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誇りさえ踏みにじるというのなら

作者: 秋月アムリ

 夜会を彩る音楽が、まるで遠い世界の出来事のようにイザラ・ヴェルファレルの耳を通り過ぎていく。王宮のシャンデリアが放つ眩い光は、集う貴族たちの宝石や絹のドレスに反射し、現実とは思えないほどの煌めきを生み出していた。

 イザラはこの場所が少し苦手だった。控えめな性格の彼女にとって、虚飾と社交辞令が渦巻くこの空間は息苦しさを伴う。彼女は壁際に立ち、手にしたグラスの中の果実水を見つめていた。淡い空色のドレスは最高級の生地で仕立てられているが、流行の最先端を行く鮮やかな色合いではない。


(今日も無事に終わればいいのだけれど)


 そんなささやかな願いは、いつも一人の人物によって打ち砕かれる。


「まあ! イザラ様。こんな隅にいらしたのね。まさに壁の花ですわね」


 甲高い、しかし妙に甘えた響きを持つ声がした。振り向けば、そこには炎のような真紅のドレスをまとった伯爵令嬢ベアトリス・キリュールがいた。その隣には、気まずそうな表情を浮かべたイザラの婚約者、公爵家嫡男エリオット・ブライアが立っている。


 ベアトリスは扇で口元を隠しながらも、その目は嘲笑の色を隠そうともしない。


「エリオット様が、婚約者様にご挨拶をなさらないといけないとおっしゃるから。本当に、地味で退屈な方」


 後半はわざとらしくエリオットに向けた言葉だったが、その侮辱は明確にイザラに向けられていた。周囲の貴族たちが、遠巻きにこちらに注目しているのが肌で分かる。

 エリオットはベアトリスの華やかさと積極的な愛情表現にすっかり籠絡されていた。彼はイザラから視線をそらし、曖昧に咳払いをする。


「イザラ、その……息災そうで何よりだ」

「ええ、エリオット様も。ベアトリス様とお楽しみのようですね」


 イザラは表情を一切変えず、静かに言い返した。彼女の声は小さかったが、凛とした響きを持っていた。

 ベアトリスはそれが気に入らなかったらしい。扇を閉じると、わざとらしくエリオットの腕に自分の腕を絡ませた。


「当然ですわ。私たち、今夜のダンスの相手もすべて決めておりますもの。ねえ、エリオット様」

「あ、ああ。そうだな」


 エリオットはイザラの灰色の瞳を直視できない。彼はこの婚約が両家のための政略的なものであることを理解していたが、ベアトリスの情熱的な魅力は、彼の理性を簡単に麻痺させた。

 イザラはただ、小さく頷いた。


「そうですか。では、私にお構いなく」


 彼女は一礼すると、音もなくその場を離れた。背後でベアトリスが「本当に可愛げのない女」と呟くのが聞こえたが、イザラは振り返らなかった。


(今はまだ、耐える時。侯爵家としての体面を汚すわけにはいかない)


 彼女の胸の内には、冷たい怒りよりも、むしろ強い自尊心が燃え上がっていた。ベアトリスが……いや、あの二人が公然とイザラを侮辱するのは、これが初めてではない。だが、今夜のエリオットの態度は、決定的な何かを示唆しているように、イザラには思えた。



 そして、その予感は、三日後に現実のものとなった。



 イザラが侯爵家の自室で刺繍をしていると、侍女が慌てた様子で公爵家嫡男エリオットの来訪を告げた。公式の訪問ではなく、アポイントメントもない突然の来訪だった。

 応接室に通されたエリオットは、一人だった。いつもより顔色が悪く、その青い瞳は落ち着きなく揺れている。


「急にすまない、イザラ」

「いいえ。それで、ご用件は何でしょう」


 イザラは刺繍の手を止め、静かに彼を見据えた。婚約者に対する態度としては冷淡かもしれない。だが、彼女はすでに覚悟を決めていた。

 エリオットは言いづらそうに視線を彷徨わせた後、意を決したように口を開いた。


「単刀直入に言う。君との婚約を、破棄したい」


 その言葉は、静かな応接室に重く響いた。

 イザラは息をのんだが、それは驚きというよりは、ついに来たかという諦観に近いものだった。


「……理由をお聞かせ願えますか」

「理由、か」エリオットは一瞬、言葉に詰まった。しかし、すぐに彼は顔を上げ、まるで自分に言い聞かせるかのように言葉を続けた。


「ベアトリスだ。私は、彼女を愛してしまった。いや、これが真実の愛なのだと気づいたんだ」


(「真実の愛」……)


 イザラはその言葉を心の中で反芻した。なんと陳腐で、自己中心的な響きだろう。


「君を傷つけるつもりはなかった。だが、愛のない結婚は君にとっても不幸だろう。だから、これは君のためでもあるんだ」

「私の、ため……?」


 イザラは思わず呟いた。エリオットの優柔不断さが、今は無責任な自己正当化となって彼女を襲う。


「そうだ。だから、どうか円満にこの話を受け入れてほしい。もちろん、公爵家として慰謝料は……」

「お断りいたします」


 イザラのきっぱりとした声が、エリオットの言葉を遮った。


「なっ……」


 エリオットは目を丸くした。


「イザラ、何を言って……」

「私は、この婚約破棄を受け入れません」


 イザラはゆっくりと立ち上がった。彼女の背筋はまっすぐに伸び、その瞳はもはや揺らいではいなかった。


「これは私とエリオット様、個人の問題ではありません。ヴェルフェル侯爵家とブライア公爵家の間で正式に交わされた契約です。それを、貴方様の『真実の愛』などという曖昧な理由で一方的に破棄することなど、到底認められません」

「しかし、愛がないんだ!」


 エリオットが苛立ちを込めて声を荒げた。


「愛が結婚の必須条件であると、いつからこの国の貴族社会は定めたのでしょう」イザラは冷ややかに言い放った。


「私たちの婚約は、両家の繁栄と安定のために結ばれました。それを反故にするには、相応の『正当な理由』が必要です」

「正当な理由だと? 私が君を愛せない。それ以上に正当な理由がどこにある!」


「それは貴方様の都合です」イザラは一歩も引かなかった。


「もし、私が不貞を働いたというなら話は別でしょう。あるいは、侯爵家に何か重大な瑕疵が見つかったとでも?」

「そ、それは……」エリオットは言葉に詰まる。


 イザラは彼を真っ直ぐに見据えた。


「どちらもありませんね。であるならば、エリオット様。貴方の行いは、正当な理由なき一方的なものとなります。それは我がヴェルフェル侯爵家への重大な侮辱であり、私の誇りを踏みにじる行為です」


 彼女の灰色の瞳に、強い意志の光が宿っていた。


「侯爵令嬢イザラ・ヴェルファレルとして、この不当な要求を断固として拒否いたします」


 エリオットは、今まで見たことのないイザラの毅然とした姿に圧倒されていた。彼はいつも彼女を、地味で、退屈で、何を言っても従順に従う女だと、心のどこかで思い込んでいた。


(こんな女だったのか……)


「……君がそう言うなら、仕方ない」エリオットは苦々しげに呟いた。


「だが、私の意志は変わらない。いずれ、君も折れることになる」

「いいえ。折れるべきは、道理を欠いた貴方様の方です」


 エリオットは忌々しげに舌打ちすると、乱暴に踵を返し、応接室から出て行った。

 一人残された応接室で、イザラは固く拳を握りしめていた。爪が食い込み、掌が白くなる。


(当家の誇りさえ踏みにじるというのなら……受けて立ちましょう)


 彼女は決して泣かなかった。涙は、尊厳を捨てた者が流すものだ。彼女には守るべき誇りがあった。




 その夜、イザラは自室で一人、今後の対策を練っていた。

 エリオットがこのまま引き下がるとは思えない。公爵家の力を使い、侯爵家に圧力をかけてくる可能性が高い。あるいは、ベアトリスがさらなる策略を巡らせるかもしれない。


(正当な理由……)


 エリオットがそれを提示できない以上、イザラが不利になることはないはずだ。だが、相手は公爵家。力関係は歴然としている。


(ただ待つだけでは、いずれ押し切られる)


 イザラは冷静に現状を分析した。必要なのは、こちら側が優位に立てる情報。あるいは、相手が「婚約破棄を撤回せざるを得ない」状況を作り出すこと。


(エリオット様か、あるいはベアトリス様の……弱み)


 ベアトリスのこれまでの公然とした侮辱行為は、証拠として弱い。貴族の痴話喧嘩として処理されるだけだろう。もっと確実なものが必要だ。

 イザラは、貴族の名鑑を記した分厚い本を取り出した。彼女が探しているのは、通常の社交界とは一線を画す人物。公爵家の威光にも臆せず、貴族社会の古い慣習や権益に精通している人物。


(この人しかいないかもしれない)


 彼女の指が、ある名前の上で止まった。


『アレクシス・ヴァルトヘイム』


 北の辺境を守る辺境伯。

 社交界では「冷徹」「人嫌い」と噂され、その姿を王都の夜会で見ることはほとんどない。彼に関する噂はどれも芳しくないものばかりだったが、同時に、彼が極めて有能であり、中央の政治闘争とは距離を置いていることも知られていた。


(政略結婚の慣習、貴族間の契約……その専門家)


 辺境伯は、複雑な領地間の権利関係を幾度も調停し、その冷徹な判断力で解決に導いてきた実績があった。彼ならば、公爵家の横暴に対抗する知恵を貸してくれるかもしれない。

 もちろん、彼が協力してくれる保証はない。人嫌いの彼が、侯爵令嬢の痴話喧嘩に類する問題に関心を示すとは考えにくい。


(だが、これは貴族の契約と誇りの問題)


 イザラはそこに賭けることにした。

 彼女はペンを取り、便箋に向かった。辺境伯アレクシスに面会を求める、丁寧だが、強い意志を込めた手紙を書くために。

「正当な理由なき婚約破棄」を訴えるべく、イザラの孤独な戦いが今、始まろうとしていた。彼女は、自分の尊厳を守るため、あえて社交界の影とも言える存在に接触することを決意したのだった。


 イザラが辺境伯アレクシス・ヴァルトヘイムへ送った手紙は、王都の社交界における慣例を無視したものだった。紹介状もなく、共通の知人を介するわけでもない。ただ一方的に、侯爵令嬢が「貴族間の契約と慣習法について教えを請いたい」と、面会を求める内容だった。

 返事が来ない可能性は高い。そうイザラは覚悟していた。人嫌いで知られる辺境伯が、見ず知らずの令嬢――しかも、今まさに公爵家との婚約破棄問題で渦中にあるであろう令嬢に、わざわざ会う理由がない。


(だが、待っているだけでは何も変わらない)


 手紙を出してから五日が経過した。その間、エリオットからの接触はなかったが、父であるヴェルフェル侯爵のもとには、ブライア公爵からの圧力がかかり始めていた。表向きは「両家の関係見直し」といった穏やかな言葉だったが、その実、公爵家の経済的・政治的影響力をちらつかせた脅しに近かった。

 父はイザラを責めなかったが、その疲弊した表情はイザラの心を重くした。


 六日目の午後。

 イザラは自室で、過去の貴族間の契約不履行に関する判例を調べていた。侯爵家の書庫から持ち出した古い法律書は難解だったが、知識だけが今の彼女の武器だった。


「お嬢様、大変です!」


 侍女が息を切らして部屋に飛び込んできた。


「どうしたの、慌てて。騒いではいけません」

「そ、それが……ヴァルトハイム辺境伯様がいらっしゃっているのです! お嬢様をご指名で!」

「なんですって?」


 イザラは思わず立ち上がった。埃っぽい法律書が床に落ちたが、気にする余裕はなかった。


(返事ではなく、直接……?)


 辺境伯が侯爵家を訪問する。これは異例の事態だった。彼は王都に滞在している際も、公的な場所以外で姿を見せることは稀だ。

 イザラは急いで身なりを整えた。鏡に映る自分の顔は少し青白い。だが、その灰色の瞳には決意の光が宿っていた。


 応接室の扉を開けると、そこには冷たい空気が満ちていた。

 窓から差し込む午後の光が、部屋の中央に立つ男の姿を際立たせる。黒一色のフロックコートは装飾が一切なく、その体格の良さを隠しもしない。背は高く、短く切りそろえられた黒髪が、彼の厳格さを物語っていた。

 彼がゆっくりと振り向く。


(この人が、アレクシス辺境伯……)


 噂に違わぬ冷徹な美貌だった。彫りの深い顔立ちに、切れ長の黒曜石のような瞳。その瞳は感情を一切映さず、まるで氷のようにイザラを射抜いた。


「君が、ヴェルファレル家の息女か」


 低く、よく通る声だった。


「はい。ご足労いただき、恐れ入ります。辺境伯アレクシス様」


 イザラは完璧な淑女の礼(カーテシー)をとった。内心の緊張を悟られぬよう、細心の注意を払う。

 アレクシスは彼女の挨拶に頷きもせず、ただ値踏みするように見つめている。


「無駄な時間は嫌いだ。手紙には『教えを請いたい』とあったな」


 彼はソファに座ることを勧めもしない。立ったまま、まるで尋問するかのような口調だった。


「はい。私は今、貴族間の契約における『正当な理由』について、知識を必要としております」

「ほう。ブライア公爵家の嫡男とのことか」


 アレクシスの言葉に、イザラは一瞬息をのんだ。


(やはり、ご存知だった)


「噂は聞いている。公爵家のエリオットが伯爵令嬢に現を抜かし、君に婚約破棄を突きつけた。違うか」

「……事実でございます」


「くだらん」アレクシスは一刀両断に切り捨てた。


「恋愛沙汰の仲裁など、私の専門外だ。人選を誤っているな」


 彼はそう言うと、踵を返して部屋を出て行こうとした。


「お待ちください!」


 イザラは思わず声を張り上げた。

 アレクシスが足を止め、不機嫌そうに振り返る。その視線は、邪魔な小石でも見るかのように冷たかった。

「これは、恋愛沙汰などではございません!」イザラは一歩前に出た。


「これは、我がヴェルフェル侯爵家の名誉と、私個人の尊厳を踏みにじられた、契約不履行(・・・・・)の問題です」


 アレクシスの黒い瞳が、わずかに細められた。


「続けろ」

「エリオット様は『真実の愛を見つけた』と。それが婚約破棄の理由だとおっしゃいました。私は『正当な理由なき破棄は認められない』と拒否いたしました」

「ほう。それで、公爵家が圧力をかけてきた、と」

「ご明察の通りです。ですが、私は屈しません。法と慣習が、道理を欠いた権力によって歪められることがあってはならない。私は、侯爵令嬢としての誇りを守るために戦うと決めました」


 イザラはアレクシスの目を真っ直ぐに見据えた。


「私が辺境伯様にお伺いしたいのは、痴話喧嘩の解決策ではございません。この国の貴族社会を支える契約の重みについて。そして、それを一方的に破棄しようとする者に対し、法的に、あるいは慣習法に則って、どのような対抗手段があり得るのか。その知見をお借りしたいのです」


 応接室に沈黙が落ちた。

 アレクシスはイザラを数秒間、黙って見つめ続けた。彼女の灰色の瞳には、恐怖も、甘えも、媚びもない。ただ、折れることを知らない鋼のような意志だけがあった。

 やがて、アレクシスは初めて、ふっと息を漏らした。それは嘲笑でもなく、呆れでもない。ごくわずかな、興味の兆候だった。


「……面白い」


 彼は踵を返し、今度は部屋を出ていくためではなく、重厚なソファに向かった。そして、深く腰を下ろした。


「紅茶を頼む。話くらいは聞いてやろう」


 それは、イザラが勝ち取った小さな、しかし決定的な第一歩だった。




 アレクシスは非公式な協力者となった。

 彼は「侯爵令嬢の家庭教師」という名目で、週に二度、ヴェルフェル侯爵家を訪れることになった。もちろん、彼が教えるのは刺繍やダンスではなく、貴族社会の裏表、政略結婚の歴史、そして権利の守り方だった。


「公爵家は『不貞』を理由に持ち出す可能性がある」


 書斎で、アレクシスは分厚い古文書をめくりながら冷たく言った。


「エリオットがベアトリスと懇意にしている今、それは彼らにとっても諸刃の剣では?」


「甘いな」アレクシスは鼻で笑った。


「彼らは君に『不貞の濡れ衣』を着せるだろう。そうなれば、公爵家は被害者として、侯爵家を断罪できる」

「私が、不貞……」


 イザラは言葉を失った。そんな卑劣なことを、と反論しかけたが、アレクシスの真剣な目がそれを許さなかった。


「実際に、婚約破棄を有利に進めるために、相手に醜聞(スキャンダル)を捏造する例は少なくない。特に、相手が君のように地味で、社交界での影響力が弱い令嬢なら尚更だ」


(地味で、影響力が弱い)


 痛いところを突かれたが、事実だった。


「では、私はどうすれば……」

「先手を打つ」アレクシスは言った。


「君が潔白であることの証明と、同時に、相手が潔白でないことの証明。その両方が必要だ」

「相手……ベアトリス様、ですか」

「あの女が、エリオットを籠絡した元凶だろう。あの手の女は、男関係が派手なことが多い。過去を徹底的に洗え。金銭トラブル、他の男との関係。埃の一つも出ない人間などいない」


 アレクシスの言葉は冷徹だったが、的を射ていた。


 イザラは頷いた。


「はい。心当たりを探ってみます」

「私が使える情報網もいくつかある。だが、表立っては動けん。あくまで『非公式』だ」


 彼は釘を刺した。


「君自身の『知的行動力』とやらを見せてもらう」




 イザラは行動を開始した。

 アレクシスの助言は、彼女の戦術を明確にした。必要なのは、ベアトリス・キリュールに関する確実な証拠だ。

 彼女はまず、ヴェルフェル侯爵家が長年懇意にしている情報屋に密かに連絡を取った。父には内緒だった。これはイザラ自身の戦いであり、侯爵家全体を巻き込むわけにはいかなかったからだ。


「キリュール伯爵令嬢の身辺調査を。特に、過去の男性関係と、ご実家の金銭の動きについて」


 調査には金がかかる。イザラはためらうことなく、母の形見である宝飾品をいくつか換金した。誇りを守るための対価としては安いものだった。


 だが、イザラが動けば、相手もまた動く。

 イザラとアレクシスが、週に二度も密会している――。

 その噂は、ベアトリスの耳に届くまでにそう時間はかからなかった。


「まあ、あの地味なイザラ様が? あの人嫌いの辺境伯様と?」


 王宮のサロンで、ベアトリスは扇を広げ、驚いたふりをしてみせた。その周りには、彼女を取り巻く令嬢たちが集まっている。


「ええ、本当ですわ。辺境伯様が侯爵家に入っていくのを、わたくしの侍女が見たそうですの」

「しかも、二人きりで書斎に篭っているとか……」


 ベアトリスの目は、扇の陰で計算高く細められた。

 彼女にとって、イザラがエリオット以外の男と接触していること自体が、格好の攻撃材料だった。しかも、相手はあの若く有能だが、黒い噂の絶えない辺境伯だ。


「……なんて、おいたわしい」ベアトリスはわざとらしく眉を寄せ、悲しげな声を出した。


「エリオット様という方がいらっしゃるのに。いくら婚約がうまくいっていないからといって、別の殿方に慰めを求めるなんて」

「ま、まさか……不貞、ですの?」


 取り巻きの一人が、待っていましたとばかりに声を上げた。


「そんな……わたくし、信じたくありませんわ」ベアトリスは首を振った。


「でも、エリオット様は純粋な方。もしこの噂が耳に入ったら、どれほどお傷つきになることか……」


 悪意の種は、瞬く間に蒔かれた。

 ベアトリスはすぐさまエリオットの元へ駆けつけた。


「エリオット様、お聞きになりました?」

「何をだ、ベアトリス」


 最近のエリオットは、イザラの頑なな態度に苛立ちを募らせていた。


「イザラ様のことですわ。あの方、わたくしたちの仲を邪魔するために、とんでもない方と手を組んだようですの」

「とんでもない方?」

「辺境伯アレクシス様です!」


 その名を聞いて、エリオットの顔色が変わった。


「ヴァルトハイム辺境伯だと? なぜ、あの男が」

「さあ……でも、婚約者である貴方様を差し置いて、別の男性と密会を重ねているのは事実ですわ。しかも、あの『冷徹』で鳴らした辺境伯と二人きりで……。一体、書斎で何を教えていただいているのかしら」


 ベアトリスは甘い声で、しかし毒を含んだ言葉をエリオットの耳に注ぎ込んだ。

 エリオットの顔が怒りに歪んだ。「……あの女」

 彼の優柔不断な心は、ベアトリスによって簡単に操作された。イザラが自分を拒絶したことへの苛立ちと、婚約者が別の男と通じているという屈辱感。


「イザラが、私を裏切って……!」


 ベアトリスは心の中で(いえ、エリオット様。裏切ったのは、貴方様の方でしょうに)と嘲笑いながら、心配そうな顔でエリオットの胸に寄り添った。


「ああ、エリオット様。お気を確かに。でも、これで『正当な理由』ができましたわね」




 噂は、火に油を注がれたように社交界を駆け巡った。


『イザラ嬢、公爵家嫡男に飽き足らず、辺境伯に乗り換えか』

『婚約破棄を拒否しているのは、公爵家からの慰謝料を吊り上げるため』

『いや、辺境伯と通じていることがバレないよう、婚約者の立場を利用しているのだ』

『あの地味な顔に似合わず、とんでもない悪女だ』


 噂は日を追うごとに悪質になり、イザラの耳にも届き始めた。

 侍女たちはイザラの前でその話題を口にこそしなかったが、その目には怯えと、わずかな侮蔑の色が浮かんでいた。


「お嬢様、お茶でございます」


 侍女の一人が、震える手でティーカップを置いた。

 イザラは法律書から目を上げ、静かに彼女を見つめた。


「何か、言いたいことがあるのでしょう」

「い、いいえ!滅相もございません!」

「隠さなくていい。外で、私についてどんな噂が流れているか、知っています」


 侍女はビクッと肩を震わせた。

 イザラはため息をついた。


「……私は構いません。ですが、あなたたちまで変な目で見られるのは本意ではないわ。辛いなら、無理に私のそばにいなくてもいいのよ」


「お嬢様!」侍女はハッとした顔でイザラを見た。

 イザラは穏やかに微笑んだ。


「私は、私であるために戦っているだけ。真実は一つよ」


 彼女のその態度に、侍女は何かを感じたのか、深く頭を下げた。


「申し訳ありませんでした。わたくし、お嬢様を信じております!」


 だが、イザラの内心は、その言葉ほど穏やかではなかった。


(これが、アレクシス様の言っていた濡れ衣)


 ベアトリスの策略は、イザラの予想よりも迅速で、そして悪質だった。彼女はイザラを「不貞を働いた女」として社会的に抹殺し、エリオットとの婚約破棄を正当化しようとしている。

 イザラは窓の外を見つめた。空は高く、青い。


(動揺している暇はない)


 彼女は一切動揺せず、毅然とした態度で噂を無視した。夜会への出席も、茶会への参加も、すべて断った。今は、社交界に出て潔白を叫ぶ時ではない。そんなことをすれば、火に油を注ぐだけだ。


(ベアトリスが私に噂を仕掛けてくるなら、私は彼女の事実を掴むまで)


 イザラは再び机に向かった。彼女の意識は、自分に向けられた悪意ではなく、ベアトリスの過去を洗い出すことだけに集中していた。

 彼女の粘り強い調査が、少しずつ、しかし確実に、ベアトリスの足元を脅かす真実に近づいていこうとしていた。


(待っていて、ベアトリス様。貴方が私の誇りを踏みにじったように、私も貴方の化けの皮を剥がしてさしあげる)


 灰色の瞳が、冷たい炎を宿して揺らめいた。




 イザラ・ヴェルファレルに関する悪意に満ちた噂は、王都の社交界を瞬く間に席巻した。それはもはや、井戸端会議の域を超えていた。公爵家嫡男エリオットの優柔不断さを非難する声は消え失せ、代わりに、婚約者を裏切り、あろうことか素性の知れぬ辺境伯と通じた「悪女」イザラへの糾弾が主流となっていた。


『地味な顔をして、裏では辺境伯を手玉に取るとは』

『侯爵家の令嬢教育も地に落ちたものだ』

『ブライア公爵家がお気の毒。あのような女を嫁に迎えるところだったとは』


 ヴェルフェル侯爵家に対する風当たりは、日に日に強まっていった。父である侯爵は、王宮での立場を失いかけ、旧知の友人であったはずの貴族たちからも距離を置かれるようになっていた。彼は何も言わなかったが、その背中がやつれていくのを、イザラは痛いほどの罪悪感と共に見つめていた。

 使用人たちの態度も露骨に変わった。以前は敬意を払っていた侍女たちも、今ではイザラの前に出ると目を伏せ、その視線には隠しきれない軽蔑と恐怖が混じっていた。


(私が耐えるのは構わない。けれど、父や、家の者たちにまで……)


 イザラの心は、孤立という名の冷たい水にじわじわと浸食されていくようだった。悔しさで唇を噛むと、鉄の味がした。


 そんな嵐の真っただ中にあっても、アレクシス・ヴァルトヘイムは、まるで季節外れの吹雪のように平然と侯爵家を訪れていた。


「お嬢様、また辺境伯様が……」


 侍女の声は非難がましい。この男が来なければ、お嬢様がこれほどまでに悪く言われることもないのに、と。

 イザラは侍女に「お茶の準備を」とだけ命じ、書斎へと向かった。

 扉を開けると、アレクシスはすでにそこにいて、窓の外を眺めていた。黒いコートは埃ひとつついていない。


「……よく、いらしてくださいました」


 イザラの声には、自分でも気づかないうちに微かな震えが混じっていた。

 アレクシスはゆっくりと振り返った。その黒曜石の瞳は、彼女の青白い顔と、固く握りしめられた拳を値踏みするように見つめた。


「外は随分と賑やかだな、侯爵令嬢」


 その声には何の同情も含まれていない。


「……お耳に、入りましたか」

「王都中が君の『不貞』の話で持ちきりだ。聞こえぬ方が難しい」


 アレクシスは書斎の椅子に深く腰掛けた。「それで? 心は折れたか」

 イザラはその問いに、カッと頭に血が上るのを感じた。侮辱されている。だが、それ以上に、試されているのだと直感した。


「いいえ」彼女は背筋を伸ばし、アレクシスの正面に立った。


「動揺はしました。ですが、折れてはおりません。彼らが私に不貞の濡れ衣を着せるというのなら、私は彼らの真実を白日の下に晒すまでです」

「ほう」


 アレクシスの唇の端が、ごくわずかに持ち上がった。それは笑みと呼ぶにはあまりにも冷たい形だったが、イザラはそこに微かな評価の色を見た気がした。


「噂は、時として事実よりも重い刃となる。特に、君のように守りが薄い者にとってはな」彼はテーブルに置かれた報告書の束を指差した。


「その情報屋の調査は、その刃に対抗できるのか?」


 イザラの雇った情報屋からの報告は、遅々として進んでいなかった。


『ベアトリス嬢は派手好き。多くの殿方からの贈り物を当然として受け取っている』

『キリュール伯爵家は、彼女の浪費を特に咎めていない様子』


 どれも社交界の誰もが知っているような、表面的な情報ばかりだった。ベアトリスが計算高いことは確かだが、法的に「不貞」や「詐欺」と断定できるような尻尾を掴ませてはいなかった。


「……まだ、決定打に欠けます」イザラは正直に認めた。


「彼らは巧妙です。噂は広げても、証拠は残さない」

「だから甘いと言った」アレクシスはため息をついた。


「君は事実を探している。だが、あの手の女は『事実』を金で塗り替える。探すべきは事実そのものではなく、塗り替えた『金の流れ』だ」

「金の、流れ……」

「そうだ。キリュール伯爵家は、数年前から深刻な財政難に陥っている。それは知っているな?」

「はい。ですが、ベアトリス様の派手な生活は……」


「そこだ」アレクシスは指でテーブルを軽く叩いた。


「財政難のはずの伯爵家が、なぜ娘の浪費を許容し、なおかつ社交界での体面を保てているのか。ベアトリスの身に着ける宝飾品、ドレス。それらはどこから出ている?」

「エリオット様からの、贈り物では……」

「それだけでは足りん。エリオットと懇意になる前から、あの女は派手だった。収入源は別にあると考えるのが妥当だ」


 アレクシスの言葉が、イザラの思考に新しい光を当てた。


(ベアトリス様自身が、実家の財政を支えている……?)


「君の情報屋は優秀かもしれんが、所詮は王都のゴシップ屋だ。貴族の深い闇には手が届かん」アレクシスは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


「これは、私が非公式に(・・・・)調べさせたものだ」


 イザラは息をのんでそれを受け取った。そこには、いくつかの店と個人の名前が記されていた。


「マルティノ宝石商。キリュール伯爵家御用達だが、帳簿上はここ数年、ほとんど取引がない。だが、ベアトリスは頻繁にここから新作を身に着けている」

「どういうことです?」

「個人取引だ。そしてこの宝石商は、同時に質屋も営んでいる。それも、貴族専門の、秘密厳守のな」


 アレクシスは続けた。


「もう一つ。ロシュフル子爵。彼は賭博で身を持ち崩し、今は違法なカジノの胴元をしている。ベアトリスは、この男が主催する夜会にも頻繁に顔を出している」


 イザラは愕然とした。宝石商、質屋、違法カジノ。それらが、あの華やかなベアトリスと結びつかない。


「あの女は、男から貢がせた宝飾品を、あの宝石商で換金している。そして、その金の一部がキリュール伯爵家の負債返済に充てられ、残りはロシュフル子爵のような闇社会に流れている可能性がある」

「まさか……」

「あり得ない話ではない。キリュール伯爵は娘を『金のなる木』としか見ておらんのだろう」


 アレクシスの声は、感情を一切排していた。


「君の情報屋に、この名前を渡せ。切り口を変えれば、証拠は向こうから出てくる」


 イザラは羊皮紙を強く握りしめた。これは、ただの助言ではない。アレクシスが彼自身の人脈と情報網を使い、イザラの戦いに加担(・・)した明確な証拠だった。

「……なぜ、ここまで」イザラは思わず尋ねていた。


「私に協力しても、辺境伯様には何の得もないはずです」


 アレクシスは窓の外に視線を戻した。彼の横顔は、まるで彫像のように動かない。


「私は道理を欠いた権力が嫌いなだけだ。ブライア公爵家の横暴も、屍肉に群がる烏のような貴族どもも、虫唾が走る」


 彼はイザラに向き直った。


「それに……」

「……」

「折れない意思を持つ者が、無様に踏みにじられるのは、見ていて気分が悪い」


 それだけ言うと、彼は立ち上がった。


「次に来る時までに、使い物になる報告書を揃えておけ。舞台が整うなら、最高の演出を考えてやらんとな」


 アレクシスの言葉は、イザラの心の奥底で凍りついていた何かに、再び火を灯した。




 イザラは、母の形見であった最後のネックレスを売り払い、情報屋に渡した。アレクシスから受け取った名前と共に。「全財産を賭けてもいい。この裏付けを取ってちょうだい」と。

 情報屋の動きは、今までにないほど速かった。


 アレクシスの示した切り口は正しかった。

 一週間後、イザラの手元に届けられた小箱には、数枚の書類の写しと、一人の侍女の証言録が入っていた。

 イザラは震える手でそれを読み進めた。


(これは……!)


 それは、イザラの想像を絶する、ベアトリスの裏の顔だった。

 ベアトリスは、エリオットと懇意になる以前から、複数の貴族男性(その多くは家督を継げない次男や三男、あるいは裕福だが格下の家の者)と関係を持っていた。

 彼女は彼らをその美貌と計算高い駆け引きで虜にし、高価な贈り物や金銭を愛の証として貢がせた。


 問題はその後だった。関係がこじれたり、相手が金銭的に尽くせなくなったりすると、彼女は巧みに手切れ金を要求した。中には、スキャンダルを恐れた相手の実家が、キリュール伯爵家に対して「口止め料」として多額の金銭を支払っていたケースもあった。

 それはもはや、恋愛のもつれではない。計画的な詐欺だった。

 キリュール伯爵家は、その金で財政難を糊塗し、ベアトリスのさらなる活動(・・)を支援していたのだ。


『マルティノ宝石商』は、そうして集めた宝飾品を、足がつかないように処理し、換金するための窓口だった。

『ロシュフル子爵』は、その金の一部を運用、あるいは洗浄する役割を担っていた。


 証拠として、宝石商の裏帳簿の写し、ベアトリスが男性に送った手紙の写し、そして何より決定的だったのは、過去にベアトリスに仕え、口止め料と共に解雇された侍女の証言だった。彼女は、ベアトリスが複数の男性の子供を懐妊したこと、そしてそれを秘密裏に処理していたことまで告白していた。


(……ひどすぎる)


 イザラは怒りを通り越し、深い戦慄を覚えた。

 こんな女が、エリオット様の「真実の愛」の相手。

 そして、こんな女が、自分を不貞の女と罵っていたのだ。


(エリオット様も、もしかしたら……)


 イザラは気づいた。エリオットもまた、ベアトリスのカモ(・・)の一人に過ぎないのかもしれない。ただ、彼が公爵家嫡男であったがために、今回は婚約という最大の獲物――公爵家との血縁を狙うための舞台装置にされたのだ。


 イザラは証拠の束を胸に抱き、アレクシスの次の訪問を待った。

 書斎に現れたアレクシスは、イザラが差し出した報告書に黙って目を通した。彼の表情は変わらなかったが、その目が冷たく、鋭い光を帯びていくのをイザラは見逃さなかった。


「……予想以上だな」


 報告書を読み終えたアレクシスが、低く呻いた。


「これは王国法に抵触する、明確な詐欺行為だ。キリュール伯爵家は、娘を使って公爵家を欺き、不当な利益を得ようとしたことになる」

「はい。これを、どう使えば……」


「使う?」アレクシスは冷ややかに笑った。


「これほどの証拠を握っていて、まだ迷うか。侯爵令嬢」


 彼は立ち上がり、イザラの前に立った。


「君が望むのは、婚約の継続か? それとも、君の誇りを踏みにじった者たちへの報復か?」


 イザラは迷わなかった。彼女は顔を上げ、アレクシスの黒い瞳を真っ直ぐに見返した。


「私が望むのは、真実の公表と、私の名誉の回復。そして、ヴェルフェル侯爵家の誇りを守ることです」

「……いい答えだ」


 アレクシスは満足そうに頷いた。


「ならば、舞台が必要だ。この証拠を最も効果的に突きつけるための、華やかな舞台が」


(舞台……)


 イザラは、あの夜会を思い出した。ベアトリスとエリオットが、自分を公然と侮辱した、あの王宮のシャンデリアの下を。


「三日後、王太子殿下の生誕を祝う夜会が開かれる」アレクシスが言った。


「ブライア公爵も、キリュール伯爵家も、当然出席する。そして、エリオットとベアトリスは勝ち誇った顔で、被害者として君を断罪するつもりだろう」

「……」

「そこが、君の戦場だ。イザラ・ヴェルファレル」


 アレクシスは初めて、彼女の名前を呼んだ。


「君が失ったすべての名誉を、君自身の力で取り戻せ。我々は、そのための演出(・・)を準備する」


 イザラの灰色の瞳に、鋼の決意が宿った。三日後。すべてを終わらせるために、彼女は自ら、敵の待つ戦場へと乗り込むことを決意した。



 *



 王太子殿下の生誕を祝う夜会は、この数ヶ月で最も盛大な催しとなった。王宮の大広間は、これ以上ないほどの贅沢な装飾が施され、集った貴族たちの煌びやかな衣装と宝石が、シャンデリアの光を浴びて星空のように輝いている。


 だが、その輝きとは裏腹に、会場の空気は妙な緊張感をはらんでいた。

 誰もが噂の渦中にいる令嬢、イザラ・ヴェルファレルの動向を注視していたからだ。


「本当に来るのかしら、あの方」

「辺境伯と不貞を働いたと噂の?」

「ええ。ブライア公爵家もキリュール伯爵家もいらしているわ。公の場で婚約破棄が宣言されるのではなくて?」


 貴族たちは扇の陰で、期待と侮蔑の入り混じった視線を交わしていた。

 その視線が、一斉に、ある一点へと注がれる。


 大広間の扉が開かれ、一人の令嬢が静かに入場した。

 イザラ・ヴェルファレル侯爵令嬢。

 彼女の登場に、音楽さえもが一瞬、力を失ったかのように静かになった。

 人々は息をのんだ。そこにいたのは、彼らが地味で退屈と蔑んでいた壁の花ではなかったからだ。


 イザラがまとっていたのは、深く、静かな夜の森を思わせる濃藍のドレスだった。華美な刺繍やレースは最小限に抑えられ、代わりに最高級のシルクが彼女の動きに合わせて滑らかな光沢を放つ。その生地は、彼女の背筋の通った立ち姿と、揺るぎない意志の強さを際立たせていた。

 胸元には、唯一の装飾である銀細工のブローチが輝いている。それはヴェルフェル侯爵家の紋章であり、彼女の誇りの象徴だった。


 彼女は顔を上げ、大広間を見渡した。向けられる好奇と悪意の視線を、まるで意に介さないかのように。その灰色の瞳は、かつてのように伏せられることはなく、氷のように冷静な光を宿していた。

 彼女は一人だった。だが、その姿は、大勢の取り巻きを連れている者よりも、遥かに堂々として見えた。


「まあ……あの方が」

「……噂とは、少し違うようですわね」


 貴族たちの囁きの色合いが、わずかに変わる。

 イザラは、まっすぐに、会場の中央へと歩を進めた。彼女の目的地は決まっている。

 そこには、今夜の主役の一組であるかのように、人々にかしずかれている男女がいた。


「エリオット様、本当に素敵」

「ベアトリスこそ、今夜の月の女神のようだ」


 炎のような真紅のドレスをまとったベアトリス・キリュールと、その隣で得意げに笑うエリオット・ブライア。

 ベアトリスは、イザラの登場に気づくと、一瞬その目を細めた。

 彼女はエリオットの腕にさらに強く絡みつき、勝ち誇った笑みを浮かべた。


「あら、イザラ様。いらしていたのですね。てっきり、体調でも崩されて、お屋敷に引きこもっていらっしゃるかと思いましたわ」


 その声は、心配するふりをしながらも、明確な嘲笑を含んでいた。周囲の貴族たちが、面白そうに二人を取り囲む。

 エリオットもまた、イザラを見て顔を歪めた。彼にとって、イザラはもはや自分の名誉を傷つけた裏切り者でしかない。

「イザラ。こんな場所まで、よく来られたものだ」その声は冷え切っていた。


「君の悪評は、王宮中に知れ渡っている。ヴェルフェル侯爵家の名誉も地に落ちたな」

「エリオット様」


 イザラは静かに、しかし凛とした声で応じた。


「私の悪評、ですか。それは、私が辺境伯様と不貞を働いているという、あの噂のことでしょうか」


「とぼけるな!」エリオットが声を荒げた。


「婚約者である私を差し置いて、別の男と密会を重ねていたことは事実だろう!」


「ええ、事実ですわ」ベアトリスが甲高い声で追随する。


「わたくし、エリオット様があまりにお可哀想で……。こんな裏切り者の女ではなく、わたくしこそが、エリオット様を真に愛し、支えられると誓いますわ!」


 彼女は芝居がかった仕草でエリオットを見つめ、周囲に同情を誘おうとした。


(真実の愛、裏切り、悪評……すべて貴方たちが作り出した虚構)


 イザラは、この茶番を終わらせるために息を吸った。


「エリオット様。貴方様は、『正当な理由』があれば婚約破棄もやむを得ないと、そうおっしゃいましたね」

「そうだ。そして、君の不貞こそが、その理由だ!」


「では、お伺いいたします」イザラは一歩前に出た。


「不貞を働き、我が侯爵家との契約を裏切ったのは、果たしてどちらだったのでしょう」

「何を……」


 イザラは懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。それは、情報屋が手に入れた証拠の一部だった。


「ベアトリス・キリュール様」


 イザラはエリオットから視線を外し、初めてベアトリスの目を真っ直ぐに射抜いた。


「貴女は、マルティノ宝石商をご存知ですね」


 その名が出た瞬間、ベアトリスの顔から血の気が引いた。


「な、何を言っているの……宝石商くらい、誰でも……」

「では、ロシュフル子爵は?」


 イザラは間髪入れずに続けた。ベアトリスの肩が、微かに震える。


「貴女は、エリオット様と懇意になられる以前より、複数の貴族男性を籠絡し、多額の金品を貢がせ、関係がこじれれば『口止め料』として金銭を要求していた。違いますか?」

「なっ……!」

「そんな、でたらめを!」


 ベアトリスが金切り声を上げた。

 だが、イザラは止まらない。彼女の声は、大広間の隅々まで響き渡った。


「貴女が貢がせた宝飾品は、マルティノ宝石商の裏帳簿を通じて換金され、その金は、財政難に喘ぐキリュール伯爵家の負債返済と、ロシュフル子爵が関わる違法な賭博に流れていた。これは、王国法に抵触する明らかな『詐欺行為』です」

「黙りなさい!」


 ベアトリスはヒステリックに叫んだ。


「証拠でもあるというの!」

「ええ。ここに」


 イザラは、持っていた羊皮紙――宝石商の裏帳簿の写し――を、近くにいた王宮警護隊の隊長に差し出した。


「そして、貴女に騙された男性たちの実家が、キリュール伯爵家に支払った口止め料の記録。さらに、口封じのために解雇された、貴女の元侍女の証言録も」

「あ……あ……」


 ベアトリスは、自分が築き上げた完璧な仮面が、音を立てて崩れていくのを感じていた。

 エリオットは、あまりの展開に呆然と立ち尽くしている。


「イザラ……? 何を、何を言っているんだ……」

「エリオット様。貴方様は、彼女の獲物の一人に過ぎなかったのですよ」


 イザラは冷ややかに告げた。


「ただ、貴方様が公爵家嫡男という、これまでで最大の獲物だった、というだけの話です」

「そ、そんな……ベアトリス、嘘だろ、ち、違うと言ってくれ!」


 エリオットがベアトリスの腕を掴む。だが、ベアトリスは震えるだけで、何も答えられない。

 その時だった。


「――実に、興味深い話だ」


 冷たく、よく通る声が、群衆を割って響いた。

 黒い礼装をまとった辺境伯、アレクシス・ヴァルトヘイムが、静かに歩み出てきた。その黒曜石の瞳は、氷のようにベアトリスを見据えている。


「イザラ嬢が私と不貞を働いている、と?」


 アレクシスは、イザラの隣にゆっくりと立った。二人が並ぶ姿は、対照的ながらも、奇妙なほどの調和と威圧感を放っていた。


「私が彼女に教えていたのは、ダンスのステップでも、ましてや男女の駆け引きでもない。道義を欠いた権力から、己の誇りを守るための戦い方だ」


 アレクシスは、狼狽するエリオットと、顔面蒼白のベアトリスを交互に見やった。


「侯爵令嬢を不貞の女と公然と罵り、婚約破棄を正当化しようとした者たちが、裏では詐欺行為と金銭目当ての情事を繰り返していた。なるほど」


 彼は、冷たい笑みを浮かべ、胸元から羊皮紙を取り出した。


「ところで、ここにも面白い証言がある。キリュール家のご令嬢と公爵家嫡男が、夜な夜な逢引をしている、と」


 アレクシスの皮肉げな言葉に、エリオットの肩が跳ねる。


「私の認識に誤りが無いのならば、そちらの公爵家嫡男・エリオット殿と、ヴェルファレル家のご令嬢との婚約は、まだ破棄されていないものと思っていたが――」


 口の端を噛みしめるイザラに、アレクシスは小さく肩を(すく)め、言った。


「さて、不貞を働いていたのは、果たしてどちらだったかな?」


 その言葉は、決定的な一撃となった。


「ひっ……!」


 ベアトリスは、ついに膝から崩れ落ちた。彼女の完璧な髪が乱れ、真紅のドレスが床に無様に広がる。


「違っ……わたくしは、騙されたのよ! エリオット様を愛しているわ!」

「見苦しい」


 アレクシスの声が、彼女を切り捨てた。

 それをエリオットはただ呆然と眺めている。

 キリュール伯爵が娘を助け起こそうと駆け寄ったが、それよりも早く、王宮警護隊が二人を取り囲んだ。


「キリュール伯爵、並びに令嬢ベアトリス。公爵家に対する詐欺行為、および王国法に抵触する違法賭博関与の疑いにより、身柄を拘束する」

「嫌! 嫌よ! 離して! どうしてわたくしがこんな目にぃぃいいいい!!!!」


 ベアトリスの絶叫が、大広間に響き渡った。

 周囲の貴族たちは、手のひらを返したようにイザラに同情的な視線を向け始めた。


「まあ、イザラ様。なんてお可哀想に……」

「とんでもない女狐に騙されるところだったのね」


 イザラは、その変わり身の早さに吐き気を覚えたが、表情には出さなかった。

 彼女の戦いは、まだ終わっていない。


「…………イザラ」


 絞り出すような声がした。エリオットだった。

 彼は、信じがたいものを見る目でベアトリスが連行されていく様を見つめていたが、やがてイザラに向き直り、その場に崩れるように膝をついた。


「イザラ……すまなかった。私は……私は、愚かだった」


 彼は顔を上げ、涙ながらにイザラの手を取ろうとした。イザラは、静かにその手を引いた。


「私は、あの女の言葉に踊らされ、君という人間の真の価値を見誤っていた。君がどれほど誇り高く、強い人間であったか……今、ようやくわかった」

「…………」

「どうか、私を許してほしい! 婚約破棄など、撤回する! 君こそが、私の、ブライア公爵家の、唯一無二の妻となるべき人間だ。もう一度、私にチャンスをくれ!」


 エリオットの必死の懇願。それは、数週間前までのイザラであれば、あるいは受け入れたかもしれない勝利の形だった。

 だが、今のイザラは、もうあの頃の彼女ではなかった。

 彼女は、膝をつくエリオットを、静かに、そして冷徹にさえ見えるほど穏やかな目で見下ろした。


「エリオット様。お顔をお上げください。貴方様は公爵家の嫡男でしょう」

「イザラ……」

「貴方様の謝罪は、受け取りましょう。貴方様がご自身の愚かさを理解されたことも」


 イザラはそこで言葉を区切り、はっきりと告げた。


「ですが、貴方様の愛はもう必要ありません」

「なっ……」エリオットは絶句した。

「私は、貴方様の愛が欲しくて戦ったのではありません。私は、私の誇りを、ヴェルフェル侯爵家の名誉を守るために戦ったのです」


 彼女の灰色の瞳は、もうエリオットを映してはいなかった。その先にある、未来を見据えていた。


「私には、私の誇りを理解してくれる場所が必要です。貴方様のように、都合よく私の価値を見誤り、そして都合よく真の価値(・・・・)などと宣う方の隣では、私の誇りは保てません」

「待ってくれ、イザラ! 私は変わる! 君のためなら!」


「いいえ」イザラはきっぱりと首を振った。


「人はそう簡単には変われません。そして、私ももう、貴方様のために変わるつもりはございません」

「そんな……私は……」


 尚も追い縋るエリオットに、彼女は小さく溜息を吐いて、言った。


「こう申し上げれば伝わるでしょうか? エリオット様。婚約は破棄してくださいませ」

「そ、そんな! 私は……」

「私は、貴方とは、真実の愛(・・・・)を見つけることはできそうにありません」

「あ…………」


 彼女は打ちひしがれるように両手をついたエリオットに背を向けた。それは、過去との完全な決別だった。


 イザラは、大広間の喧騒から逃れるように、夜風が吹き込むテラスへと向かった。

 すべてが終わった。彼女は自分の手で、尊厳を取り戻したのだ。


(これから、どうしようかしら)


 侯爵家は守られた。だが、婚約者という立場を失った今、彼女はまた新たな道を歩き出さねばならない。


「見事な結末だった」


 静かな声に振り返ると、アレクシスがテラスの柱に寄りかかって立っていた。


「……アレクシス様。今夜は、本当にありがとうございました。貴方様の助力がなければ、私は……」


「礼は不要だ」アレクシスは彼女の言葉を遮った。


「言ったはずだ。私は道理が通るのを見たかっただけだ。そして、君はそれを成し遂げた」


 二人の間に、心地よい沈黙が流れる。

 夜風が、イザラの濃藍のドレスを揺らした。

「これからどうする」アレクシスが、まるで世間話でもするかのように尋ねた。

「さあ……」イザラは小さく笑った。


「公爵家との婚約がこのような形でなくなった今、私の市場価値は暴落でしょうね。次の縁談を探すのも一苦労でしょう」

「市場価値、か。つまらん物差しだ」


 アレクシスは柱から離れ、彼女の隣に並んだ。二人は並んで、王都の夜景を見下ろす。


「君は、あの書斎で法律書を読み解いていた時の方が、よほど生き生きとしていたぞ」

「……そうでしょうか」


「ああ」アレクシスは頷いた。


「君のその冷静な分析力と、折れない意思は、夜会で男の品定めをするためでなく、別の場所でこそ生きる」


 彼はイザラに向き直った。


「私の領地は北の辺境だ。寒冷で、痩せた土地で、中央の貴族たちが考えるような華やかさとは無縁だ」

「……存じております」

「だが、そこには可能性がある。新しい農法、他国との交易ルートの開拓。解決すべき問題が山積みだ」


 アレクシスは、その黒い瞳でイザラを真っ直ぐに見つめた。


「イザラ・ヴェルファレル。君のその誇りと知性を、私の領地経営に貸してはくれないか」


 それは、求婚の言葉ではなかった。

 それは、対等なパートナーとしての、スカウトだった。

 イザラは驚きに目を見開いたが、すぐに、心の底から歓喜が湧き上がってくるのを感じた。


(私の誇りを理解してくれる場所)


 彼女が、エリオットに告げた言葉がよみがえる。

 それは、ここにあったのだ。

 イザラは、淑女の礼ではなく、まるで騎士が誓いを立てるかのように、アレクシスに向かって深く一礼した。


「……謹んで、お受けいたします。アレクシス様」


 顔を上げた彼女の灰色の瞳には、もはや迷いはなかった。それは、自らの意志で未来を掴み取った者の、強く、美しい輝きだった。

 二人は言葉を交わさず、再び夜景に目を向けた。


 夜風が、新しい関係の始まりを祝福するかのように、二人を優しく包み込んでいた。



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誤字なのかもしれませんが、ヴィルトヘイムとヴィルトハイムが混在しています。 それと、初対面の辺境伯閣下に対して名前呼びは、侯爵子女でしかない立場なのに流石に不敬が過ぎるのではないでしょうか。
不貞の噂に辺境伯も巻き込んでるけど、いいのか? 公爵家に匹敵する家の醜聞を公然と広めるのも、それに対して辺境伯が他人事のような態度なのも、ちょっとないわ。
不貞がどうこう、真実の愛がどうこうはどうでもよくて、家と家のつながり、婚姻による侯爵家の利益を理由に婚約破棄を拒否してましたよね。故に、最後に突きつけるべきは真実の愛がどうこうではなく、政略を結ぶべき…
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