思い出の少女
秋。
それは山が最も豊かになる季節。
秋
それはあなたが来て欲しいといった季節。
秋。
それはあなたが一年の中で最も美しくなる季節。
秋。
それは繰り返し訪れる遠い夏の日の残滓。
昔々のことです。
小学生のころのできごとです。
学校が長期休みにはいるとよく茨城の大洗の祖父母の家に行きました。家の近くには八幡宮があって、その裏手には大きな池がありました。池には鯉やフナ、クチボソなどがすんでいて、私達はよく釣りにいきました。
私達と云うのは私と桔梗ちゃんのことです。
桔梗ちゃんは綺麗なお姉さんです。一人っ子で近所に友だちもいない私はひとりで歌ったり、冒険家になったつもりで明るい森のなかを歩いていました。そうしたら、あるとき「クスクス」子どもの笑い声が聞こえました。
振り返ると赤毛の美しい少女がいました。その人は私に気づくと森の奥に逃げてしまいました。きらきらそそぐ陽だまりの中を鹿のように軽やかに駆けていく。走っても走っても追いつけなくて、息をきらして走る昼下がりの森。見失って切り株に腰かけると小枝がゆれて空から忍び笑いが聞こえた。
「どうして逃げたの。」
「追いかけて欲しかったから。」
その人は露草のような瞳をしていました。
「あのね。わたし、お祖母ちゃんたちの家にきたの。東京からきたの。」
「知ってるよ。八幡様のところの家の子だろう。」
「ねえ、一緒にあそぼう。」
その人のスカートの裾を引っ張って私はねだりました。
一瞬、彼女は困った顔をしました。
「じきに暗くなる。明日、また遊ぼうね。」
「わかった。」
「いい子だ。」
彼女は神社の近くまで送ってくれました。
「私は桔梗という。」
「桔梗?」
「そう。」
「わたしはね、」
名乗ろうとすると桔梗ちゃんは人差し指を口にやって「言っては駄目だ」と止めした。「なんで?」と尋ねると「そのほうがいいからだよ」としか答えてくれなかった。
「ここにも一人でこないほうがいい。」
「どうして。」
「一人だと危ないからだよ。」
でも、私は注意を聞きませんでした。だって桔梗ちゃんは「明日、また遊ぼうね」と言ったから。私を言いくるめるための約束だとしても、私はもう一度桔梗ちゃんに会いたかった。次の日、言いつけを破って神社にいくと桔梗ちゃんはいました。
「どうしてきたの?」
「桔梗ちゃんと遊びたかったから。」
「困った子だ。」
そういう桔梗ちゃんは眉をさげていましたが、どことなく嬉しそうでした。
それからずっと、祖父母の家に行くたびにいつも遊んでいました。桔梗ちゃんは物知りで私の知らないことをたくさん教えてくれました。そして、私のことをとても可愛がってくれました。桔梗ちゃんは故郷が好きで、野原や、川や、森や、池など色々な美しい場所を知っていました。夏に教えてもらった澄んだ湧き水が湧く沢は祖父も宮司さんもしりませんでした。
でも、人はあまり好きではないようでした。私は桔梗ちゃんの友達と会ったことはありませんし、遊びに行く途中に桔梗ちゃんの同じ制服を遠目に見かけても話しかけることはありませんでした。
いや、一人だけ、桔梗ちゃんから声をかけていた少女もいました。
その人もまた美しい人でした。
明るい髪の桔梗ちゃんと反対に黒い真っ直ぐな髪を持った静かな人でした。椿さんといいました。2人の間にいると幼心にどぎまぎしたものです。彼女らは当たり障りのないことを一つ二つ話すとすぐわかれていました。それが大人っぽく思えました。
桔梗ちゃんはよく「どうせなら、秋に来てよ。」といいました。「どうして?」と聞くと、決まって彼女は笑い「ないしょ。」と誤魔化しました。
桔梗ちゃんは一番古い友達です。
中学生になり、部活をするようになると祖父母の家に行かなくなり、彼女と遊ぶこともなくなりました。でも、忘れたことはありませんでした。
私がこれまでで一番綺麗だと思ったのは茨城の空でした。高台のベンチから見下ろす大洗は一方には田んぼが広がっていて、もう一方には遠くに、本当に微かですが海がみえます。山があって海があって、おまけに池もある。私はあの場所が好きでした。
中学三年、夏の大会が終わり、部活を引退した私は3年ぶりに祖父母の家に行こうと思いました。両親は忙しいので今回は一人です。祖父が亡くなり、一人で住む祖母が心配だったというのもあります。
時々、朝のプラットホームでこのまま反対方向の特急に乗って茨城に行きたいと思ったことも少なくありません。急に訪ねた私を祖母はあたたかく迎えてくれました。ふくよかな祖母はすこししぼんだように見えました。荷物をおくと、私は思い出を辿るように散歩をしました。
三年の月日は長いようで短いものです。
桔梗ちゃんと遊んだ神社も、森も、池も、何一つ変わりませんでした。
しかし、始めて見る景色でもありました。
一面の田んぼ、金色の稲が風にそよいでいます。紅葉した山の端の間に海がみえます。私は懐かしい大切な光景を高台のベンチからぼんやりと眺めていました。
「あら。」
後ろから女の人の声が聞こえました。
ブレザーの制服をきた黒髪の少女。
「桔梗の小さなオトモダチさん、私のこと覚えている?」
「えっと。」
「椿よ。」
「椿さん!お久しぶりです。」
「ええ、お久しぶりね。といっても桔梗がなかなか会わせてくれないから、二人っきりで話すのはこれが初めてだけど。大きくなったわね。」
「中学三年になりました。」
「そう。最後に会ったのは小学生のころだったわ。」
「そうですね。」
「桔梗に会っていかないの。」
「会ってはいけないと、約束したので。」
初夏のことでした。藤の花が咲く並木道を桔梗ちゃんと二人で手をつないで行き。そして、私は一人で帰りました。
藤の花が咲く山で二人で遊んだあの日。
三日ぶりに太陽が雲の間から顔を出した日でした。
桔梗ちゃんは笑いながら私の手をとって色々な花をみせてくれました。雨に濡れた若葉は日の光にきらきら輝いて綺麗でした。
切っ掛けは些細な事でした。
この時も桔梗ちゃんは私の名前を知りませんでした。いや知ろうとしませんでした。だから、私は教えようとして桔梗ちゃんに勢いよく抱きついて耳元で囁こうとしました。
そうしたら、突き飛ばされました。何がおこったのか、わかりません。でも、拒絶されたことだけはわかりました。
桔梗ちゃんは慌てて起こそうとしたけど、私は伸ばされた手を振り払いました。ショックだったんです。桔梗ちゃんは優しくて私の我がままを聞いてくれて甘やかしてくれるお姉さんだったから。
桔梗ちゃんは私が去っていくのをとめようとしたけど、振り返りませんでした。
意地でした。
泣きながら森のなかを走って。後ろの足音から遠ざかろうと普段遊ぶところよりもずっと奥まで走っているうちに迷子になりました。
焦っているうちにどんどんあたりは暗くなって、真昼だとおもったのがあっという間に夜になりました。ジメジメした空気が漂って、カブトムシみたいな腐葉土の匂いが鼻をツンと刺激します。
「どうしたのかな。」
見知らぬ男の人が声をかけてきました。
シャツなのに、なぜか土で汚れていてスコップを持っていました。「送ってあげよう」と言われたけど、どこか不気味で私は首をふりました。
「いいから、いいから。」
「い、いや。」
男の人は私の二の腕をぐいっと掴むとずるずると引きずるように歩きました。
「おとなしくしろ。」
逃げることはできませんでした。ただブルブル震えていました。男の人はスコップを片手にどんどん先に進んでいきます。私が木の根っこにつまずいたり、話しかけようとすると苛立ったように腕をひっぱりました。
「その手を放せ。」
懐かしい香りが身体を包んだ。
「さっさと去れ。でないとお前の命はないぞ。」
「だ、誰だ、おまえ。」
目の前には尻餅をついた男の人。
私は白い着物を着た女の人に抱きしめられていました。どすのきいた声におそれをなした男は訳のわからないことを叫びながら森の奥に消えていきました。
「どうせ、一生出られないだろうよ。」
「桔梗ちゃん?」
「そうだよ。」
私を抱きしめる両手を掴んで見上げると、桔梗ちゃんは哀しそうに笑いました。
「私はね。この森の、この山の神様なんだ。」
「神様?」
「そう。ずっと騙してごめんね。」
ざあっと冷たい風が吹きました。思わず目をつぶると柔らかくあたたかいものが額にふれます。それが何だったのか。幼い私には雨のように思われました。
「もう私に会おうとしてはいけないよ。次に会う私は、それは私の姿をしていても、あなたの知る私じゃないから。」
着物に縋りついて「行かないで」と言おうとしたら、突然、強い眠気が襲ってきて、私は気を失ってしまいました。目覚めるとそこは八幡宮の境内でした。
「桔梗はいつもあなたの事を話していたわ。」
「そうでしたか。」
「あなたは桔梗が好きだった?」
桔梗ちゃんが山の神様だと知り、私は山を彩る紅葉の一つになりたいと思いました。風に揺れる一輪の白百合になりたいと思いました。彼女の山と同じ存在になりたいと願いました。
私が桔梗ちゃんを好きだったのか、というのはあまりにも馬鹿げた質問です。
なぜなら、答えは「愛している」以外にないからです。
「桔梗はこのベンチにいつも座っていたわ。いい風景よね。ずっと見渡せる。」
「ええ。」
「でも、桔梗が見ていたのは風景なんかじゃない。とても綺麗な目で、ずっと遠くの空を、ずっと毎日みていたの。ひとりで。」
朝露に濡れる露草にような瞳にうつる空の青さの中を、一直線に横切る白鷺。遥か彼方にみえる眩い海の煌めき。桔梗ちゃんと一緒に見た風景が脳裏に浮かびます。
「あなたは純粋だったわね。あなたはとても可愛い声で笑っていたわね。風にのってあなた達の笑い声が森中に響いた。遠くからみると姉妹のように見えたわ。あなたの柔らかい頬を桔梗はよく撫でていた。」
最期に椿さんは桔梗はあなたが好きだったわ、とだけ残して去って行きました。
「忘れるもんか。」
ねえ、今も頭上の空は、あのときように青いよ。
水平線から朝日が昇るよ。
道端には露草が咲くよ。
田んぼは黄金に輝いて、山は赤く、鮮やかだ。
秋。
それは山が最も豊かになる季節。
秋
それはあなたが来て欲しいといった季節。
秋。
それはあなたが一年の中で最も美しくなる季節。
ああ、でも、
「わたしだって桔梗ちゃんが好きだった。」
あなたと一緒にいられればどんな季節だって愛おしいよ。




