パン屋の五代目
住宅の並ぶある街。朝日の訪れと共に、ある一軒の店の煙突から煙が立ち昇る。
店の奥では、一人の男が、丹念に生地を練り上げている。
生地につながりが見え始めバターを加え更にすり混ぜこむ。
しばらくして、生地を叩きつける音が店内に響き渡る。
生地の出来上がりを確認するかのように生地を伸ばし広げる。
出来映えを確認すると男は黙って、生地を丸くまとめ始める。
丸くまとめた生地は、次々と並べられる。
男は、休む暇なく先に作った生地を半分に分け、生地を力強くぐるぐる丸める。
表面に張りをつけると用意された型に詰めこむ。
発酵を終えた生地を古びた釜戸に入れ焼き始める。
しばらくすると、なんとも言えないパンの香りが漂い始める。
釜戸から焼きあがったパンを取り出し、型から取り出すと今にもはじけそうなパンが姿を現す。男は次々に焼き上げると、店内に焼き上がったパンを並べ始める。店内は、焼きあがったパンの香りで一杯になる。
男は、準備を終えると店のドアを開放させる。
店内に漂っていたパンの香りは、一気に人々の鼻めがけ流れ出す。
男は外に出ると、空を見上げ大きく深呼吸する。
「ぷは〜。」
男の名前は、キム・ヒョン。
五代目となったあの少年である。
二年前、四代目の父親が病気で倒れてしまったのである。
本来なら大学生活を過ごしている筈だが、家の家計と父親の入院費を稼ぐ為、大学を辞め家業であるパン屋を継いでいた。
父が倒れ収入のない家族を助けるのは、自分しかいなかった。
母は父親の看病で忙しく体もあまり強くない。父が倒れた後、無理がたたり寝込んでしまった事もしばしばあった。
母に無理はさせられない。
それに妹もまだ、高校生。
せめて妹だけは、自分の道を進んで欲しいと考えていた。
妹の学費を稼ぐ為にも僕が働かなければならなかったのだ。こうして、パン屋を継いでみたものの実際に一人でやるのには、かなりきつい。幼き頃から父の背中を見てきたつもりだが、思ってた以上に大変だった。
どんなに忙しくても、決して妥協しない父のパンの味を皆、知っている。
自分が覚えてきた、父から教わった事を何度となく繰り返し今の味を出せるようになった。
そんな僕の作るパンを父親譲りの味だと近所の人達は褒めてくれた。
そんな温かい人々に励まされながら、僕は日々頑張っていた。
朝になると近所のおばさん達が、買い出しに来てくれる。
昔から朝食などは、米を食べるのが当たり前だったから、パンなんて、たまにしか食べない家庭がほとんどだった。
近年は、時代とともに変わりつつあるのか、パンを朝食に食べる人々が増えてきた。
そのおかげもあって、日々忙しい毎日を過ごしている。
「おはよう、ヒョン。いつも頂戴。」
店に朝一番に買い出しに来てくれるのは母の古くからの友人のギョヌおばさんだ。
母が、父の看病で家を空ける事が増えてきてからというもの、ギョヌおばさんには大変世話になっていた。
毎朝こうして、僕等の様子を見に来てくれるのだ。
「おはよう、おばさん。いつもありがとうね。」
そう言って、ロールパンを5個、紙袋に入れ手渡す。
「今日は、お母さん早く帰ってくるんだろ?
帰って来たら家に来るように言っといておくれ。」
ギョヌおばさんは、そう言って笑顔で帰っていった。
こうした、ギョヌおばさんとの会話も僕の毎日の日課の一つだ。
この店の前は、通勤する人や学生などの通り道。
そのかいもありパンを求めていく人もいる。
僕の友人達もその中の人達だ。
何故だか、大学に行く待ち合わせ場所を店の前にしている。
僕が大学に通っていた頃と変わっていない。しばらくすると、一人の男が店に来る。
「っはよ〜!あれ〜?あいつらまだ来てないの?しゃ〜ないなぁ、ヒョン、葡萄パン一つね〜。」
毎朝、同じ愚痴をこぼすこの男、幼い頃からの幼なじみのイ・ウォンである。
幼い頃はよく喧嘩もしたが、今は僕にとって一番の親友である。
大学を辞めてから二年になるが、店に来なかった日は無い。
彼が、店に顔を出しにくるのは、僕の事を思ってだろうといつも感じていた。友達思いのいい奴なのだ。
彼が、美味しそうに葡萄パンをほおばっていると、一人の女性が慌てて、店の前に現れる。
「ふう〜、なんとかセ〜フ!おっはよん!あっ、ヒョンくん、おはよう・・・。」
頬を赤らめ、恥ずかしながら僕に挨拶を交わすのは、ナ・シュリである。
僕達が中学の時に、ウォンの家の近くに引っ越して来た。
彼女の両親は、ある会社の重役らしく彼女はお嬢さまってところだ。
引っ越して来て以来、ウォンが夢中になっている女の子だ。
そそっかしいが、友達思いの優しい子だ。
「ヒョンくん、私もパンください。」
「ああ、何がいい?」彼女は嬉しそうに、
「じゃあ、くるみパン一つ!」
袋に包み手渡すと、嬉しそうにパンをほおばり始めた。
「ドンホンの奴ま〜た、ギリギリかよ。待ってる事知ってるのに、あのマイペースは治らないかなぁ。」
いつもの愚痴をこぼしながら、待っていると、のっそ、のっそ、と一人の男が歩いて来る。
「うっす。」
いつになく、やる気の無さそうな彼が、カン・ドンホンである。
普段は、やる気が感じられないが、実は成績は一位、二位を争うほどの切れモノである。
シュリの友達として知り合ってからずっと一緒だ。
「ドンホン、もうちょっとでいいから、早く来てくれよ。まあいいや!さっ、行こう。」
こんな感じで、毎朝が始まる。
彼らのお陰で退屈しない日々が続いている。
彼等が大学へ向かった後、今度は妹が慌てて起きてくる。
「あ〜、遅刻しちゃう!もう、お兄ちゃん、何で起こしてくれないの?」
髪を整えながら、慌てる仕草は、母によく似ている。
「何回も起こしているのに起きないお前が悪い。まったく!」
妹は並べてあるパンを一つ口にくわえ、慌てて家を出る。
「行ってきま〜す。」
遊んでばかりいるせいか、いつも寝坊ばかりして、困ったものである。
騒がしい朝の時間帯を過ぎると、お客もまばらになり始める。
お昼時には、また客足が増える。
それまでの間にまたパンを焼く準備に取りかかる。
「いつでも焼き立てを食べて貰いたい。客の喜ぶ顔こそ、職人の幸せだからな。」
僕の父親の口癖だ。
そんな父の言葉を胸に、焼き立てを提供する事を日々心掛けている。
今日はあいにくの天気で、今にも雨が降りそうである。
(今日は雨が降りそうだ・・・。)
日々の気温などもパン作りに、大きな影響を与えてしまう。
湿った空気を肌に感じとり、パンの発酵時間を考えなければならない。
店の奥で作業をしていると、店のドアの鐘が店内に鳴り響く。
「チリ〜ン。」
大学生ぐらいの二人の女性客が店を訪れる。
「いらっしゃいませ。」
二人は並べてあるパンを覗き込んで、楽しそうに会話をしている。
「これ、美味しそうね。」
二人の顔から、笑みがこぼれる。
おさげをした方の女性が、くるみパンを指差す。
僕は、くるみパンを紙袋に詰めるともう一人の女性がお金を払った。
彼女達は、紙袋を覗き込み、顔を見合わせ喜んで店を出る。
パンを作る者にとって、幸せな光景である。
自分の焼いたパンを嬉しそうに、美味しそうに食べる光景が、頭をよぎる。
父の言っていた言葉通り、お客さんの喜ぶ顔こそ職人の財産。
父の信念を胸にまたパンを作り始める。しばらくすると、とうとう雨が降り始めた。
僕は、慌てて店の入口に並べたパンを店内に並べ替える。
窓越しに雨空を見上げ、思わずため息をつく。
「はぁ、客足が遠のくな・・・。しょうがないか。」
店のカウンターには、あの御守りが飾られている。
御守りは、日差しの無い空を寂しそうに眺めている。
店の奥に戻ろうとした時である。
再び店のドアの鐘が鳴る。
振り返ると、一人の女性が雨に濡れ、窓越しに雨空を眺めている。
「あ〜あ、とうとう降ってきちゃった。どうしよう・・・。」
(ただの雨宿りか?)
とりあえずカウンターに戻ってみる。
「いらっしゃ・・・?!?あ〜、店の床が水浸しに!」
僕は慌てて床を拭く。
「えっ、あっ、す、すいません。すぐ拭きます。」
女性が慌てて床を拭こうとすると、カバンが僕の頭に直撃する。
「!?ったぁ〜。」
驚いた顔をした彼女は、謝り始める。
「ご、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
そんな彼女の言葉に耳も貸さず、黙って床を拭く。
「す、すいません。」
僕は、少し膨れ面で応える。
「雨降りなので、雨宿りも結構ですが、営業妨害だけはやめて下さい。」
「!?わ、私がいつ営業妨害をしたんです?」
僕は、床を指差す。
「・・・。い、今、謝ったじゃないですか?それに、床が少し濡れたぐらいで・・・。」
僕は顔をこわばらせ彼女に言った。
「食べ物を扱っている店にとって、店の中は常に綺麗なイメージが必要なのに、入口がびしょ濡れになった店に入ったお客さんは、どう思いますか?」
彼女は、そっぽを向きながら聞いている。
「僕達は、遊びでパンを売ってる訳じゃないんです。」
僕は、床を拭き終えると店の奥へ向かった。
彼女は、そんな僕を気にかけながらも、ふと店内を見渡す。彼女は、並べてあるパンを覗き込むと思わずパンの匂いに酔いしれてしまう。
(すごく懐かしい香りがする・・・。)
店の奥へと向かった僕は、少し色あせた傘を取り出し店内へと戻る。
「古いけど、良かったら使って下さい。」
何事もなかったかのように傘を差し出す。
「えっ!」
彼女は最初は少し戸惑ったが、彼の好意を受ける事にする。
「あ、ありがとう・・・。」
(ボロいけど、この際しょうがないか。)
「気にしないで下さい。困った時はお互い様ですから。」
(早く、傘持って出て行ってくれ。)
二人はお互いに顔を見合わせ苦笑い。
彼女がドアを開け店を出ようとした時である。
「ねぇ、ちょっと。」
僕は不意に彼女を呼び止める。
「まだ何か?」
不機嫌そうに振り返る彼女。
「これ、持っていきなよ。」
紙袋を一つ彼女に渡す。
「何ですか、これ?」
「あなたが先ほど見てた、葡萄パンです。」
「見てなんかいないわよ。要らないわ!」
「いいから!店に来てパンを持たずに帰った人はいないんだ。金はいいから、持ってってくれ。」
しょうがなさそうに彼女は、紙袋を受け取ると、雨の降る外へと駆け出した。
「あんな客初めてだ!ったく!塩まいとこ。」
雨の中を駆け出した彼女は、膨れた顔をしながら歩いていた。
「ホント、腹が立つわ。謝ったのに、あんな態度。パンを持っていけですって?こんなの要らないんだから!」
彼女が紙袋を投げ捨てようとした時だった。
「クゥ〜。」
腹の虫がおさまらないどころか、鳴いている。
「ま、まぁ、せっかくくれたんだからね。あいつが持ってけって言ったんだから・・・。」
彼女は、立ち止まり紙袋からパンを取り出した。
甘い葡萄の香りが、彼女の鼻飛びつく。
ゆっくりと口にパンを運び、ひとかじりする。
あまりの美味しさに彼女は、目を丸くする。
「えっ、パンってこんな味するの?」
思わず後ろを振り返る。
彼女は、ひとかじりしたパンを見つめ、少し笑みを浮かべる。
再び歩き始めた彼女のバッグの赤い鈴が辺りに鳴り響く。
二人の運命の歯車はこうして再び動き始める。




