《龍操りし者、蝿の王と対峙す》
やぁ、遅れたよ。
え? 生きてたのかって?
やだなぁ。ある意味死んでたよ
数刻前ーーーーーー
話はまだ地面が無事だった時間に戻る。
幻真はベルゼブブに接近戦を挑もうと剣を構えて近づくが、彼女はそれを拒否し、彼が近づこうとするたびに距離を取った。
「逃げるな!」
『ペロン。嫌だよ。私は近距離戦闘は苦手なんだ』
それでもベルゼブブは何度か接近を許すが、見た目に似つかわしく、素早い動きで幻真を翻弄していた。
「くそッ! お前に時間をかけてる暇は無いんだよ!!」
『私は時間をかけてもらわないと困るんだ』
逃げながらベルゼブブは超音波を発し、どこから湧いたのか虫の大群が現れた。ただ、そこらの普通の虫ではなく、もはや妖怪や怪物と呼べる大きさの虫達であった。
怪虫達は耳障りな羽音を鳴らし、一斉に幻真へと襲いかかった。
「邪魔だ!」
真神剣を強く握ると紫色に燃える炎が刀身に纏う。炎は幻真のある感情に呼応するように強く強くメラメラと燃え上がっていた。
一匹の怪虫が眼前まで迫った。それを冷静に斬りつけた。だが、不思議なことに斬れた音はしなかった。代わりに聞こえたのは《噛む音》。
斬ったはずの怪虫は何かに噛みちぎられたように半身を残して消えていた。耳障りな断末魔の鳴き声と共に地面に落ち、噛みちぎられた跡から緑の血を垂れ流した。
「暴食 真神剣」
幻真は暴食の炎を刀身に纏わせていた。暴食の力は全てを喰らう。
存在も、世界も、概念も、全てだ。
何もかもを喰らい尽くす力を秘めた大罪。
ーーーーーー《暴食》ーーーーーー
襲い来る怪虫を地面ごと喰い斬り進む。
感情の炎を扱い、周りのものを喰い散らかす、その姿を自分と重ねたのかベルゼブブは唇を噛み締めた。
『バカな男。自分から怪物に近づくなんて』
「これはアルマに教わったんだ! 怪物になるわけないだろ!!」
そう叫び、幻真は暴食の剣を振り下ろす。だが、寸前のところをベルゼブブは避けると口元を吊り上げて耳元で囁いた。
『そのマスターも怪物になっていたとしたら?』
「は...?」
一瞬、たった一瞬の油断。幻真の動きが鈍った。それを見逃さなかったベルゼブブは彼の背後に回り込んだ。
ガブリ。
そんな音がした。
同時に叫び声がこだまする。
「がぁぁああぁぁぁ!!?」
尋常じゃない量の血を腕から垂らし、今にも千切れそうな手から暴食の剣が離れ、音を鳴らしながら地面に落ちたると炎が消えた。
そして、まだ残っていた虫達が幻真の体に噛みつき肉を喰い千切る。
全身から痛みが走るが、気合いでそれを耐え体から暴食の炎を放出した。炎によって噛み付いていた虫は喰い燃やされたが、食い千切られた箇所からは血が止まらず流れていた。
流石の幻真も膝をつき、千切れかけの手を揺らしながら激しく呼吸をする。
「まだ...まだ俺は...やれるぞ...!!」
地面に落ちた真神剣を握り、立ち上がろうとするが気付けばベルゼブブは目の前に立ち、不敵に笑っていた。
「なっ!?」
気づいた時にはもう遅い。ベルゼブブは羽を擦り合わせた。すると、彼女を中心に巨大な音が発せられた。
突然だが、音とはどういう原理で五感として感じることができているかご存じだろうか? まあ、当たり前のことなので説明するまでもないとは思うが。
音とは大気中に振動として広がり、耳の中にある鼓膜がその振動を受け取り脳が解析して初めて音として認識する。何が言いたいのかというと、音は微弱ながらも振動する。それが数十倍、数百倍の振動を伴う音だとしたらどうする?
そう。ベルゼブブが発した音は地面を割るほどの振動がこもっていた。言うなれば破壊の音。
『暴食 鳴り響く腹の虫』
もはや、どんな音かも分からない。それ程の振動。超音波にも等しいそれはベルゼブブを中心に直径数百メートルのあらゆる物を破壊した。
爆心地とも呼べるベルゼブブのすぐそばにいた幻真は鼓膜どころか内臓にもダメージがあった。
「あ...が...」
耳から血が垂れ、音という衝撃に脳までもが揺れた幻真は意識が朦朧とし、思考がままならない状態となっていた。
況して鼓膜が破れ大雨が降っているかのようなザーザーという雑音だけが彼の耳に響く。視界も歪み、聴覚もイカれた状態で彼にどう戦えというのか。
『さて、もう終わりみたいだし、私のお腹の中でおとなしくしててもらうよ? なぁに劇が終わったら吐き出してあげるさ。それじゃあ...いただきます』
そんなベルゼブブの声も今の彼には雑音のようにしか聞こえていない。
口元が裂けていき、人一人を容易に飲み込めそうなほどに大きく開いた口は幻真を丸呑みにしようとしていた。
その時だ。
絶体絶命の状況下。彼に救いはないのか? もうここで終わってしまうのか?
いいや。終わらないね。なぜなら、面白くないじゃないか!
そんな声が幻真の耳に聞こえた。
鼓膜が破れても音は多少聞こえるらしいが、それでもここまで鮮明に聞こえるのはおかしい。疑問と共に湧き上がる感情に彼は目を見開いた。
彼の肩に紫色の炎が灯る。それは獲物を求めるように全身に飛び火した。
メラメラと燃え広がる炎は腕の形を成し、ベルゼブブの口が閉じるのを防いだ。
『感情の炎...!』
「誰か...中にいる...?」
『まだ抗うんだ。けど、もう終わるよ!』
ベルゼブブは顎の力を強めると、炎の腕は徐々に押されていた。
だが、気のせいか? 幻真に灯った炎が強くなっている? 燃料を投下されたように炎はメラメラと燃え上がっていた。
その炎はベルゼブブに届き、彼女の体に燃え移った!
『感情の炎が強まってる!?』
燃える燃える。どんどん燃える。
心の底から燃え上がる。君の暴食の炎は他の感情を燃料にして燃えていく。そして、最終的には暴食だけとなり君を食欲のままに全てを喰らう怪物と変えるだろう。だからもう諦めなよ。
「誰だかしらねぇが...俺は...まだやれるんだよ!!!」
謎の声に向かって幻真が叫ぶと同時に感情の炎は勢いよく燃え上がる。他の感情を燃やしながらーーーーーーー
「喰らえ! 焔雷 ボルケーノサンダー!!」
炎と雷を纏ったレーザーが幻真の手から放たれた。
しかし、本来の技と様子が違い、纏っていたのは紫色の炎と紫色の雷であった。彼の放った攻撃は暴食が色濃く現れ始めているようだ。
本人はそれに気づいているのか否か。まあ関係ないだろう。
目の前の敵を倒すことができればいいのだから。
暴食を付与されたレーザーはそれを食らおうとしていたベルゼブブの口を抉った。
『ぐぃっ!?』
変な声をあげ、幻真から距離を取るべく後ろに飛び退くと彼を睨んだ。
『やってくれるね...!!』
「そう簡単に負けるつもりはねぇよ!」
超技術の一つ、縮地でベルゼブブの懐に入り込むと冷気を放つ竜巻を起こした。
「凍風 フリーズトルネード!!」
至近距離で起きた竜巻をベルゼブブは避ける暇もなく完全に巻き込まれてしまった。
竜巻の中では氷の粒と風の刃が彼女の体を切り裂いていく。風による切り傷は微々たるものだが、氷の粒は肉を抉る威力を持っていた。
この状況はいかに怪物だろうとただでは済まないだろう。
『調子に...のるなぁぁぁぁ!!』
だが、流石は怪物と言うべきか、竜巻の中で大きな舌を我武者羅に動かすと、竜巻を舌で文字通り舐めとった。
「舌で竜巻を消した!?」
『図に乗るなよイレギュラー!! 貴様のチンケな暴食が私の暴食を上回れると思ったのかっ!!』
幻真の暴食に即発されたか、ベルゼブブの体にも感情の炎が灯る。それは彼の炎よりも強く燃え上がっていた。
『マスターの命令は邪魔をさせるな、それだけ。なら死なない程度に痛めつけても問題はないよね?』
「ここから本当の戦いってことか...!」
『戦い? 違うよ。これは...』
ブチッーーーーーーーー
『一方的なイジメだよ』
ギリギリで繋がっていた幻真の腕が彼から離れると同時に甚振りが始まった。
それはベルゼブブが言ったように一方的なものだった。
まず彼女は大量出血で死なないように傷口は全て焼き塞いだ。
炎で焼かれた事による叫びすら上げることも許されず、頭を鷲掴みにされ、何度も何度も地面に叩きつけ、卵に亀裂を入れたかのように頭蓋にヒビが入った。
頭から血が流れ出ると今度は腹部に小さな針が刺された。それはゆっくりゆっくりと何かを注入した。
ベルゼブブはニタニタと笑っている。その笑みの意味を幻真が気付く前に注入されたモノの効果が現れた。
幻真は叫んだ。痛みに叫んだ。ベルゼブブは今は一切触れていない。ちょっとした振動でも痛みを感じているように彼は叫んだ。
『痛い?』
「あ、ぎぐ...がぁぁぁ!!?」
『まあ、声を聞くだけで痛いし、声を発するだけでも痛いよね?』
先程注入されたものは、対象者の体を決して死なないように細胞を作り変える。そして、全ての感覚が痛みに変わってしまう恐ろしい毒だ。死を無くされた彼の体には当然ショック死がない。痛みにどれだけ苦しもうと死と言う道は彼には選べない。
もう考えることすら痛みになる。思考するだけで彼の体には痛みが生まれる。彼の中には死にたいという感情が生まれつつあった。
暗い...とても暗い...黒でも灰色でもないその炎は見つめた者の魂を喰らってしまいそうなほどに深く恐ろしい色をしていた。
炎が幻真の体を包み込むと彼の中から毒が滅んだ。
炎の色が象徴する感情に気付いた時、ベルゼブブは全身を恐怖で震わせた。
あの魔王ですら使うのを恐れる最凶の感情。
《死欲》
死を求めすぎた愚者に生まれてしまったこの感情は自分以外の生者を死に引き込む最強最悪の感情。
大罪、枢要罪すら越える罪の感情は誰も止めることができない。
「もう痛くない...けど...なぜこんなに死にたいんだろう...」
『まずいなぁ...このままじゃマスターの計画が全部パァになっちゃう...!』
ベルゼブブは怪虫をもう一度呼び集めると幻真に襲い掛かるように命令を発する。しかし、怪虫達が彼に攻撃をすることは叶わなかった。
何故なら幻真のある一定範囲に入った途端に怪虫達はほぼ同時に地面に横たわったのだ。
『くっ! 流石は死欲...!』
「俺は...死に......違う...!!」
何かに抗うように幻真は頭を抑えた。
同時に彼に灯っていた死欲の炎に鮮やかさが戻り、炎は完全に色を変え、暴食を象徴する紫色へとなった。
「俺は......ぐゥ...!」
だが、様子がおかしい。
眼は血走り、口からは涎が垂れ、気のせいか牙が見える。爪も少し尖っている? 今の幻真を例えるなら空腹の獣のようだった。
幻真の全身から紫炎が溢れ出すと、ベルゼブブは青ざめた。何故なら、自分が考えていた最悪の展開が起ころうとしていることに気づいたからだ。
『怪物に...なったのか...?』
死欲の炎によって全ての感情を燃やされた幻真だったが、どういうわけか暴食の感情だけが色濃く残り、死欲の炎を喰らい燃え上がった。
結果、彼の中に残ったのは暴食の感情だけ。
これは感情解放ではない。純粋な、そう、ただ純粋な怪物へと成り果ててしまった。
「ギグ...グァァ!!」
紫炎を灯した右手を振り上げ、爪で引っ掻くようにベルゼブブへ振り下ろした。
その動作は本来の幻真の動きとは程遠い獣の動きとなっていた。容易に攻撃を避けたベルゼブブは自分の代わりに抉られた地面を横目で見る。
地面に付いた爪痕には紫炎が灯り、獲物を狙うようにユラユラと揺らいでいた。
『本能で炎を操るか。戦闘の才はマスター以上だな』
「グガァ!!」
『だがーーーーーー』
先ほどと同じように両腕を振り上げて襲いかかる幻真の攻撃をかわし、懐に潜り込みベルゼブブは拳を握り込んだ。
『動きが雑すギぅ!?』
言い切る前に幻真には本来あるはずのない尻尾が彼女の腹を貫いていた。
『な、何故...! ここまでの力が...!!』
腹を貫いたまま尻尾を動かすとベルゼブブを地面に叩きつけた。それは何度も何度も肉を柔らかくするかのように叩きつける。
腕や足がぐちゃぐちゃに折れ曲がっても、それは止まらない。
『ギ...ギザ...まぁ...!!』
ベルゼブブから憎悪の念を感じたのか、はたまた気まぐれか、幻真は彼女を叩きつけるのをやめた。
血を吐き、骨も粉々に砕け、息絶え絶えといった様子の彼女を品定めするように尻尾を動かしながら観察していた。ジロジロと見つめながらヨダレが垂れた口をゆっくりと動かし、呟いた。
「ニク......ヤワラカ...ナ...ニク...?」
『......は?』
ベルゼブブは耳を疑った。
在ろう事か、この怪物は自分の事を『ニク』といった。そう『肉』だ。先程、比喩的な表現で肉を柔らかくしているようだと言ったが、あれは本当に柔らかくしていた。
なぜ? まず初めにベルゼブブの頭に浮かんだのはその疑問。
なぜ自分を柔らかくする必要がある? トドメを刺すなら頭を砕くか、心の臓を貫けばいい。なのに何故柔らかくする意味がある?
彼女の中で疑問が渦巻くが、それはただの現実逃避だ。気づいていた。彼女はもうすでに気づいていた。故に信じたくない。気のせいであってほしかった。
彼は
こいつは
これは
この怪物は
『自分を調理している』
気づくのが遅かった。いや、わかっていたはずだ。
暴食の怪物となった幻真に残されているのは空腹感のみ。故に相手を敵ではなく自分の空腹を満たす獲物、または食い物としか見えていない、いや見えないのだ。
今の彼にはもう、仲間であろうと、友であろうと、家族であろうと、最愛の人であろうと、ただの食い物にしか見えていない。
『は...はは...! 私が食料か...お腹を壊してもしらなーーーーー』
声はそこで途切れた。
その後に聞こえるのは何かをちぎる音と砕く音、そして、咀嚼音。
ぶちっ...ばきっ...くちゃ...ぶちっ...ばきっ...くちゃ...ぶちっ...ばきっ...くちゃ...ぶちっ...ばきっ...くちゃ...
数分...数十分、いやそれ以上に感じられる時間。一定のリズムを刻むように音が響いていた。
音が止むと、怪物は赤い液体が滴る口を腕で拭い立ち上がった。そして、目の前の光景を見て目を見開いた。
「俺が...やったのか...?」
暴食の感情に流されるままにベルゼブブを食らった事実が幻真の頭に深く刻まれていく。
気持ちが悪い...
吐き気がする...
頭痛もする...
側から見れば彼が勝利したように見えるだろう。事実、彼は勝った。だが、後味が悪過ぎた。
しかし、ここで止まる訳にはいかない。彼は止めなくてはいけない友人がいる。さぁ、顔を上げて進むんだ。でないと幻真くんはーーーーーー
『私にたべられてしまうから』
気づいた時には遅い。
地面から現れた口に幻真は足を噛み千切られた。
痛みに叫ぶ気力もないのか、それとも神経が麻痺したのか彼は虚ろな目で先のない足を見つめた。
『おやおや、もうお疲れかい? 私はまだ生きてるよ。まあ、その様子じゃあ何を言っても無駄か。それでは今度こそいただきます』
大きく開いたベルゼブブの口を幻真は呆然と見つめた。
だが、一向に口は閉じず自分は飲まれない。この現象に幻真はあることに気づいた。
「時間が止まってる...?」
『それはそうさ。俺が止めたからな』
背後から聞き覚えのある声がすると幻真は後ろを振り返る。
そこにいたのは、なぜか顔だけが認識できない人物がいた。声と見た目からして男と思われる。
『しかし、ベルゼブブもやるねぇ。ずっと自分の分身を戦わせてたとはな』
「分身...!?」
『気づいてなかったのか? 最初に虫を放った時に既に入れ替わってたぞ。そして、あの分身体は麻痺毒を持った個体だった。故に食らったお前は痲痺ったってわけ』
どこか呆れた様子の男は幻真に向けて指を鳴らすと、幻真の体から緑色の光が溢れた。そして、彼の傷だらけの体は完全に修復された。
「傷が...! お、お前は誰だ!」
『今は知る時ではない。とカッコつけてみる』
「...は?」
『アッハッハッハッハ!! すまんな! 冗談を言っただけだ』
男は腹を抱えて笑っていた。幻真は何が面白いのかわからず、口を開けてポカンとしていた。
その顔が男のツボにハマったのか、膝を叩きながら更に笑っていた。
『イヒヒ! いやぁ、お前は反応がいいぜ! と、こんな茶番はどうだっていいんだよ』
「自分から始めといて何言ってんだよ...」
『シャァラァップ! そんな模範回答を聞きたいわけじゃないんだよ! 俺はお前に聞くことがあんの!』
「聞きたいこと?」
一回咳払いをした後、男は真剣な面持ちで幻真に問う。
『お前さぁ...何してんの?』
突然の質問である