そのきゅう
とん、とん、とん。
エリンギを切る音が、心地いい。
弾力のあるキノコを切ると、いい音するんだよね。
私、まな板と包丁の出す音、好きなんだった。
ザク、ザク、ザクッ…
太めの白ネギは、少し大胆にカットして。
そうだ、クベール・チュールは猫だから、ネギ抜きにしないとね。
ねぎを入れる前に、石狩鍋の中から鮭のおなかを取り出しておく。
明日の朝の雑炊用にも少しよけておこう。
「お嬢さんは、本当に楽しそうに料理をしますね」
折り畳みチェアの上で、猫が目を細めて私の調理を見つめている。
尻尾はゆら、ゆらと揺れていて、機嫌のよさがうかがえる。
「ええ、とっても。私、今日めっちゃいっぱい買い物したんです」
久しぶりに、両手にレジ袋を持って帰宅したんだ。
重たかったけど、その苦痛よりも、ワクワク感が大きくて、少しびっくりした。
買い物でこんなにウキウキできるなんて、知らなかった。
「それでは、いろんな料理をしていただけるのかな?楽しみだ」
「ええ、私、いろいろ作りますよ!楽しみにしててくださいね!」
にっこり笑って、猫を見つめる。
緑色の目が、ゆっくり細くなる。
笑ってるん…だよね?
ピピ、ピピ、ピピ、ピピ…
あ、ご飯が炊けたみたい。
石狩鍋も、ちょうどいい感じに煮えてきた。
うん、美味しいご飯、食べよう!
季節外れの石狩鍋だけど、すごく、美味しい。
上田さんの鮭のおなか、本当にすごいなあ。
もうなくなっちゃったから、また今度絶対に取っといてもらわないと!!
キノコもネギも、お豆腐も、白菜も。具材がみんないい味出しあって、一つのおいしい鍋になってる。ちょっとバターを隠し味に入れてるんだ、それもまた、いい味出してるんだよね。
具材を一つ一つ、食感を楽しみつつ、いただく。
美味しいな、食事って、こんなにも幸せに食べることができるんだなあ…。
「おいしい食事をありがとう。お嬢さんも、美味しくいただいているようで、何よりだ」
猫が鼻をひとなめして、私に声をかける。
クベール・チュールのお皿は、もう空になっている。
横のキャットフードはまだ少し残ってるな、追加いるかな?
「おいしいのは、クベール・チュールが一緒に食べてくれるからだよ!ありがとう。おかわり、いりますか?」
「私はこれで十分だよ。…食事をとることに前向きになってもらえてうれしく思うよ」
そうだね。
あれほど、私食べることをおっくうに思っていたはずなのに。
人って案外、さくっと変わるもんなんだね。不思議…。
「クベール・チュールが、食べる楽しさを、作る楽しさを思い出させてくれたの。本当に、ありがとうございます。私、とっても、感謝しているの」
なんか、ありがとうばっかり言ってる。いいなあ、こういうの。
ありがとうって、本当に、いい言葉だよね。
この前まで、使わないことが多かったけど、今は、こんなにも、使うようになってる。
「お嬢さんは、感謝の気持ちを伝えることに躊躇がないようだね。素晴らしい。君は、どんどん変わっていけるよ。感謝の気持ちを持てる、それだけで素晴らしい事なんだよ」
「そう、なんでしょうか…えっと、その、ありがとうございます、ふふ」
そんなことないよと言おうと思ったけど、また説教貰っちゃいそうだから、グッと、飲み込んだ。
うっかり自分を否定すること言っちゃうと、すかさず説教、飛んでくるから、ね。
あんまり尻尾ばすんばすん、されたくないっていうか…。
「…私は今、猫の姿をしているけれど、心を持つ者同士、対等だと考えているのだよ」
クベール・チュールが、私の目をじっと見つめて、言葉を放つ。
「対等、ですか?」
いつも私が前を向ける、宝物のような一言であるクベール・チュールの言葉と、私の情けない返しが、対等と、言うんですか、この猫さんは…?
「君の言葉をもらい、君に私の言葉を返す。対等なやり取りが続いて、お互いの心が豊かになるならば、この言葉の投げ合いは、互いの心を豊かにする、かけがえのないものなんだよ」
「私、クベール・チュールに、もらってばかりな、気がします」
もらってばかりで、全然返せていない気がするんですけど…。
「私もたくさん、たくさんいただいたのだよ?君の感情を分けてもらって、私がどれほど心豊かになったか、ご存じないようだけれども」
「えっと、そうなんです…か?」
私何か言ったかな?あんまり、自覚ないんだけどなあ…。
「…綾香、君は、人は、比べるために共にあると思うかい?」
目を細めた猫が、質問を投げかける。
少し、会話の流れが、変わったみたい。
…説教パターン?いやいや、でも尻尾はまだまだ、冷静みたい。
ここは、素直に、自分の考えを伝えないとね。
「どうしても、比べてしまう、ものだと思います。なぜなら、すぐ横に、いるから、並んで、しまうから」
人はどうしても、ほかの人と比べてしまいがちで。
「個」であろうとしても、隣の人の姿が目に入ってしまって。
あの人はいいのに、なんで私が、とか。
あの人はこうなのに、なんで私は、とか。
人がたくさんいる中で、「個」であることの難しさ。
「個」である誰かに接するときの難しさ。
「個」を尊重するべきなのに、お互いを比べてしまう、未熟な、人間。
私は、その軋轢に嫌気がさして、人から距離を、置いてしまっているんだけれどね…。
「私はね、人というものは、成長するため、共感するため、共にあると思うのだよ。私は綾香とこうして共にいることで、ずいぶん成長させてもらったと思っているんだよ」
「クベール・チュールが…?」
「私の感じたことのない感情を教えてもらって、共感させてもらい、自分の中の考え方が変わった部分も、多いのだよ。だから、君にはとても、感謝をしているのです」
目を閉じた猫の前には、空になったお皿が二つ。
話に夢中になってて、食べ終わったことに気が付かなかった。
私の目の前の取り皿と、ごはんのお茶碗も、空だ。
「感謝の気持ちを、お返ししなければいけないね」
空の食器を、そっと重ねた私に、目を細めた猫が香箱を組みながら言った。
長い話、始まるかな?
ふふ、めっちゃ楽しみにしてる、私が、いる。
どうしよう、先に片づけて、お風呂入っちゃった方が、いいかも。
ゆるく尻尾を左右にふり始めた猫を見ながら、どうやって切り出そうか、私は一人、思案に暮れているのだけれど。
目を閉じている猫は、それに、気付きそうも、ない。