入っていって、おとなしく椅子に座った。椅子の間隔は結構狭く、おそらく6人分のスペースしかないところに無理やり8脚の椅子を入れたような感じだ。実際、僕の分と最後に来た8人目の学生用の椅子は種類が違っていた。
店の男はカウンターの中で何か作業をしていたが、僕たちが全員座ると器用にカウンターをくぐって店のドアを開けた。手にしているのは、例のやる気のない黒猫のイラストが描かれている黒猫カレーの看板と、後から出したメニューの紙だ。店の男はそれらを店の隅に置いて、また器用にカウンターをくぐった。
おい、もう店仕舞いなのかよ?僕は軽くショックを受けた。
看板の下に後から出された『黒猫カレー¥750 X8』のメニュー。
『X8』は辛さ8倍ではなくて、本当に8人分だったようだ。僕は計算してみた。750X8はちょうど6000円。とてもやっていけないんじゃないか?
いったい、この黒猫カレーは何のために存在している店なんだ?
昨夜の食材の処分でもないし、本格的出店のためのマーケティングテストとも思えない。
なのにこの魔術的な香り。すべて納得しているような僕以外の客たち。…この店はいったいなんだ?
僕の頭の中で、別の種類の警告ランプが灯った。
しばらくすると、店の男はカウンターの中から水が入ったコップとスプーンを配り始めた。
スプーンは紙ナプキンで口に入る部分がグルグルにまかれている。
コップはキレイな透明で意外にもちゃんと磨かれていて、曇りもない。そこに清涼な水が入っている。実は僕はガラスのコップの曇りに少しうるさい。自宅で食器洗い機を使っていて苦労しているからだ。食器洗い機でコップを洗い続けると、どうしても曇ってきてしまう。洗剤をいろいろ変えてもダメだった。
このコップはちゃんと手で洗っている。しかもその後、クロスで磨いてある。ちゃんとした仕事だ。
高価ではないけど、ちゃんとした美しいコップ。そこに冷たそうな清涼な水。
無意味な氷が入っていないのも、ポイントが高い。
一口飲んでみる。いいね。美味しい水だ。
雑居ビルの腐りかけの配管を通っていない、つまり蛇口から適当に出した水じゃない。とてもいいね。
店の客はみんな無言だ。
だから僕もおとなしく座っているのだが、気になることがあった。
この黒猫カレーでは、盛りとか辛さとかの注文はできないのだろうか?ということだ。
僕は初めて入ったパスタの店では、事前にパスタのグラム数を聞くか可能な限り大盛りを頼むことにしている。運ばれてきたパスタの量が少ないと、がっかりして味が分からなくなるからだ。
特に女性客が多い店では少なめのことが多い。ある時は5口ほどで食べ終わってしまい、呆然としたことがある。金を払うときにぼったくられた気分になり、もちろん腹も膨れず店を出た後にホットドックを食った。そのホットドックもまずくて余計に悲しくなった。だって5口で1000円だぜ?フォークの上に乗った百円玉の枚数が浮かぶような店は、僕は好きになれない。
たぶん量は心配ないだろう。ワイルドな店の人の風貌からすると、カフェ飯みたいにお上品で盛りが少ないことはなさそうだ。
だけど辛さはどうだ?
僕は特に辛いものが大好き、という訳ではないがカレーはスパイシーなのが好みだ。たぶん中辛か辛口を選ぶ。極辛とかには手を出さないが、選択肢がないのは不安になる。だが注文も聞かれないし、自分から「中辛にして」とかオーダーする客は誰もいない。
そして僕の希望に反して、いや予想通りというべきか、店の男が奥から順番にカレーが盛られた皿を配り始めた。
『ウチはこれしかないからね、文句言うんじゃないわよ』
僕はこのスナックの本来のママさんであろう昭和の熟女を想像し、勝手にその口調をまねてみた。たぶん大きく外れていないはずだ。自信がある。
僕の目の前に置かれたのは、金属製の皿に盛られた日本風のカレーだ。
ライスが6、カレールーが4くらいに分かれている。そして強烈な香り。魔術的なカレーの香り。
いや実際にはそんなに香りは強くないのかもしれない。
だが「待ちに待ったカレーを目の前に置かれ、今からそれを食べることができる」という状況が、僕の脳内で香りを何倍にも増幅させている。
僕はドキドキしながらスプーンに巻かれた紙ナプキンを外した。
なぜかうまく指が動かなくて、最後の方はナプキンが破れるのも構わず、少し強引に外した。その焦り具合は、15年前くらいに僕が女の子のブラジャーを初めて外した時のことを思い出させた。確かフックを1つ壊しちゃったんだよな、無理やり外しちゃって。…って、カレー童貞か僕は?
そんな自己ツッコミをいれている自分に、僕はちょっと安心した。うん、まだ冷静なほうだ。
スプーンをルーの方に少し泳がせて、沈んでいるライスの量を確認してすばやく最適なルー配分を決める。
そして僕はルーの方からライスに絡めて、黒猫カレーを初めて口に入れた。
熱くて辛い。だがちょうどいい。複雑なスパイスが口から鼻に抜ける。いいね、コレ!
だが僕が冷静に味を確かめることができたのは、そこまでだった。
その後、僕はぶっ飛んだ。そう、文字通りぶっ飛んだのである。




