婚約破棄率100%の国で、ニセ悪役令嬢始めました
「ピンポンパンポーン。本日十七時三十分、中央広場にて第三王子殿下による婚約破棄が行われました。原因は『真実の愛の覚醒』。住民の皆様は、追放された令嬢を温かい目で見守ってください。繰り返します——」
街中に響き渡る夕方の定時アナウンスを背に、私、エリス・ライラック伯爵令嬢は深くため息をついた。
この国は、狂っている。
いや、正確にはこの『マリッジ・シティ』と呼ばれる王都の文化がどうかしているのだ。
この街では、十八歳までに最低一回は婚約し、公衆の面前で華々しく「婚約破棄」されることが成人の義務とされている。
『過酷な破棄劇を乗り越えてこそ、人は大人になり、真実の愛に辿り着く』という、狂った謎の法律のせいだ。
おかげで、街の夜会はいつだって地獄絵図である。
「お前のような悪婦とは婚約破棄だ!」「まあ! 冤罪ですわ!」という茶番が、毎日どこかのサロンで繰り広げられている。読書感想会くらいのノリで。
(……正気じゃないわ。絶対に嫌。なんで大勢の前で『悪婦』なんて冤罪をかけられて、晒し者にされなきゃいけないのよ!)
私は目立つのが大嫌いな、影の薄い伯爵令嬢だ。
幼い頃、親戚のお姉様が婚約破棄イベントでボロボロに泣かされているのを見て以来、私の心には深いトラウマが刻まれていた。
あんな風に大恥をかくくらいなら、一生独身で薄暗い部屋で壁のシミでも数えて暮らしたい。
だから私は、完璧な「気配遮断術」を身につけた。
今日も学園の裏庭にある、誰も来ない樹齢三百年の大木の影で、息を潜めて読書を嗜んでいたのだが──。
「見〜つけたっ! 僕の愛しいエリス!」
パンッ!! と派手な音を立ててクラッカーが弾けた。頭上に降り注ぐ、金銀の紙吹雪たち。
「げっ……ジークヴァルト殿下……!?」
光り輝く金髪に、宝石のように青い瞳。
この国の第一王子であり、学園のアイドル。そして、自他ともに認める『演出過剰の目立ちたがり屋』ことジークヴァルト殿下が、極上の笑みを浮かべて私の目の前にひざまずいていた。
どこから湧いて出たのか、背後にはヴァイオリンを奏でる謎の劇団員まで控えている。うるさい。
「何をコソコソ隠れていたんだい、僕の可愛い子猫ちゃん。探したよ」
「隠れるのは、私の趣味かつ生存戦略です。あとクラッカーを至近距離で鳴らさないでください。耳がキーンとします」
「ははは、相変わらず愛くるしい照れ屋さんだな!」
人の話を聞いていない。
嫌な予感しかしない私を余所に、殿下はジャジャン! と胸ポケットから巨大なダイヤモンドの指輪を取り出した。
「エリス! 僕と婚約しよう! そして、来月の成人式典の特設ステージで、国一番のド派手な『婚約破棄ショー』を繰り広げようじゃないか!」
「嫌です」
「大丈夫、演出にはもう手を打ってある! 巨大スポットライト五機、特効の花火五十発! 君が『冤罪ですわ〜!』と叫んだ瞬間に、天井から三万枚のバラの花びらが降ってくる手筈になっている!」
「絶対に嫌です!! 晒し上げのダメージを、演出で底上げしないで!!」
私は思わず絶叫した。
なんなの、この人!? 婚約破棄を何だと思ってるの!? 万博のフィナーレか何か!?
「殿下、私は目立ちたくないんです! 誰からも好かれず、誰の記憶にも残らず、日陰でひっそり生きていきたいんです! だから婚約なんて絶対しません!」
「ふふっ、そんなに僕との婚約が嬉しいのかい?」
「耳についてるそれ、ただの飾りですか!? 脳に音声が届いていませんよ!!」
私が必死に拒絶しても、殿下は「照れちゃって可愛いねぇ」とばかりに眩しい笑顔を振りまいている。だめだ、会話が成立しない。
「……はぁ。わかりました。そこまで仰るなら、婚約して差し上げますわ」
「本当かい!? やったね、さっそく演出家に連絡を──」
「ただし!!」
私は、びしっと指を突きつけた。
「私が完璧な『悪役令嬢』になって、殿下に心底嫌われてみせます! 殿下の用意したバカみたいな花火の演出なんて使わせないくらい、地味〜に、粛々と、サクッと破棄されて田舎へ追放されて見せますからね!!」
そう、こうなったら作戦変更だ。
王子に嫌われまくって、婚約破棄イベントそのものを「茶番」として不成立にさせてやる。
「いいね、悪役令嬢のフリかい? 君がどんな『悪事』を働いてくれるのか、今から楽しみで夜も眠れないよ」
殿下はどこまでも愛おしそうな目──というか完全に生温かい目で私を見つめ、私の手を取って甲に優しくキスをした。
♢
私の「悪役令嬢化計画」は、翌日からさっそく実行に移された。
狙いは『殿下に底意地の悪い女だと呆れられ、感情ゼロで婚約破棄および領地追放されること』だ。感情を揺さぶるからド派手な断罪劇なんて発想になるのだ。私が無価値な悪婦だと分かれば、殿下も『こんな女に演出を割くのは無駄だ』と冷たく切り捨ててくれるはず!
「……というわけで、マリア。ジークヴァルト殿下が『花火五十発で婚約破棄しよう!』なんて言い出したのよ。正気だと思う?」
学園の中庭、木漏れ日が差すカフェテラス。
私は向かいに座る子爵令嬢のマリアに、頭を抱えて泣きついた。
マリアは私の幼馴染で、この狂った街で唯一『普通』の感覚を持っている貴重な理解者だ。彼女はスコーンにジャムを塗りながら、心底同情したような顔でため息をついた。
「相変わらず、殿下の『婚約破棄エンタメ化』への熱量は凄いわね……。まあ、うちのお兄様も先週、噴水広場で『お前との愛は冷め切った!』って水をかぶりながら破棄してたけど」
「ご愁傷様……。お兄様、風邪ひかなかった?」
「『最高のパフォーマンスができた』って満足気だったわ。バカじゃないかしら。この街の人間、全員一度頭を冷やしたほうがいいわ」
マリアの辛辣なツッコミに、私は深く頷いた。
「本当よ! 婚約破棄なんて、された方は一生のトラウマになるかもしれないのに……。みんな『成人の儀式だから』って麻痺してるのよ」
私がふと遠い目をして呟くと、マリアはスコーンを置く手を止め、優しく私を見つめた。
「エリス……。貴女、まだ親戚のお姉様のことを気にしているのね」
……バレていたか。
幼い頃、婚約破棄されて周囲から嘲笑され、傷ついて部屋に閉じこもってしまったお姉様の姿。あれが私の「目立ちたくない」「婚約破棄が怖い」という根底にあるトラウマだ。
「……だって、大勢の前で存在を否定されるなんて、耐えられないもの。だから私、決めたの」
「決めた、って何を?」
「私、完璧な『悪役令嬢』になるわ!」
マリアが、紅茶を吹きかけた。
「……は? 貴女が? 悪役令嬢?」
「そうよ! 王子に心底嫌われて、『お前のような地味でつまらない悪婦とは婚約破棄する』って言わせるの! そうすれば演出なんて使われないし、サクッと田舎に引っ越して、日陰でひっそり芋でも育てて暮らすわ!」
身を乗り出して息巻く私を、マリアは信じられないものを見る目で見つめた。
そして、額を押さえて深々とため息をついた。
「エリス……はっきり言うわ。貴女に『悪役』なんて1000年早いわよ」
「なっ……! 失礼ね! 私だってやるときはやるわ!」
マリアは生温かい目になりつつも、真剣な顔で私の手を取った。
「でも、まあ……もし本当に田舎に追放されたら、私も遊びに行ってあげるわ。芋掘り手伝うから」
「マリア……! これが友情ね……!」
「ええ。だから、せいぜい怪我しない程度に足掻きなさいな」
親友の呆れ交じりの励ましを受け、私は「絶対悪女になってやる!」と拳を握りしめたのだった。
そんなわけで、放課後のサロン。
私は、優雅に紅茶を飲むジークヴァルト殿下の前に、バァン!と音を立てて手製のお菓子箱を叩きつけた。
「殿下! これをご覧あそばせ!」
「やあエリス。今日も可憐だね。それは何だい? 僕へのプレゼントかな」
「ふふふ……甘いですわ、殿下! これは私が作った『超・激辛苦々クッキー』ですわ! 殿下の舌を痺れさせてお腹を壊させてやろうという、極悪非道な嫌がらせですわ!!」
どうだ! と胸を張る。
隠し味に苦虫の粉末と唐辛子エキスをたっぷり混ぜ込んだのだ。貴族の令嬢としてあるまじき不道徳行為! これで、私の評価は暴落のはず——。
「まあ、僕のためにわざわざ手作りしてくれたのかい!?」
「はい……? え、話聞いてました?」
殿下は花が咲いたように顔を輝かせると、躊躇なくクッキーを口に放り込んだ。
ちょっと待って、本当に食べた!? 毒味も通さずに!?
「ぐっ……!!」
「ほら見たことか! さあ、私を『おのれ悪婦め!』と罵って——」
「う、うまい……! 辛みと苦みの中に、君の僕への深い愛を感じるよ……! 涙が出てきた」
「激痛に耐えながら、目を輝かせないでください!! 吐き出してください!!」
だめだった。
どれだけ嫌がらせをしても、このポジティブ怪物王子はすべてを「自分への愛」に変換してしまうのだ。
激辛クッキー作戦が「深い愛」として撃沈した翌日。私は学園のサロンで、二度目の悪女作戦を決行した。
放課後のサロンには、王室御用達のパティシエが作ったという『季節の極上苺タルト』が運ばれていた。 一口食べれば頬が落ちると評判の限定品で、殿下も楽しみにしていた逸品だ。
(ふふふ……貴族の女性たるもの、他人の食事──しかも、王子のデザートに勝手に手を伸ばすなど言語道断! これぞ悪婦の所業!)
私は優雅に紅茶を飲んでいた殿下にサッと近づくと、フォークでタルトの苺と一番美味しそうなカスタード部分をドスッと突き刺し、そのまま自分の口へ放り込んだ。
モグモグと噛み砕き、勝ち誇った笑みを浮かべて見下ろす。
「殿下! ご覧になりまして!? 殿下が楽しみにされていたタルトの一番美味しいところを、私が横取りして差し上げましたわ! どうです、この卑しくも我がままな悪婦めとお思いでしょう!」
さあ怒りなさい! 「私の食べ物を奪うとは何事だ、追放だ!」と叫びなさい!
しかし、殿下は目を見開いたあと、ぽっと頬を染めて胸を押さえた。
「……っ! エリス……君という人は……!」
(よし、怒りのあまり言葉を失っているわ!)
「僕の体に気を遣って、カロリーの高いカスタードと糖分の高い苺を先に毒味……いや、引き受けてくれたんだね!? しかも、僕が食べやすいようにタルト生地の土台を残して楽しませてくれるなんて……! なんという深い慈愛……!」
「どこをどう解釈したらそうなるんですの!? ただの食い意地が張った横取りですわ!!」
「遠慮しなくてもいいんだよ。ほら、口元にカスタードがついている。可愛いね」
親指で優しく口元を拭われ、そのまま指をぺろりと舐められる。
「ひゃいっ!? なっ、何を……!!」
「ごちそうさま。君の味がして、最高のタルトだったよ」
「悪婦扱いしろと言っているのに、セクハラで返さないでください!!」
だめだった。
私の横取り行為は、なぜか「王子の体を労わる健気な愛」に変換されてしまった。
♢
伯爵家の屋敷へ帰宅した私を待っていたのは、両親からの盛大な出迎えだった。
「おかえり、エリス! 今日の『嫌がらせ』の手応えはどうだった!?」
どうやら、もう噂は広まっているらしい。
玄関のドアを開けた瞬間、両手を広げて駆け寄ってきたのは父だ。
続いて、母も心配そうにハンカチを握りしめながら顔を覗かせてくる。
「まあまあ、エリス。顔色が悪いわ。……まさかジークヴァルト殿下、貴女を冷たくあしらったりしなかったでしょうね? ちゃんと『おのれ、悪婦め!』って大声で怒鳴ってくれた?」
「……いいえ、お母様。『最高のタルトだった』って微笑まれましたわ……」
「なんてことでしょう……っ!」
母は悲鳴を上げて卒倒しそうになり、父は机をバン!と叩いて激怒した。
「許せん! 第一王子ともあろうお方が、我が愛しの娘に冷酷な婚約破棄をプレゼントしてくれないとは何事だ! 娘にトラウマを残さず、華々しく追放して成人させるのが男の甲斐性だろうに!!」
この二人——ライラック伯爵夫妻は、狂気的なまでに私を愛している。
そして愛しているがゆえに、この街の狂った常識──婚約破棄されてこそ立派な大人になり、最高の真実の愛に巡り合えることを信じ切っているのだ。
「エリス、大丈夫よ。私たちが提案してあげるわ!」
母が目を輝かせながら、分厚いノートを広げた。
「明日は殿下の前で、思い切って『浮気』の冤罪をかぶってみるのはどうかしら!? 胸元が大きく開いた派手なドレスを着て、他の男性と親しげに喋るのよ! そうすれば殿下も『この不貞者め!』と激怒して、特設ステージで盛大に捨ててくださるわ!」
「お母様、私は目立ちたくないと言っていますでしょ……」
「何をおっしゃるの! 盛大に晒し上げられてボロボロになってこそ、次の『本当の幸せ』が輝くのよ! 貴女には、世界で一番幸せになってほしいの!」
「そうだぞ、エリス!」と父も熱弁を振るう。
「傷つくのを恐れていてはだめだ! 豪快に破棄されて、傷ついて、それを乗り越えて大人になるんだ! パパなんてママと結婚する前に、三回も公衆の面前で婚約破棄されて『破棄のベテラン』って呼ばれていたんだぞ!」
「何の自慢にもなっていませんわ、お父様!!」
二人とも、私の幸せを本気で願ってくれている。
だからこそ、タチが悪いのだ。
『婚約破棄が怖い』『目立ちたくない』という私の本音は、両親から見れば『成人前の誰もが通る可愛いマリッジブルー』くらいにしか変換されない。
(誰も悪くない……誰も私を傷つけようとしていないのに……なんでこんなに生きづらいの……!?)
「さあエリス、明日のために『冤罪で泣き崩れる練習』をしましょう! はい、悲しそうな顔をして!」
「……お部屋に戻らせていただきますわ……」
私は両親の重すぎる愛とズレきったアドバイスから逃げるように、自室へと駆け込むのだった。
♢
翌朝、私は最終兵器を投入することにした。
『挨拶の無視』である。王都の貴族社会において、挨拶を無視するのは最大の侮蔑。
廊下の向かいから歩いてくる殿下を見つけた私は、すっと視線を外し、あからさまにフンッと横を向いて通り過ぎようとした。
(これで完璧! 挨拶すらしない不敬な女として、殿下のプライドはズタズタのはず……!)
しかし、すれ違いざま。
殿下は悲しむどころか、うっとりとした顔で私の手首をそっと掴んだ。
「エリス……僕と目が合った瞬間、急に顔を背けて、小刻みに震えながら早足になるなんて……」
(震えてるのは、緊張のせいですわ!)
「そんなに僕を意識して緊張してくれているのかい? 照れくさくて挨拶もできないなんて、君は本当に奥ゆかしくて可憐な少女だね……!」
「違います!! 意識どころか、視界から抹消しようとしたんですの!!」
「いいんだよ、無理して喋らなくても。君のその赤くなった耳を見れば、どれだけ僕を想ってくれているか丸分かりだからね」
「これは困惑してるからです! 離してください、このポジティブおばけ!!」
バッと手を振り払い、私はダッシュで逃げ出した。背後から「足まで速いなんて、僕から逃げる姿も絵になるね!」と暢気な声が追いかけてくる。
(ダメだ……この人、私の行動を全部『自分への愛』に変換するフィルターでも脳内に搭載してるの……!?)
悪役になれる才能すら見出せず、私は自室のベッドに倒れ込んで頭を抱えるのだった。
刻一刻と、成人式典の「断罪の日」は近づいてくる。
街中ではすでに『第一王子殿下のド派手な婚約破棄ショー』の噂で持ちきりだ。巨大な特効花火が運び込まれただの、金銀の紙吹雪が何十キロ用意されただの、恐ろしい噂ばかりが耳に入る。
(……追放されたら、田舎でひっそり暮らそう)
私は震える手で、荷造りを始めた。
トランクに最低限の服と本を詰め込みながら、ふと幼い頃の記憶が蘇る。
大勢の貴族の前で「お前のような女、見るのも汚らわしい!」と罵られ、泣き崩れていた親戚のお姉様。周囲の嘲笑、憐れむ視線。その後、お姉様は二度と屋敷から出てこなくなった。
『破棄の悲劇を乗り越えてこそ一人前』? 冗談じゃない。
大勢の前で存在を否定されるのが、どれほど恐ろしいか。どれほど心が壊れるか。
「……やっぱり、怖いよ……」
誰もいない部屋で、ぽつりと本音が漏れた。
膝を抱えると、ポロポロと涙がこぼれて止まらなかった。
♢
深夜の王城。書斎の灯りは、まだ消えていなかった。
「殿下、明日の『婚約破棄ショー』の演出機材の搬入、すべて完了いたしました」
重厚な執務机の前に佇む側近のオリバーが、深々と一礼する。
「ご苦労様。……これで準備の半分は終わりだ」
机の上には、山積みにされた古代法典と、何十枚もの書類。
僕は疲れを隠すように息を吐き、ペンを置いた。
窓の外の月を見上げると、ふと数年前のあの日のことが思い出される。
当時の僕は、生まれ持った容姿と立場ゆえに、どこへ行っても「王子」としての完璧で華やかな振る舞いを求められていた。
誰もが僕の顔や地位だけを見て、ド派手な脚色をして持てはやす。息が詰まりそうだった僕は、逃げ出すように学園の裏庭にある、誰一人近づかない大木の陰へ隠れたのだ。
そこで、僕は『彼女』に出会った。
大木の根元で、小さく膝を抱えて丸まっていた少女——エリスだ。
彼女は、親戚の婚約破棄事件でトラウマを負い、大勢の視線と『否定されること』を怖れて、必死に存在感を消して泣いていた。
『……だ、誰……? お願いですから、見なかったことにしてください……私、ただの影ですので……』
真っ赤な目で、今にも消えてしまいそうな声で呟いた彼女。
しかし、僕が王子だと気づいても、彼女は話しかけることも,笑みを浮かべることも、おねだりをすることもなかった。
ただ静かに、自分の隣の隙間をぽんぽんと叩いて言ったのだ。
『ここ、風が通って気持ちいいですよ。……誰も来ませんから、休んでいってください』
あの瞬間、僕の胸の中で何かが弾けた。
世界中の誰もが僕に「スポットライトの下に立つ王子」であることを要求する中で、彼女だけが僕を「一人の人間」として、静かな日陰に招き入れてくれたのだ。
『気配を消すコツはですね、自分を庭の雑草だと思うことですわ』
……なんて、真顔で教えてくれた彼女の横顔に、僕は息を呑むほど惹かれてしまった。
僕が『演出過剰の目立ちたがり屋』と呼ばれているのは知っている。
しかし、僕が欲しいのは歓声でも名声でもない。
ただ一人——僕の愛しいエリスの笑顔だけだ。
幼い頃、彼女がトラウマを抱えた瞬間を、僕は陰から見ていた。
恐怖で体を震わせ、恋も婚約も拒絶するようになった彼女。
この狂った街の法律──婚約破棄の義務がある限り、彼女は永遠に傷つき続ける。
(それなら——僕がその『ルール』そのものを破壊してやる)
エリスは僕に嫌われようと、必死にポンコツな「悪事」を働いていた。
激辛クッキーも、タルトの横取りも、全部可愛くて愛おしくて、死にそうだった。
「……殿下。こちらが今夜のエリス様のレポートになります」
オリバーが、恭しく差し出してきた書類を受け取る。
彼女の周りには常に優秀なスパイを手配している。彼女が怪我をしていないか、変な男に絡まれていないか、毎日把握するためだ。愛する人の安全確認は、当然の義務だろう。
しかし、報告書を開いた僕の指が、ピタリと止まった。
『本日二十二時二分。エリス様、自室にて一人、荷造りを開始。過去のトラウマを想起し、「やっぱり、怖いよ」と呟いたのち、膝を抱えて涙を流される——』
パキッ、と手の中の高級万年筆が鈍い音を立てて折れた。
「……殿下?」
「……僕のために泣かなくていいと言ったのに。またあの子は、一人で抱え込んで泣いているのか……」
溢れ出そうになる激しい怒りと、胸を刺すような切なさ。
彼女は、僕の前で「激辛クッキーを食べさせましたわ!」「挨拶を無視しましたわ!」なんて、あんなに可愛らしく強がっていたのに。裏では追放される恐怖に一人で震えていたのだ。
「殿下、お怒りはごもっともですが、インクが——」
「オリバー」
「はいっ」
僕は折れたペンを捨て、冷え切った声で命じた。
「明日の『婚約破棄ショー』の準備、特効花火をさらに二十発追加しろ。金銀の紙吹雪も倍量だ。全方位から彼女を照らせ」
「は……? 涙を流されているエリス様を、さらにド派手に晒し上げるおつもりですか!?」
目を丸くして困惑するオリバーを、僕は静かに見つめ返す。
「バカか。……あの子の悲しい涙を拭うには、中途半端な光じゃ足りないんだよ」
「殿下……本当にやるのですか? 一歩間違えれば、街の伝統を愚弄したと貴族派から批判を浴びます」
「言わせておけばいいさ。僕の妻を傷つける法律なんて、僕が書き換えてやる」
僕は不敵に微笑み、完成した『契約書』にサインを入れた。
「待っていてね、エリス。明日、君を世界で一番幸せなヒロインにしてあげるから」
♢
そして、ついに来てしまった。
成人式典の当日。王都の中央広場には、見上げるほど巨大な特設ステージが組まれていた。
周囲を埋め尽くすのは、数千人の観客。彼らは手に手に「婚約破棄!」「真実の愛!」と書かれたうちわや横断幕を掲げ、まるで祭りのように熱狂している。
(ひ、ひどすぎる……! なによこの、お祭りみたいな会場は……!)
私はステージの袖で、ドレスの裾をぎゅっと握りしめてガタガタと震えていた。
豪華絢爛なステージの中央には、巨大なスポットライトが何機も設置され、天井には怪しい巨大な筒がいくつも設置されている。
(今日、私は大勢の前で『悪婦』として晒し上げられ、追放されるんだ……)
必死に耐えようとしても、過去のトラウマが蘇り、足がすくんで動かない。
その時、すっと温かい手が私の手を選び、優しく包み込んだ。
「大丈夫だよ、エリス」
光り輝く白いタキシードに身を包んだジークヴァルト殿下だった。
相変わらず眩しいほどの男前だが、その瞳には悪戯っぽい光が宿っている。
「怖がることは何もない。君はただ、僕の隣で笑っていればいいんだから」
「な、何を……私は今日、殿下に冷酷に破棄される予定なのですが……」
「ふふっ、最高のショーにしようね」
会話が噛み合わないまま、ジャジャン! とファンファーレが鳴り響いた。
殿下に手を引かれ、私はスポットライトが照らすステージの中央へと連れ出された。
ワアアアアアッ!! と会場を揺るがす大歓声が耳に入る。今すぐ逃げ出したい。
「静粛に!」
殿下が魔導マイクを握り締め、朗々と声を響かせる。広場が一瞬で静まり返った。
いよいよだ。私はギュッと目を瞑り、自作の「罪状」を心の中で唱える。
(さあ来い……! タルトを食べただの、挨拶を無視しただの、バカバカしい罪状で私を捨てなさい……!)
殿下が息を吸い込み、高らかと叫んだ。
「全国民よ、聴け! 本日、私はこのエリス・ライラック伯爵令嬢との婚約を——破棄する!!」
その瞬間、耳を聾する爆音とともに、ステージの両脇からド派手な特効花火が五十発同時に打ち上がった!
夜空を鮮やかに染め上げる大輪の火花。続いて天井から舞い散る、空を覆い尽くすほどの金銀の紙吹雪と、三万枚の赤いバラの花びら!
「うおおおおおーーーっ!! 待ってましたーーーっ!!」
「過去一番の派手さだーーーっ!!」
(やっぱり目立ってるー! 演出が過剰すぎるのよ!)
あまりの衝撃と恥ずかしさに、私はステージの上で顔を覆って泣きそうになった。
やっぱりだ。やっぱり私は、大勢の前で晒し者になって、こうやって捨てられるんだ——。
しかし。
大歓声が渦巻く中、殿下はマイクを握ったまま、不敵な笑みを浮かべて言葉を続けた。
「——そして! 婚約破棄が完了した、今! 私はエリス・ライラックに『求婚』する!!」
「……はい?」
会場が、シーンと静まり返る。
私の頭の上にも、巨大なハテナが浮かんだ。
殿下はマイク越しに、堂々とと全国民に向けて宣言する。
「法律には『成人までに一、度婚約破棄をすること』としか書かれていない! ならば、一度破棄した直後に再婚約し、そのまま結婚すれば何の問題もない!! 法律の義務はたった今、完全に果たされた! もう誰も、僕と彼女を離すことはできない!!」
会場一瞬の静寂の後——
『『『その手があったかああ!!!!』』』
全観客の、耳をつんざくような大爆絶の歓声が巻き起こった。
「法律の穴を突きやがったー!」
「新しすぎる!」
「これぞ真実の愛だーーー!!」
パニックになる私のもとへ、殿下がゆっくりと歩み寄ってくる。
彼はステージの上に優雅にひざまずくと、ポケットから眩いダイヤモンドの指輪を取り出し、私の手を取った。
「エリス。君が『婚約破棄』を本気で怖がっていたのも、僕に嫌われようとポンコツな悪事を働いていたのも、全部知っていたよ」
「で、殿下……っ!?」
「二度と君に恐怖なんて感じさせない。……僕の生涯唯一の妻になってくれますか?」
優しい瞳で見つめられ、私は言葉を失った。
この人は、最初から知っていたのだ。
私が過去のトラウマで傷つくのを恐れていることも、目立ちたくない本当の理由も。
だからこそ、街の狂った法律から私を完全に守り抜くために、裏で法律書を読みあさり、この「一瞬で再婚約する」という屁理屈を証明してみせたのだ。
「……ずるい……ずるいですわ、殿下……っ」
ポロポロと涙が溢れ出して止まらない。
恐怖の涙ではなく、胸の奥がじんわりと温かくなる、嬉し涙だった。
「私……ずっと、怖かったんです……」
「うん、知ってるよ」
「大勢の前で否定されるのが、嫌だったんです……っ」
「僕が一生、君を肯定し続けるよ。愛している、エリス」
指輪が私の薬指にはめられ、殿下はそのまま私を抱き上げ、くるりと回った。
舞い散るバラの花びらと紙吹雪の中、雷鳴のような拍手と祝福の声が降り注ぐ。
私は殿下の胸に顔を埋め、涙を拭きながら叫んだ。
「〜〜〜っ! でもやっぱり、世界で一番目立ってますわ!!」
「ははっ、最高のハッピーエンドだろう?」
狂った街の、一番奇妙で、一番幸せな「婚約破棄」の夜だった。




