雨の日の記憶
(プロローグ)
狭い路地裏を、一人の少年が、颯爽と走る。
あれは12年前、僕が9才の頃の話になる。
代々パン屋を営んできた家系の長男として、生まれてきた僕は、店の手伝いとして、パンの配達をしていた。
父の作るパンは、味が深い事で、街ではちょっとした評判があった。
父の友人は、父の作るパンに惚れ込み、経営しているレストランに配達を依頼してくるようになった。
こうして、父の作ったパンを毎日、僕がレストランに届けていた。
お店では僕の届けたパンをほおばって喜んでいる。
そんな人々をガラス越しに見ると、自分まで幸せに感じていた。
(そのパン、美味しいでしょ!僕の父さんが焼いたパンだから、当たり前だよ!)
な〜んて、心の中で一人呟いていた。
僕の父は、パン屋の四代目にあたる。
家族は母と僕、あと五才になる妹で四人家族だ。
普段は優しい父だが、パンの事になると、とても厳しかった。
まだ小さな僕に、本気で怒りながら教えていた。
妥協と言う言葉は無かった。
パン作りに関して、父の言う事は、絶対だった。
そんな父の教えに、泣き事言わず一生懸命やっていた。
父がパンを焼く後ろ姿は僕の憧れだったからだ。
いつしか自分も、父のようになるんだと・・・。
なんとか上手に出来ると、心から喜んで見せる父の笑顔が、僕は大好きだった。
古くて小さなパン屋。
決して裕福とは言えない暮らしだったが、僕達は幸せに暮らしていた。
季節は、6月になったばかり。
今日も空は、どんよりと曇っていた。
今にも雨が降ってきそうな天気である。
そんな曇り空を見上げ、母の作った手作りのバッグを肩に、いつもの裏街道を走り続ける。
裏街道を走り抜け、表参道にさしかかった頃、とうとう空から飴玉ほどの大粒の雨が降り始めてしまう。
僕は慌てて、バッグを濡らさないように抱きかかえ近くの小さな店陰に入った。雨の降る空を見上げながら、母作ってくれたバッグが濡れないように抱え込む。
初めて自分の為に、作ってくれたバッグを僕は大切にしていた。
とても濡らす事など出来なかったのだ。
ほんの小さな子供心だ。
バッグには、青い鈴と綺麗に装飾した胡桃の御守りがぶら下がっている。
これは、以前お祭りで買ってもらった、大切な御守りである。
綺麗にあしらった胡桃は、天気のいい日に空に翳すと、青い鈴と重なって七色に輝く。その輝きを見る度、辛い事など吹っ飛んでしまう。
僕は抱えていたバッグから御守りを外し、空に翳してみる。
七色に輝かない雨の日は、寂しく思える。
御守りをバッグにつけ、雨空を時折覗いてみる。
(やみそうない・・・。)
色鮮やかな傘をさし、通り過ぎる人々を何度も眺めながら、雨がやむのを待ち続けていた。
いくらか時間が過ぎ、小さな視線を不意に横に向けてみた。すると、反対側の店陰に髪をおさげにし、可愛いらしい服を着た少女が、同じように、雨宿りをしていた。
小さなバッグを肩に掛け、不安げに雨空を眺めている。
(同じ年ぐらいかな・・・?)
そんな事を思いながら、少女を見ていると不意に目が合ってしまった。
大きな澄んだ瞳をした少女は、僕を見てにっこりと微笑んだ。
そんな少女の仕草に、僕は急に恥ずかしくなり視線をそらす。
そんな僕の態度を見て、少女はクスッと笑みを浮かべていた。
少女の笑みを気にせず空を眺めていると、少女から話しかけられる。
「雨、止まないね。」
少女の言葉に気付かないふりをする。
「笑った事怒ってるなら、ごめんね。一人だったから、寂しくて・・・。」
少女の大きな瞳が、小さくなり悲しく見えた。
「早く雨止むといいね!」
僕は、不意に言葉を出す。
少女は、僕の言葉を聞いて、眩しいぐらいの笑顔を見せ応えた。
「うん!」
そんな少女の仕草を見た僕は、体中が熱くなりだした。
(何だろう、この感じ・・・。)
「私ね、雨の日は嫌いじゃないんだ。だって、いろんな色の傘が沢山見れるから・・・。何だか嬉しくなっちゃうんだ。」
そう言われると、僕自身も通り過ぎる人々の傘を眺め、いろんな事を考えてた。
次に来る人は、どんな人だとか、傘は何色が多いとか、普段は考えない事まで、考えていた。
僕は思わず、笑みを浮かべてしまう。少女は、僕の顔を見ると、嬉しそうに雨空を見上げていた。
何気ない会話を続けいると、少女の母親らしい人が、傘を持ち慌てて、迎えに来たみたいだった。
少女は、母親の姿を見ると嬉しそうに、母親に抱きついていた。
そんな光景を見た僕は、少し寂しさを感じていた。
少女の小さなバッグから、微かに鳴り響く鈴の音が聞こえる。
赤い色しか見えなかったが、何故か耳にいつまでも残っていた。少女は、母親から傘を受け取ると、空めがけ勢いよく赤い傘を広げた。
僕の方をチラッと見ると、笑顔で手を振った。
僕も小さく手を振り、笑顔で見送くった。
少女は母親の手を握りしめ、時折僕の方を振り返りながら、雨のカーテンへと消え去っていった。
僕はまた一人、店の陰に身を潜め、雨が止むのを待っていた。
少女との会話を思い出しながら待っていると、しばらくして、雨が止んだ。
通り過ぎる人々は、傘をたたみながら、歩いていた。
まだ、曇り空の広がる空を見上げた後、僕は、家族の待つ家に向かってまた走り出した。
小さな水たまりをよけながら、僕はまた走り始めた。
少女の笑顔を何度も思い出しながら・・・。
そんな、遠い雨の日の記憶である。