1話・婚約破棄
サイハーテ侯爵家の令嬢ケリーヌは生まれたときから、将来の女王と決められていた。
(庶民の目が気になっても気にするなと、女王様はおっしゃったけど、できてるかな)
やはり不安もあり、心でつぶやく。貴族学院を卒業した十八歳の女子だが、疲れて大変そうな大人の世界に戸惑い迷う。気になるのはしかたないとして、気にするのも止めようがない。
春のうららかな朝陽を遮るガーデンパラソルの下にいるが、穏やかな日だ。
(しなくていい心配なのかな)
丸テーブルに置かれたティーカップから立ち上るカフェラテの甘い香りは、遠い国を思い浮かべさせる。
(この世界って丸いらしいけどね。大きくて分からないや)
夢見る憩いのひとときを、ぶっ壊す甲高い声が響く。
「ケリーヌ様」
整備不良の車輪みたいにキイキイ喋るのは婚約者のマイカル王子だ。
(急になによ。きょうは会う予定もないし)
来週に結婚式を控えているが、準備も終えて一段落したところ。いつも会うようなイチャラブな関係ではない。
マイカルは紫のマントを翻しながら近づいてくる。
(嬉しがることもないけど、知らない顔もできないしね)
ケリーヌは顔を相手へ向ける。ウェーブのかかる長い黒髪が、ふわりと舞い上がる。風の妖精シルフが訪れていた。空色の瞳を相手へ向け、長いまつ毛を瞬かせる。
テーブルの前に立つマイカル。二十歳になるというのに、張りもない頬には重たげな脂肪が揺れていた。
「婚約は破棄する。サイハーテ侯爵にもそう伝えよ」
他人事みたいな棒読みだ。
(役者気取りの自惚れ屋だけど、このやくって、どういう意味。まだ寝ぼけてるの)
すぐに、婚約破棄という熟語は思いつかない。すでに、伯爵たちにも招待状を出していた。ケリーヌが王子の嫁となり、次の女王になるのは、町の市場に並ぶ玉ねぎのようなもので、庶民も知っている。
(十六歳で正式に婚約したし。コンニャクは廃棄と言ったのかしら。婚礼料理は縁起ものだし、良いと思うけど)
ちょっと分からない、と首を傾げた。
「コンニャクのお話はメイドたちへなさるとよろしいと思いますが」
マイカルはケリーヌの反応に拍子抜けした表情。
「いや。そのことではないぞ」
マントを調える素振りで王城の門に目を向ける。何かを持っているらしい。
(朝から、落ち着かない人だね。コンニャクじゃないとすると。婚約のことかしらね)
「王子様、あのね……」
(おっと、丁寧に話さなきゃ。破棄とか聞こえたのは確かだから)
楽しく愉快な話ではないと気づいた。
「ただいま、朝の儀式イコイの途中でございます。お城でお待ちいただければ幸いです」
ここは王城前の広場。庶民が行き交い、ガーデンパラソルの下でくつろぐ者も多い。
(婚約破棄と言ったのかしら。場所も選んでちょうだい)
別れ話をするには賑やかすぎる。そういうのに鈍感なマイカル。
「結婚は直近の課題と……」
(なにを難しく話すのかしら)
「精査し婚約に関わる件は白紙撤回に……」
(また言う。一回で良いわよ。どうやら本気らしいよね)
「誠に遺憾と……」
大臣が国会で時間稼ぎをする答弁みたいにグダグダ続ける。
(なるほどね、話は分かったけど)
どうしても王子と婚約者の組み合わせは周りの注目も集める。それでなくても、貴族令嬢は常に目立つ存在だ。今日のケリーヌは普段着で生成りのドレスだが、鮮やかなフリルが人目を引く。
長い演説を終えたマイカルは、また、王城の門へ視線を走らせた。
(まわりを気にしてるのは、私だってばさ)
ケリーヌは気持ちを抑えながら、声を落として注意する。
「あの。人の目もありますから」
「早めに婚約破棄を知らせたくてな」
事務的な喋り方が言葉の棘となり鼓膜を撫で、痛みだけを残した。熱めのティーカップの取っ手を掴むと、指先が微かに震える。気抜けして力が入らない。
「なぜ。なにか、演出がおありでしょうか」
言葉が暴走しそうだから、ゆっくり話す。詳しく説明も聞きたい。
(庶民のいる場所じゃなかったら、もっと問い詰めたいけど)
「いや、早めに、うん」
言葉を濁すマイカル。場所を変える気はないようだ。
ケリーヌは平静を装いながら、カップを静かに置いたが、陶器のぶつかる音は妙に大きく響いた。冷静でいられないし、普通は気にならない言葉や音へ敏感になっていた。
(やっぱり、この男は深い考えもなく、相手を不快にさせるんだよ)
ガーデンパラソルはプライベート空間。扉をノックするような礼儀は必要だ。親しければなおさら守るべきマナーだろう。
(礼儀も常識も知らない、お坊ちゃん王子だから。それより、庶民も見てるでしょ)
今日の春の嵐は、「何かあった」と周囲にも気付かせただろう。
ケリーヌもマイカルの良い面を見ようとしていたし、成長すると期待もしていた。
(今まで何をしてたのかしらね。この離縁野郎のためにさ)
虚しさが襲い、庶民に見られている思いだけが身体を支えていた。
人の上に立つ者として他人を気にかけることは必要だと考えている。だから気にしすぎて困る状況を王女様は諭したのだろう。しかし、自尊心を保つことができるのは庶民の目があるからだろう。
(これが神話の時代なら、海に向かって「青春を返せ!」と叫ぶところかな)
庶民の前で恥を掻かされたのも口惜しい。しかし、今までのことは意味のない思いが、じわじわ湧いてくる。
古代に帝王エーアイが世界を支配する前は神話時代という。とくに二十世紀以降の記録は数多く残されていた。
(お坊ちゃん王子は、神話時代のファンタジーを読みすぎたんじゃないかしらね)
婚約破棄を扱った小説のテンプレートも存在した。マイカルの態度は、まるで物語の登場人物になりきったかのようだった。
(仲人が間を取り持つのは常識でしょ)
公爵が仲人役はしていたと考えたが、形式だけとケリーヌは知ってもいる。王家と侯爵家の約束事で、仲人は建前だ。
侯爵家の事情というのも思いだす。
(父は都市国家として独立したいんだよ)
サイハーテ侯爵が経済的に独立したいのも令嬢として知っている。遠い地方が独立するのが当たり前の世の中だ。
婚姻関係を結ぶことで、安定した国家運営ができる。それが、王家の長年の願いだ。
親同士の取り決めとはいえ、いまどき、当人の意思も尊重される。
(私もね。やりたいことがあって、婚約も承諾したんだから)
ケリーヌはSNSを運営していて、王族で活動範囲を広げられると考えていた。
それでなくても大変なことになる。
侯爵家と王家の縁組がなかったことになれば、国では最強の侯爵領騎士団と、国境で協力する他国の貴族たちが、いい機会だと、経済的に独立した都市国家が出来上がるはず。
それに思い至らないらしいマイカル。
「良い天気だ」
くだらないお喋りを始める。破棄に至ったいきさつが気にはなる。
「能天気だこと」
(こいつが次の王様なんて、あまりにも国の状況を知らなさすぎでしょ)
「王城で会うとは思う。よろしくな」
「はいはい。無視いたしますので」
(なにが、よろしくだ。結婚しなければ、お付き合いもおしまいでしょ)
そういうことよりも、人の目と口が気になる。次の王女として称賛され、同時に軽く値踏みもされている。
(きっと面白がってる人もいるよね)
どうしても、庶民の目は気にする。次の王女というのも、ひとつの役割。就職の内定を取り消された感じ。それとも、産休明けで、役職を取り上げられてアルバイトみたいな立場になったような気持ちだ。
(私も小さな存在。大きな波に飲まれて砕ける泡だよ)
それにしても、猿みたいに意味なくキイキイ喋るマイカル。何かあるのか、考える余裕はないケリーヌ。