体操部を揺るがす数々の事件(2)
1限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。予想した通り、試験に手応えを感じることはできなかった。しかしこればかりは雅美のせいにはできない。全ては自分の準備不足である。
まさかとは思ったが、念のため廊下に出てみた。用もなく教室の外を徘徊する者は誰もいない。学生にとって試験前の休み時間はたとえ短くても貴重なのだ。
沢渕も教室に戻ろうとして、最後の最後に廊下の先に目を凝らした。人が通わぬ廊下は視界を遮えぎるものはなく、奥の奥まで見通すことができた。
やはり雅美が来る気配はない。安堵感とやや拍子抜けの気分が入り混じる中、教室の扉に手をかけた。
と、その時である。床を激しく蹴る音が辺りの静寂を切り裂いた。遠くから誰かが駆けてくる。予想はやはり的中してしまった。
いや、そんなことより驚くべきは、その人物はさっきとまるで変わらぬ格好をしていることだった。紺色の水着が白い廊下を真っ直ぐこちらに向かってくる。
「沢渕くん!」
直前でブレーキをかけると、肩が大きく波打った。
「まさかその格好でテストを受けたのですか?」
さっき飲み込んだ台詞は結局口にすることになった。
「仕方がないでしょ。着替える時間なんてないんだから」
休み時間はこうして後輩と面会することを優先するあまり、部室に戻ることができないでいるらしい。それだけ切羽詰まった問題が、彼女の身に降りかかっていることになる。
「あのね、私がこうして水着を着ているのにはれっきとした理由があるのよ。明後日、県大会があるから、レオタードがないからといって練習を止めるわけにはいかないの。かといって、身体に合った練習着なんてすぐに見つからないから、代わりにこれを着て練習に励んでいたわけよ」
雅美はまくし立てた。その口調からいつもの彼女が垣間見えて、沢渕はほっと胸を撫で下ろした。
「やはりそうでしたか。でも、その格好では寒いでしょう」
「走り回っているから別に寒くはないけど、テストを受けている時は、さすがの私も何だか違和感ありありだったわね」
それは至極当然である。すっかり秋めいたこの時期に、教室で女子生徒が一人、水着姿で試験を受けているのである。伝統ある山神高校の校則からすれば、その格好はセーフなのかアウトなのか。この点は後日、生徒会長の森崎叶美に質してみたいところだが、これが外部に漏れたら、違和感どころの騒ぎではない。PTAや教育委員会が黙ってはいないだろう。
とはいうものの、雅美がこの状況に違和感を抱いていると聞いて、多少なりとも不安が払拭された。彼女が普通の常識を持ち合わせていることが証明されたからである。
では次に憂慮すべきは、この異常事態に付き合わされている同級生や教師である。特に周りの生徒らは平常心を保ってテストに臨めているだろうか。隣に妙な人物が座っていたら、集中力の低下をもたらすのではないか。それについてはクラスメイトの心中は察するに余りある。
いずれにせよ、雅美は切り裂かれたレオタードの他にも、何か他の問題を抱えているのは明らかである。そうでなければ、朝練終了後、着替える時間ぐらいはあっただろう。それを忘れて助けを求めるほどの問題とは一体何であろうか。
「それで、さっきの続きなんだけど」
「どうぞ」
「えっと、どこまで話したっけ?」
「レオタードが切り裂かれていたって話でしたね」
「そうそう。それで、どこから話せばいいかしら? 他にもいっぱいあるのよ、聞いてほしいことが」
「では、時系列に沿って説明してもらえますか」
「ジケイレツ?」
「つまり、事件の発生順に話してください」
「分かったわ」
沢渕がこう言ったのには訳がある。時間を意識させることで、相手は事件を冷静に見つめ直すことができ、また事実を漏れなく語ることができるからである。
「まずは、財布盗難事件から」
スクール水着は天井を見上げて、思い出すように語り始めた。
「三日前の月曜日に財布を落としたのよ。3万円ほど入っていた財布をね」
「それはまた結構な額ですね」
「ええ、新しいレオタードやタイツを買うためのお金だもの」
「それが盗まれたのですか?」
「そうなの。財布自体は部室で見つかったけど、現金だけごっそりと抜き取られてた」
雅美は悔しそうに何度か床を踏みつけた。
「ちょっと待ってください。さっき財布は落としたと言いませんでしたか。実際は部室に置き忘れていたということですか?」
本人の弁はどうにも不正確である。この点は重要と思われたので確認した。
「うーん」
紺色の人物は困った表情を浮かべた。
「その日は部活を早めに切り上げて、駅前のスポーツショップに行ったのよ。頼んでおいたレオタードを受け取るためにね。そしたら手違いで入荷が翌日になるというから、お金は支払わず、そのまま自宅に戻ったわけ」
「財布はどこで落としたのですか?」
「それがよく分からないのよ。帰宅して財布がないことに気がついて、もしや部室に忘れたのではないかと夜中に学校に潜り込んだの。部室の合鍵は持っているから、こっそり調べに行ったわけ」
「こんな時、家が近いと便利ですね」
「そうね。でも、部室をいくら探しても財布は見当たらなくて。それならと思って、教室も調べてみたんだ」
沢渕は驚いた。
「どうやって校舎に入ったのです?」
雅美は一度辺りを見回して、誰もいないことを確認してから、
「実は一階の生徒会室に調子が悪い窓があって、うまく鍵が掛けられず中途半端に閉められていることがあるのよ。運がよければ、そこから中に入ることができるわ」
「なるほど」
それは初耳だった。
「急いで教室に入って自分の席を調べてみたけど、やっぱり見つからなかった。ところが不思議なことに、翌朝、財布は部室内で見つかるのよ。お金が抜き取られた状態でね」
夜中、部室になかった財布が、朝になると突然姿を現したというのか。確かにおかしな話である。
「財布の発見者は誰ですか?」
「1年生の益子心優ちゃん。体操部の後輩。翌朝一番に部室に入ったところ、机の上に財布が置いてあるのに気がついた」
沢渕は益子の顔を知っていた。隣のクラスなので、合同授業で何度か一緒になったことがある。
「でも、変なのよね。夜中部室に忍び込んだ時、確かに机の上は見たはずなんだけどな」
「部室には普段鍵が掛けられていますよね?」
「ええ、もちろん」
「ということは、部室の鍵を持っている誰かの仕業ってことになりますよね」
「しかし合鍵を持っているのは私だけよ。本物の鍵は職員室にぶら下がってるもの」
「部長も持ってないのですか?」
「うん。私が密かに作って持っているだけだから」
自宅が近いので、何かに備えて合鍵を作ってあるということか。すると、第一発見者の心優には真っ先に嫌疑がかかってくる。
「今、その財布はありますか?」
そう訊いておきながら、すぐに愚問と思い至った。水着姿では財布を入れておく場所がない。
「部室の鞄の中にあるけど」
「後で中身を見せてもらえませんか?」
「いいわよ」
そう言ってから、水着は身を乗り出してきた。
おどろおどろしい声で、
「次はお待ちかね、レオタード切り裂き事件」
両手を左右に揺らし、上から下へと移動させた。無意味に思えるその行為は、どうやら彼女の考えた恐怖の演出らしい。
いつの間にか、雅美はいつもの脳天気さを取り戻していた。苦境に立たされても、存外平気でいられる人間だと沢渕は認識している。ある意味、それは羨ましいと思うことさえある。
その性格ゆえに、彼女は大会で緊張することなく最大限に力を発揮できるのかもしれない、そう沢渕は考えたことがある。さっきは涙を流すほどの感情の高ぶりを見て、この先どうなることかと肝を冷やしたが、今ではそんな心配も無用となった。
「ここからは、さらに不可解な話なのよ。きっと沢渕くんも興味を持つと思うわ」
そう言った途端、非情にもチャイムが鳴り始めた。
「それでは、続きはCMの後で」
雅美はさっと回れ右をして、駆け足で戻っていった。
(テストはCMじゃなくて、むしろ本編ではないのか)
続きは明日公開予定です。