3話・王子へ仕返しをする作戦
物思いの森をさまよっていたケリーヌの背後から、鈴を転がすような声が響いた。
「お待たせー」
振り返ると、淡い水色のドレスが、水面の波紋のように揺れていた。待ち合わせをしていたコチラノ伯爵家の令嬢、サユリーだ。ケリーヌと共にSNSを運営している。
「ドリンクコーナーから見とったけどなー。王子様と歩いてはったのは、どなたさんやろなー」
好奇心と不安が入り混じったように、口からこぼれる。ジャポネ文化が根付いているため、日本語が地方語の寄せ集めみたいな喋り方も多い。
サユリーは椅子に腰を下ろす。ドリンクコーナーのメイドがミルクカカオの入ったティーカップを持ってきて、下がる。
お茶会でも始まるかのような雰囲気だ。
「ユヌムン王国のカエレンとかいう、お姫ちゃんよ」
ケリーヌが婚約破棄という、異世界恋愛みたいな一幕を話すと、サユリーは氷水を被せられたような表情になる。
「ありえんでー。来週が結婚式やんかー」
話しながら瞳がかげる。
「『真実の愛を知った』なんて口走ってたけどさ。愛欲でしょ」
(話せば、気持ちが楽にもなるよね)
「それはなー。SNSでは離婚報告の常套句やでー。口に出したら嘘になるしなー」
ため息を添えてミルクカカオを一口すするサユリー。その言葉の裏にある熱気も嘘も、すべてを見透かしたように微笑む。
「そうだね。恋がどうとかの話題でも、突っ込まれるよね」
神話時代からSNSの話題は文化人や恋愛が主流だ。絡めて金儲けを企む人もいた。
「恋バナで盛り上がるのも、王道やでー」
サユリーは屈託なく笑う。その声は心の襞を優しく撫でる。
「SNSって、なんでも舞台にしちゃうでしょ。私も恋を探してみようかな」
ケリーヌの声は、ガラス細工のようにかすかに揺れていた。胸のどこかに、異性と付き合うことの理想も探していた。
「気になる男は、自然と現れるでー。スレの中身も変わると思うなー」
「恋なんてしたことないけどね。でも、婚約もなかったことになったし」
どこかで寂しさも感じてはいた。
(祖母様はおっしゃってた。「SNSでは、庶民も貴族も同じ」と。だからこそ、王家から情報を出す意味があると思ってる)
「王城からの発信を考えてたけど」
王家の内情や宮中の内輪話もスレッドで公開するのは、小さな革命のつもりだった。しかし、婚約破棄は発信内容どころか、これから何者として、何を生きるのか、まで問い直すことになったのだ。
「別に王家でなくてもなー。貴族なら、やろうと思えばだいたいのことはできるでー」
サユリーは涼しい顔で言う。しかし、その言葉が少し重くのしかかった。
「そうね。王家のことなら、庶民よりは知ってる。でも今は、自分のことでいっぱい」
SNSのスレッドを駆け抜けて、誰かが遠くで、人の不幸を今日のネタにしている。
「いつもより弱気やなー。そりゃ、しゃーないか。場所が場所やもんなー」
サユリーも、この婚約破棄劇が庶民の広場で起こったことが信じられない表情。
ふと耳の奥に蘇るのは、祖母の声。
『雑草は、どこでも美しく咲くのです』
その言葉は、ミルクティーの湯気のようにあたたかい。どこか懐かしく心の縛りをほどく呪文だ。
「ちょっとびっくりしただけ。大丈夫だよ。だって、祖母様と約束したもの。「いつでも凛とした私でいること」って」
(雨でも風でも、私は咲く。そうだよ、私は雑草。誰に踏まれても、凛として咲いてみせる)
心模様を仕事へ切り替えていく。
「もしかして」
サユリーが間を取って話題を変えた。目元には小さな悪戯の火が灯っている。
「姫ちゃんはユヌムン王家の長女じゃあらへんかなー。悪い噂はありよるでー」
「かもね。素行の悪い女がいると聞いてる」
「面白いネタになりそうやわー」
口角をくいっと上げて笑みを浮かべると、サユリーはいつものようにミルクカカオをひとくち含んだ。猫が好奇心に目を細めるような、鋭くも楽しげな表情をしている。噂話を拾い集めるのは、まるで宝石探しのような趣味らしい。
「やっぱり決めた。あの女のタグも付けて、スレをたてよう」
ふわりと立ちのぼるカカオの甘い香りが、鼻孔をくすぐり、ぴりついていた空気を柔らかく包む。
(恋心なんて最初からなかったしね。私から直接知らせたほうがいいか)
瞳の奥に冷ややかな観察者の色が宿る。
「もう、笑い飛ばしてあげる。たぶんあの女は二十五歳だよね。何か過去がありそう」
SNSに婚約破棄のトピックで『ユヌムン王国のカエレン王女』のタグもつけてスレッドを立てることにした。
「女王様が、なんとおっしゃるかやなあ。話があってもよさそうやけどなー」
サユリーが低く呟いた声は、早春の名残雪のように冷ややかで、妙に耳に残る響きをしていた。
「そうだね。それでも、人前で私に恥をかかせておいて、ただで済むと思うなって」
「王家の内情やスキャンダルはなー。知りたがる庶民も多いからのー」
二人は話しながら、SNSに流れる毒のようなコメント群を脳裏に浮かべる。まるで、表面を撫でるような好奇心の爪が、皮膚の下まで入り込んでくるようだ。
「お坊ちゃん王子は武術も文才もないから」
「貴族には気づいてる人もおるでー」
ケリーヌは微笑みで応える。
「儀式のときなんか、剣を手にしたけど、腕は小枝のように震えて、「もっと体力をおつけませ」とメイドにもささやかれてたよ」
「若い貴族相手の討論では、理屈は置き去りで感情ばかりを爆発させてましたなー」
「この前の王城内バーキュー見てたでしょ」
「目も生き生きしとったでー。鍋奉行を気取って、張り切ってましたなー」
「才能もないのに、仕切りたがるし」
二人は皿の上の冷めたスープを眺めるように、うんざり、という表情をした。
「王子様は飾りでええんでないかー。平穏な世の中だからなー」
ちょっと頼りないマイカルも、表向きは真面目な王子を演じている。だが、正体がばれている裸のおうさま。贅沢を好み、取り巻きの女性たちを引き連れて歩く姿は、笑いを取るギャグかと思わせる。
「女王様がしっかりしていらっしゃるから。王様も飾りで良いと思う」
そんな諦めにも似た冷静な思いが胸をよぎる。
女王の務めは、庶民と目線を合わせ、文化や伝統、精神的な支柱として寄り添うこと。まるで朝の陽ざしのように、庶民にとっても身近な存在だ。
一方で、王は領地管理や軍事といった硬質な力を担う。
「まずは、これだけでスレを立てるってことで」
婚約破棄の要請書に日差しが反射して、白い光がちらつく。いずれ火種となるのを予感するようだ。
「カエレン王女との婚約はちゃんと書いたほうがいいでー。タグ付けもするでなー」
サユリーの声は軽やかで、パラソル越しの風鈴の音みたいに耳に残る。
「そうだね。王子様のスキャンダルは後から載せればいい」
「最初に詰め込みすぎるとなー。誰にも読まれないでー」
SNSでは、言葉も情報も一品料理だ。それは、職人が魂を入れた握り寿司。見た目は単純そうでワサビも効いている。
(あのお坊ちゃん王子のスキャンダル、もっと探しておこう。女を甘く見ると、痛い目を見るってこと、きっちり教えてあげないと)
カップを持つ手にそっと力が入る。冷たい感触が、決意を静かに引き締めてくれた。
「まえにあった、王子様に隠し子がいる噂はどうなの」
「いつのまにか消えたでー。私たちも若かったしなー」
子供には聴かせるのも制限された情報が多かった。しかし、いまは十八歳、成人だ。
「もう一度調べるのもなー。どうかー」
サユリーはケリーヌを気遣ってか、いままではタブーにしていた話題だ。
「調べてみよう。正式な婚約の前だけど、スキャンダルだよ」
(あいつのことだから、えげつない過去もありそうだよ)
涼しげに見えるガーデンパラソルの陰で、少女たちは確かな仕返しの火を灯し始めていた。