再出立
「なんでこうなるかなあ」
蘇芳猛は、公園のベンチでそう独り言を呟く。
彼がいる公園は、平日の午後一時過ぎということもあって周りを見る限りスーツ姿の男性―三十路過ぎだろうか―一人しかいない。校外の小学校のグラウンドほどの広さの中に、二人だけというのも寂しいさまがうかがえる。
さらに、スーツの男性との距離も、猛が座っているベンチから前方およそ十五メートルの距離で、男性も猛と同じ型のベンチに、向かい合う形で座っている。
周囲からは、公園だというのに鳥の囀りや鳴き声すらない。時折、聞こえる音といえば、公園に沿って通っている道路を通行する車が発す、空気を裂く音だけ。そんなほぼ音もない状況のなか、十五メートルという距離はあるものの、二人だけで向かい合って座っているというのは、言い知れぬ気まずさがある。
「だいたい、あの人も呼び出しておいて遅刻ってなんだよ。あの人が時間決めたんだろうに」
はぁー、と愚痴と一緒にため息を漏らし、猛はベンチの背もたれに体重を預けて天を仰ぐ。
どうやら、猛は誰かとの待ち合わせで公園に来ているようだ。天を仰いでいた体勢から、正面を向く体勢に戻し、携帯をジーパンの右ポケットから取り出して時間を確認する。
「もう二十分過ぎてる」
また、はぁーとため息をつき視線を今度は正面に移す。すると、向かい合って座っているスーツ姿の男性と目が合い、男性の目が怪訝な目をしているのが見て取れた。「もしかして俺の独り言が聞こえてたのかな」、とそんな思慮に耽るが、だんだんと気まずさが大きくなり視線を外して、小さく咳き込むまねをする。
(なんで昼間っから、しらないおっさんと気まずくならないといけないんだ。)
咳き込むまねをやめ、視線を携帯に戻し、同じ失敗を繰り返さぬよう今度は、そう心の中で悪態をついた。
「気まずそうだねえ」
卒然と、抑揚のない声が後方から聞こえた。その聞き覚えのある声に猛は、声の発する正体を確認しようと、首を後ろに回す。
「うーん、平日の昼間の公園でいたいけな高校生と、哀愁漂う三十路過ぎの男性との一瞬の目線の交わり。そこからはじまる、求めてはならない恋。そんな箸に棒にもかからない、ボーイ・ミーツ・アダルトメーン。まあ、僕は人の恋路は邪魔しない主義だから安心してくれていい。しかし、君がそんな性癖の持ち主だとは思わなかった。いやいや、別に批判しているわけではないのだよ。このご時世、同性愛者などを批判したりするほうが時代遅れだからね。そうそう、そんな性癖の君にふさわしい、こんな偉人の言葉がある。『ゲイズ・ビー・アンビシャス』、とね」
「ツッコミどころありすぎてこまるわ! って時代遅れって何だよ!?」
突然背後に現れ、猛にツッコミと驚嘆の言葉を言わせたその人物は、白髪と黒髪というツートンカラーで、実際は三十そこそこなのだろうが、遠目から見ると十歳は老けてみえそうだ。今は七月というのに白衣を着ており、白衣の前を、安全ピンを二つ使ってとめていて、なぜか、本当になぜか、首に水玉模様の子供用水筒をぶら下げている。
この変な容貌の彼の、さらに詳しい説明をさせてもらえば、この白衣をきた人物は猛が通って”いた”、高校の養護教諭(保健医)である。名は八錦群雲といい、その高校ではちょっとした名物保健医だ。なぜ名物保健医なのかは、追々書こう―。
「はあ……、あんたの言葉にいちいちツッコミ入れてたら、会話がスムーズに進まないのでさっきのは聞かなかったことにします。まずはこれだけ訊きたいんですけど、もう待ち合わせの時間を三十分以上過ぎています。これには何か人を待たせるに足る理由が、もちろん、あったんですよね? 八錦先生。」
「ふむ。冒頭は『あんた』と、言っておきながら敬語、しかも締めには『先生』とは、君の言葉は支離滅裂だな。……ん? しり、めつれつ……。何か君にお似合いの言葉のよ」
「理由を言えよ!」
八錦が現れてから、会話のイニシアチブを完全に八錦にとられている猛。現在の八錦に目的の「理由」を喋らせるのは、非常に困難であり、猛はその困難な状況を打破すべく、執拗に八錦と問答をくりかす。だが、八錦の柳の木のような問答の返しに猛は、煩悶せざるをえなかった。
そんな、のれんに腕押し状態のころ、向かいのベンチに座っているスーツ姿の男性は、目の前で繰り広げられている白衣を着た白髪交じりの男性と、少々”気になっていた”高校生くらいの男子との喧噪を、口惜しそうな目で眺めていた―主に白衣を着た白髪交じりの男性のほうを―。
「だから理由を言えっていってんだよ! いい加減にしねえと、その首にかけてるひも縛り上げて、頸動脈の血流とめんぞ! だいたい、そっちが遅れたせいでこんな広い公園の中、スーツ着てるおっさんと二人になって、気まずくなってんだろうが! それをゲイだ、同性愛者だ、性癖だ言いやがって。全部お前が起こした事象だろうが、それを自分の面白いように勘違いしやがって。自作自演じゃねえか! このマッチポンプ野郎!」
「なんだ君は。『さっきのは聞かなかったことにします』と、言っておきながら結局、聞いていること、にしているではないか。はあ、男に二言はない、というのに……。ああ、そうか。君……いや、君の持っている性癖には二言三言もある、ということか。いやはや、いい勉強になった。私も保健医という聖職についている者として、現代の思春期の少年、少女が持つ性癖や、人格をきちんと把握せねばならん。時には、君と同じ境遇の生徒の悩みを、聞いてやらなければいけないときもあるだろう。その時にはこのことを教訓として、その悩みに対処、さらには善処、までさせてもらうよ。はっはっはっは」
八錦の揚げ足とり。そして、猛の怒りを煙に巻く発言に、猛は自分の頭の中のブチッ、という音を聞いた。
その音を皮切りに、はっはっはっは、じゃねーー、言いながら八錦の首元に下がっている子供用水筒めがけ、両腕を突き出した。その時の猛の顔色は緋色に染まり、あまりある憤怒で般若と見間違えるほどの表情。さらに、その首ひきちぎってやらん、という意思が満腔に満ち、その意思が体外に見え隠れしていた。
しかし、猛の怒気とは裏腹に、八錦は怜悧冷徹冷静……ではなく、ニコニコと戯画的表現がしっくりする笑顔でいた。その笑顔のまま、猛という猛牛―漢字が被ってしまったが―をヒラリヒラリと、これまた戯画的表現がしっくりするマタドールのような動作で、躱していく。ただ一つ悲しいのは、八錦が白衣の前を安全ピンでとめているため、ヒラリ加減が今ひとつ足りないということだ。