私は私の枠からはみ出さない (某美術部小説番外編)
それはまだ、兄さんがバスケ部のキャプテンだった頃の話。
「今日の練習試合の相手、どこなの?」
トースターに二人分のトーストを放り込みながら訊けば、兄さんはコーヒーカップを持ち上げる手をちょっとばかり止めて簡潔に答えた。
「多賀山高校」
「強いの?」
「んー……普通かな」
午前八時。家にいるのは、私と兄さんの二人だけ。お父さんもお母さんも日曜日だというのに今朝は早くから用事があって――めんどくさいとかこれだから町内会はとかお暇なお年寄りが暇つぶしをしたいだけだろうとか、実に働き盛りで毎晩帰りの遅いサラリーマンらしい愚痴をこぼしながら、それでも町内会の集まりに出なければならなくて――とうに家を空けている。
「早音も試合見においでよ。そしたら、相手校が強いかどうかわかるだろ?」
にっこり提案した兄さんに、私は条件反射的に切り返した。
「嫌」
「なんで?」
「行こうものなら、兄さんの使いっぱしりにされちゃうんだから。これまでだって、応援できたためしなんてないでしょう」
「俺って、そんなに人使い荒くはないと思うけど」
「荒いわよ」
「語弊があるなあ。だって俺の目には、使いっぱしりというより、早音は自分から動いてくれているように見えるんだよね。例えば、相嶋にタオル渡したりだとか」
「…………」
「スポーツドリンク用意してたりだとか」
「…………」
否定はしない。
「俺があれこれ言う前に、早音のほうがやってくれているように思えるのは気のせいかな。俺があれやっておいてって言ったら、『それはもうやったわよ、人使い荒いわね』って」
「……気が利くって言いなさいよ」
「いやいや、感謝してるんだよ。これでも」
「そうは聞こえないもの」
トーストがこんがり焼けて、チンとベルがなる。兄さんの前にトーストの載ったお皿とバターを突き出して私は席についた。
「どうせ、兄さんたちのバスケ見に行ったらずっと応援なんかしてられないのよ。手伝わなくちゃ、いけない気がするじゃない」
「キャプテンの妹だから?」
「そう」
「そんなの、気にしなくてもいいのに」
「私には黄色い声でキャーキャー応援する趣味はないの」
「相嶋、もちろん出るよ。レギュラー筆頭だしね」
また、その名前を出す。兄さんは悪趣味だ。
「『瞭ちゃん、頑張ってー』ぐらい、言えばいいのに」
「そうやって瞭ちゃんを応援したがる女の子は、ほかにいくらでもいるわよ」
「うん。うるさいくらいにいるね」
兄さんは私の複雑な感情に気づいているくせに、こうしてからかう。実に楽しそうに。サディスティックだとすら思う。
「私はそういうのが嫌なの。だから行ったとしても応援しないで、兄さんの使いっぱしりになる道を選んでしまうのよ。結論、今日の試合を見に行ったりしない」
冷たいココアをかき混ぜながら言ったら兄さんが噴き出した。
「よくわからないなあ」
「わからなくてけっこうよ」
「相嶋のことがそんなに癪なら、『お兄ちゃん頑張ってー』って言ってくれればいいのに」
「気色悪いわ」
「俺も早音が実際そんなことするかと思うとちょっとぞっとする」
「ぞっとする」なんて言いながら、兄さんは言ってほしそうに期待を込めた目で私を見る。けれど、その期待に気づいた素振りなんて見せてやらない。私はアプリコットジャムを塗りつけたトーストにかぶりついた。
「なら、言わなければいいのに」
ばりり、とパンの耳が香ばしく鳴った。
「兄さんだって、度の過ぎる応援には辟易するでしょう? 兄さんがシュート決めるときゃあきゃあ喚くのだとか、靴箱にラブレターが詰め込まれるのだとか」
「うん。辟易する」
「相手が嫌だと思うことを、わざわざ私がやる必要ないじゃない」
「黄色い声で女子にもてはやされるのが好きな奴もいるから、一概には言えないけどね。ちなみに俺だって、舞衣子が俺のために応援してくれるんだったら、大歓迎だし。相嶋も、応援してくれるのが早音だったら悪い気はしないと思うよ」
「舞衣子先輩は別格でしょう。瞭ちゃんにとっての私は、兄さんにとっての舞衣子先輩とは違うの。小学生のときからの、ただの腐れ縁なんだから」
席を立って冷蔵庫を開けて、冷えた巨峰を取り出した。野菜室の冷気が、火照った頬をほんのり冷やしてくれたのはありがたかった。
「腐れ縁だけじゃないとすれば、それは、大いに尊敬する隼人先輩の妹って肩書があるくらいよ」
そう。昔も、今も。
そしてきっと、これからも。