婚約破棄RTA、記録12秒。「お前とは破局だ」と言われる前に食い気味に「はい喜んで!」と返事したら、なぜか王子が執着し始めたのですが、タイムロスなので話しかけないでください
「――き」
第一王子、アレクセイ様が口を開き、肺に空気を吸い込んだ瞬間。
私の脳内で、競技用のストップウォッチが作動した。
00秒01。
彼が「貴様」と言うか「君」と言うか。その僅かな初速で、後の展開分岐が決まる。
今日の彼の眉間のシワ、隣に侍らせている男爵令嬢の勝ち誇った顔、そしてこの大舞踏会という舞台設定。
条件は完全に揃っている。確定演出だ。
「貴様との婚約を、は」
「破棄ですね、承りました!」
00秒08。
私はアレクセイ様が「破棄」と言い切る前に、食い気味に被せた。
周囲の貴族たちが「あっ」と息を呑むより速く、ドレスの懐から書類の束を取り出す。
「こちら、署名捺印済みの『婚約破棄同意書』です。慰謝料は不要。あ、これは私が担当していた公務の引き継ぎマニュアル全120冊です。鍵はお返しします」
バササッ!
呆気にとられて口を半開きにしているアレクセイ様の胸に、書類の束を叩きつける。
彼が反射的にそれを受け取った瞬間、私はドレスの裾を翻して踵を返していた。
「では、お幸せに!」
背を向けた瞬間、脳内のストップウォッチを止める。
記録、12秒44。
「よしッ……!」
私は小さくガッツポーズをした。
自己ベスト更新だ。
前回の人生では、ここで泣き崩れて2時間のロスをしたけれど、今回は完璧なタイムだわ。
さあ、出口へ急ごう。
このあと18時15分から、隣国のスローライフ枠(数量限定)の受付が始まるのだ。一秒たりとも無駄にはできない。
「――っ、ま、待て!!!」
背後で、ようやく再起動した王子の絶叫が聞こえた。
チッ、と私は心の中で舌打ちをする。
イベントスキップ失敗。
どうやら、まだ『追走イベント』が残っているらしい。面倒くさいな。
「待てと言っているだろう! リリアナ、貴様……本気なのか?」
アレクセイ様が、ダンスフロアを横切って私の前に立ちはだかった。
その横には、勝ち誇った顔の男爵令嬢、ミナがべったりと張り付いている。
「本気も何も、殿下が望んだことでしょう? 私は貴方様の願いを『最速で』叶えました。感謝こそされ、呼び止められる筋合いはありません」
私は懐中時計をチラリと確認する。
現在、タイムは45秒。
ここでの会話イベントは、せいぜい1分以内に終わらせないと「隣国のスローライフ枠」の最終バスに間に合わない。
「ふん、強がっちゃって! 本当は悔しいんでしょう?」
ミナが扇子で口元を隠しながら、甲高い声を上げた。
「可哀想なリリアナ様。愛のない政略結婚に必死にしがみついていたのに、真実の愛に敗北したのね!」
「ええ、おっしゃる通りです。私の完全敗北です。おめでとう、ミナ様」
私は即座に頷き、手に持っていた分厚い革張りのファイルを、ミナの細い腕に「ドンッ!」と押し付けた。
「きゃっ!? な、なにこれ重っ……!」
「それは私の敗北の証であり、貴女への『勝利のトロフィー』です。謹んで贈呈いたします」
「トロフィー……?」
「アレクセイ様との『真実の愛』を育むための必須マニュアルです」
私は早口で解説を始める。ここがこのRTAの最難関テクニック、『業務の丸投げ』だ。
「まず、1ページ目を開いてください。アレクセイ様は朝起きるのが苦手なので、毎朝4時に起こして『世界で一番偉い!』と30分間褒め称える必要があります。これを怠ると、その日は一日中ふてくされて公務を放棄します」
「は……?」
ミナの目が点になる。
「次に15ページ。アレクセイ様は野菜を一切食べません。全てすり潰してハンバーグに混ぜ込む必要がありますが、緑色が見えるとちゃぶ台をひっくり返します。あと、靴ひもは自分で結べないので、貴女が跪いて結んであげてください」
「ちょ、ちょっと待って」
ミナの顔から血の気が引いていく。
「さらに重要なのが『財務』の章です。アレクセイ様は『金は湧いてくるもの』だと思っているので、毎月こっそり発生している裏借金の返済計画を立ててください。現在、総額で国家予算の3年分ほど溜まっていますが、愛の力があれば返せますよね?」
「借金!? 国家予算の!?」
「リ、リリアナ! 余計なことを言うな!」
アレクセイ様が慌てて私の口を塞ごうとするが、私は華麗にバックステップで回避する。
「ミナ様、それが貴女が手に入れた『真実の愛』の実態です。返品は不可ですので、末永くお幸せに!」
「いやああああああ!! 無理無理無理! 何その特大の地雷案件!!」
ミナが悲鳴を上げ、その重たいファイルを地面に叩きつけた。
バサバサと散らばる書類には、アレクセイ様の恥ずかしい偏食リストや、私の私財で穴埋めしていた借用書のコピーが赤裸々に記されている。
周囲の貴族たちが一斉にざわつき、冷ややかな視線を王子に向け始めた。
「ち、違うんだミナ! これはリリアナが勝手に……!」
「最低……。あんた、そんなハリボテだったの? 私、公爵家になれるって聞いたから浮気したのに!」
ミナがドレスの裾を捲り上げ、脱兎のごとく会場の出口へと走り出した。
浮気相手の逃亡RTA、記録1分ジャスト。なかなかやる。
「ミ、ミナ!? ……待て、リリアナ! 話を聞いてくれ!」
取り残されたアレクセイ様が、今度は縋るような目で私を見た。
その顔には、先ほどまでの傲慢さは欠片もなく、あるのはただの「寄生先を失った子供」の怯えだけ。
「お前がいなくなったら、誰が俺の靴ひもを結ぶんだ! 借金はどうする! 愛していたんだろう!?」
「愛?」
私は冷ややかに笑った。
「私が愛していたのは『次期王妃としての職務』であって、貴方という『タスク』ではありません」
「な……ッ!?」
「それでは、これにて引継ぎ終了。二度と私の視界に入らないでくださいね。――タイムロスですので」
私は凍りついた王子を背に、今度こそ出口へと駆け出した。
大広間の扉を蹴破る勢いで飛び出し、私は夜の庭園へと踊り出た。
冷たい夜風が、火照った頬を撫でる。
「……ふぅ。セーフ、ですね」
私は懐中時計を見る。
現在、タイムは2分58秒。
カップラーメンが出来上がるよりも早く、私は人生の汚点を清算し、自由を手に入れた。
「素晴らしい走りだったよ。特に、あのマニュアルを押し付ける瞬間の手首のスナップ……芸術的だった」
闇の中から、一台の漆黒の馬車が現れる。
窓から顔を覗かせたのは、隣国・ガレア帝国の若き皇帝、カイン陛下だった。
月明かりに照らされたその美貌は、先ほどの元婚約者が霞むほどの輝きを放っている。
そう、これが私が狙っていた『数量限定・隣国のスローライフ枠』の正体だ。
(※募集要項には「皇帝の愛猫の世話係兼、お飾りのお妃様」と書いてあった。実質、ニートである)
「お迎え感謝します、カイン陛下。それで、採用の可否は?」
私は息を整えながら単刀直入に尋ねる。
カイン陛下は、面白そうに瞳を細めて微笑んだ。
「もちろん採用だ。君のような『決断の早い』人材こそ、我が国の皇后に相応しい。……それに、あの無能な王子に君のような才女は勿体ないと思っていたからね」
「待遇の確認ですが、公務は?」
「私が全て片付ける。君は私の隣で、ただ笑って紅茶を飲んでいてくれればいい。あ、あと猫のブラッシングも頼むよ」
「残業は?」
「ない。あるのは私からの『溺愛』だけだ。……覚悟はいいかい?」
カイン陛下が差し出した手を、私は迷わず掴み、馬車へと飛び乗る。
「条件成立です。契約します!」
「ふっ、返事も速いな」
カイン陛下が御者に合図を送ると、馬車は滑らかに走り出した。
背後では、まだ会場の入口でアレクセイ様が「リリアナァァァ! 靴ひもの結び方だけでも教えてくれぇぇぇ!」と絶叫しているのが聞こえるが、馬車の車輪の音がすぐにそれを掻き消した。
さようなら、無能な王子様。
貴方が靴ひもと格闘している間に、私は世界最強の国で猫をモフりながら暮らします。
私は馬車のソファに深く沈み込み、脳内のストップウォッチを止めた。
【記録終了:3分05秒】
【結果:完全勝利(Sランク)】
「さて……リリアナ。城に着くまではまだ時間がある。まずは君を口説いてもいいかな?」
カイン陛下が甘い声で囁き、私の手を取る。
私は小さく笑って、新しいタイマーをセットした。
「ええ、どうぞ。お手柔らかにお願いしますね、陛下? ――ここからは『溺愛RTA』のスタートですので」
(おわり)




