理由 (某美術部小説番外編)
美術室のドアを開けたら、早音先輩が電卓をたたきながらうめいてた。
「……何してんですか?」
「計算してるのよ」
「そんなの見りゃわかりますよ」
「あなたたち新入部員の歓迎会費用に回せるお金を算出してるのよ」
早音先輩の隣で、キャプテンの依田先輩がにっこりと笑った。
「貯めてあった部費を計算してるんだけどね、早音ちゃん、なかなか計算が合わなくって。もうちょっとで終わると思うから、平坂くんはその辺に適当に座ってて」
「できた! 合った、合った! 斗和子、費用三千円は大丈夫だわ」
「あ、終わったみたい」
早音先輩は両腕をばんざいするみたいに突き上げて、天井を仰いで伸びをした。「お疲れ様」と依田先輩にねぎらわれて、早音先輩もやっと微笑う。その笑った目がすごく好きだなんて、俺が言っても、早音先輩はきっと信じてくれない。
「今からコンビニに行って歓迎会用のお菓子を買ってくるんだけど、何かリクエストある?」
振り向いた依田先輩に、俺はポテトチップス系がほしいと答えておいた。早音先輩は鞄から財布だけを取り出してもうドア口に立っている。
「園井くんは何がいい?」
「えっと、チョコレートで何かあれば、嬉しいです」
その声ではじめて俺以外に一年が誰かいたんだと気がついた。声のしたほうを見遣ってみれば、水入れやら筆入れやらが積み上げられてる水場のすぐ近くに、色素の薄い髪色の、眼鏡をかけたおとなしそうな奴が座ってた。きっと根っからのインドア派なんだろうって確信できるくらいに白くて、細っこい。
「じゃあ、ちょっと買出しに行ってくるあいだ待っててね。写真集とか画集とかその辺の作品とか、適当に見ててくれていいからね」
キャプテンがひらひらと俺たちに手を振って、早音先輩と一緒に美術室を出て行く。俺たちは開始時間よりも早く来過ぎたのか、ほかの新入部員がやってくる気配はなかった。
すぐそばで、テニス部の掛け声が聞こえた。美術室のすぐ外側は、グリーンネットをはさんでテニスコートになっている。新入部員は早速球拾いに駆り出されてて、そいつらの背後、フェンスの向こうでは野球部らしい坊主頭の列がランニングしてた。
運動部の掛け声が、サッカー部のホイッスルが、静かになった美術室にむやみに響く。それにときどき、ブラスバンド部の音楽が混じって聞こえた。
「君も一年なんだよね?」
不意に、園井と呼ばれてた奴が、俺のほうを向いて意味もなくへらへら笑いながら言った。あんまり得意じゃない分野の人間だと思ったけど、俺は一応うなずいておいた。
「僕は園井靖一郎。よろしく」
「俺は平坂。おまえ、どこのクラス?」
「B組」
「遠いな。俺はFだから」
「平坂君はどうして美術部に入ったの?」
なんでもない会話の延長線でこいつは当りさわりのない話題を続けたつもりだったんだろうけど、俺は一瞬返答につまった。だから、問い返してみた。
「じゃあおまえは?」
「僕はやっぱり、絵を描くのが好きだから。別に芸術系の大学に進みたいとかじゃなくて、ただ単に趣味なだけなんだけど」
――順当な理由だ。普通、この園井みたいに、絵を描いたり物作ったりするのが好きな奴が、美術部に入るんだと思う。でも、俺は違うんだ。
「平坂君も絵を描くのが好きだから?」
「俺は……職員室前の、部展を見て。それで、入ろうと思ったんだ」
嘘は、言ってない。早音先輩の絵に出会って、そして、先輩が微笑ってくれて。それがなくちゃ俺は今ごろきっとサッカー部員だ。最初はサッカー部に入部するつもりだったんだから。だから部展の話は嘘じゃない。
「ああ、ちょっと笑っちゃう絵もあったけど、なかにはすごいのもあったよね。僕は六号キャンバスの犬の油絵が好きだなあ。キャプテンが描いたらしいけど」
「俺は青い鳥の絵がいいと思う」
「うん。きれいな色だったよね。アクリル絵の具だからきっと発色がいいんだ」
早音先輩の絵の色がきれいなのは絵の具の発色がいいからとかそんな理由じゃないと思ったけど、アクリルがどういう絵の具なのかわかんねえ俺は余計なことを言って馬鹿にされるのが嫌だったから、黙っていた。
そのうちに複数の足音が聞こえてきたから早音先輩たちが帰ってきたかと嬉しくなったけど、ドアを開けたのは俺たちとおんなじ一年の新入部員の集団(しかも女子)だった。静かだった美術室が一気にやかましくなって、たまらなくなって、俺は園井を残して廊下に出た。窓から身を乗り出すと、正門の前の階段を早音先輩とより他先輩が上ってくるところが見えた。俺の体は勝手に、靴箱へと走っていた。
さあ。今すぐ迎えに行って、早音先輩の右手の重たいペットボトルを持ってあげよう。