体操部を揺るがす数々の事件(1)
私立山神高校は、いつもと違う朝を迎えていた。
普段は騒がしい校内も、今は水を打ったように静まり返っている。生徒はみな自分の席について無言を貫いている。談笑する者など一人もいない。誰もが緊張した面持ちで、これから始まる事態に備えていた。
それもそのはず、今日は二学期中間試験の初日である。試験直前まで、教科書やノートをめくっていなければ不安に押し潰されてしまうのだ。
もちろん廊下には人影もなく、秋の訪れと相まって静かで落ち着いた雰囲気が漂っていた。
そんな中、慌ただしく靴音が響き渡った。一心不乱に廊下を駆けてくる人物がいたのである。床を蹴るたび、ポニーテールが左右に揺れた。
突然、教室の扉が勢いよく開かれた。
「沢渕くん、居ますか?」
そう声を張り上げたのは2年生、橘雅美であった。
そこに居合わせた生徒の視線が一斉に彼女に向けられた。そして誰もが言葉を失い、思考が停止させられる羽目になった。
テスト開始直前、予期せぬ先輩の登場もさることながら、彼女の異様な出で立ちがあまりにも衝撃的だったからである。
何と10月中旬のこの時期に、彼女はスクール水着という格好だったのである。
この状況に合理的な説明をつけられる者は、本人を除けば、恐らく学園中どこを探したって見つからないだろう。今、ここに居合わせた後輩にできることは、口をぽかんと開け、目を丸くするので精一杯なのである。
しかし、沢渕晶也だけはそうもいかなかった。なにしろ、雅美本人から指名を受けたのである。この事態を収拾するのは、まさしく彼に与えられた仕事となった。
クラス中の好奇の視線に耐えながら、選ばれし者は雅美の元へと向かった。
「おはようございます、先輩」
両の手足を露わにして、全身紺色の女子が目の前に立ちはだかっていた。その異様な姿は白い廊下と強いコントラストをなして浮かび上がって見えた。
探偵部のメンバーである雅美のことは、ある程度知っているつもりだったが、今日の彼女は明らかに別人だった。顔をこわばらせ、目の焦点が定まっていない。見るからに錯乱状態なのである。
「頼れる人は、沢渕くんしかいないのよ」
突然裸の両腕が伸びて、ツタのように巻きついてきた。
ここで話が始まれば、クラス全員の知るところになってしまう。今や誰もが雅美の一挙手一投足に注視しているのだ。次に彼女がどんな面白いことをやってくれるか、そればかりを期待しているに違いない。
「とりあえず外へ行きましょうか」
沢渕は水着を廊下に押し出すと、後ろ手に扉を閉めた。
まずやるべきことは、彼女を落ち着かせることである。
「それで、どんなご用件でしたか?」
わざとのんびりした口調で切り出した。これは相手の感情を刺激させない配慮だが、果たして彼女を満足させて無事に返すことができるのか、そんな不安も湧いてきた。
「もう色々ありすぎて、何から話してよいのやら。私自身、訳が分からないんだもの」
雅美は明らかに混乱をきたしている。
「では、こちらから一つ質問をさせてください」
「なあに?」
「先輩は、そんな格好で寒くないのですか?」
雅美は一度自分の胸元辺りに目を落としてから、後輩の顔をまじまじと見た。質問の意味が分からないといった様子である。
「今日はこれから中間試験ですよね? まさか先輩のクラスだけ、水泳の補習授業でもやるのですか?」
「そんな訳ないでしょ」
水着姿の少女は両手両足を最大限に使って否定をした。そんなポーズも、すらりと背の高い彼女がやると実に様になっている。いつもの雅美が徐々に戻ってきたことに、沢渕の不安も薄らいだ。
「では、どうして水着を?」
「実はね、レオタードが切り裂かれていたのよ」
雅美は声を震わせて、大粒の涙をこぼした。
彼女が体操部員であることは知っている。なるほど、自分の分身とも言える大切なレオタードが傷つけられれば、心穏やかで居られるはずもない。
沢渕は、悲しみのどん底にいる女子生徒に同情するに至ったが、だからといって今水着を着ている理由に思い至らなかった。
「だから、レオタードがないと練習にならないから、とりあえず水着を着てたわけ」
体操部員はもどかしい調子で説明した。
確かにレオタードとスクール水着はその形状がある程度似ているため、応急措置としては理解できるのだが、沢渕の疑問はその先である。
どうして部活練習後に着替えもせず、水着姿で校内を走り回っているのか、その一点に尽きる。
しばしの間、相方が黙っていたので、雅美は自分の立場を理解してもらえないと勘違いしたのか、声を出して泣き始めた。予想外の展開に沢渕はうろたえた。
「先輩、とりあえず落ち着きましょう」
実はその台詞は、自分自身に向けたものでもあった。
すると突然、始業のチャイムが鳴った。その爽やかな音色は誰もいない廊下で異常なまでに大きく響いた。
「あっ!」
雅美は一瞬で我に返ると、
「もう行かなきゃ。続きはまた後でね」
意外にもそれは明るい声だった。さっきまでの涙は嘘のように消えていた。
笑顔で手を振ると、さっと紺色の背中を向けて駆け出した。
(まさか、その格好でテストを受けるつもりか?)
それはあえて口にしなかった。動き出した彼女の気持ちに水を差すことは避けなければならない。
沢渕は教室に戻って、何事もなかったように席についた。クラスの視線を集めていることは十分承知の上だが、さほど気にはならなかった。
考えなければならないことがいくつもあったからである。
雅美は早朝練習で着るはずのレオタードが切り裂かれていたため、急遽代わりにスクール水着を着用したという。それにしても、水着を持参していたとは随分手際がよいではないか。いや、彼女の家は学校から目と鼻の先らしいので、水着は一旦取りに帰ったというところか。
それにしても練習後、頑なに制服に着替えないのは何故だろうか。それが最大の謎である。だが、雅美のあの取り乱した様子からすると、他にも様々な出来事が彼女に襲いかかってきたとは考えられないか。もしそうならば、着替えるのももどかしく、救いの手を求めるので精一杯だったとしても不思議はない。
そもそも体操部というのは、試験日に朝練など行っているのだろうか、沢渕は考える。
案外大会が間近に控えていれば、校長は許可を出すかもしれない。体操部は他の部活動と比べて圧倒的な実績を誇っているので、特別扱いされているのは誰もが知るところである。
いずれにせよ、大会が近くに行われるのであれば、今の雅美の不安定な心理状態はパフォーマンスに大きな影響を与えることだろう。とすれば、早期に事件とやらを解決して、彼女の精神状態を正常に戻してやる必要がある。
「橘先輩ってさ、ちょっと変わり者で通っているけど、大会では連戦連勝の実力者なんだぜ」
「ああ、知ってるよ。何でも学校内外からファンレターを貰うほど、人気があるんだってな」
「でも、その中には脅迫状も混じっているらしい。試合に敗れた他校の生徒が嫌がらせで送りつけているって話だぜ」
沢渕はどこかで囁かれた声を聞き漏らさなかった。
もしそれが本当ならば、レオタードを切り裂いたのは他校の生徒ということにならないか。
雅美のために事件をいち早く解決したいのは山々だが、それはまだ困難に思われた。なにしろ事件の概要をまるで聞かされてないからである。これでは推理を始めることすらできない。
そういえば、さっき彼女は「また後で」と立ち去った。
(まさか、これから休み時間のたびに、事件の話を細切れで聞かされるのではあるまいか)
教師が入ってきたので、そこで思考を中断することになった。いよいよ中間考査の始まりである。
しまった、沢渕は顔面蒼白になった。
予期せぬ来訪者のせいで、テスト前の最終確認がまるでできなかった。この後も、貴重な休み時間をずっと彼女に奪われてしまうのだろうか。心のどこかでそんな心配が芽生えた。
しかしそれは受け入れてやることにしよう、沢渕は考え直した。今、雅美にとっては一大事なのである。そんな彼女のために一肌脱ぐのはやぶさかではない。