そのなな
お風呂から上がって、髪を乾かそうとドライヤーのスイッチを入れたら、眠っていたクベール・チュールの目が、開いた。
ベッドわきの小さなドレッサーコーナー、すぐ近くで大きな音立てちゃってごめん…。
緑の目。
ふふ、きれいだな。ドライヤーのスイッチを切る。
「ごめんなさい、クベール・チュール。うるさいかな?」
「いいえ、私のことは気にせず、どうぞ、乾かしてください」
ぶぉおおお……
ドライヤーの風を当てる私の髪が、ふわりふらりと揺れる。
ずいぶん、伸びたなあ。
時間見つけて、切りにいかないと。
髪を乾かしつつ、すぐ横のクベール・チュールを見る。
ふふ、しっぽが、なんだかうきうきしてる。
髪がふわふわしてるから、つられちゃってるのかな。
…よし、乾いた。
ドライヤーを片付けて、ベッド前に、座る。
クベール・チュールの、目が、正面から私を捕らえている。
うん、きれいだなって、思うよ。
怖くなんかない。
「お嬢さんは、少し、元気がないように思うのですが、いかがでしょうか」
うーん、まあね、今日あんなことがあったからね、テンションは、低いかな。
でも、私、本当は。
「もともと、こんな感じなんですよ。クベール・チュールに出会った昨日は、怒り心頭で、テンションがおかしかったの」
「怒りの感情というよりも、明るい感情が前に出ていたような気がしてね」
ベッドの上で、香箱を組みながら目を細めているクベール・チュール。
「ああ…怒りついでに、口数が増えていたせいだと、思いますよ。テンション上がってて」
尻尾が、ぱったんぱったん、揺れている。
「お嬢さんは、怒りの感情で、口数が増えるとおっしゃるのですか、フム…」
思慮深い猫は、目を閉じて何やら考え込んでいる。
「お嬢さん、君は、君の感情のまま、君でいていいと思うのですよ」
目が、ゆっくり開いてゆく。
「無理に、テンションをあげずとも、穏やかに過ごしてゆけたら宜しい」
ああ、目が、緑色の目が、私を、見つめている。
…昨日は真正面に座ることに躊躇したけど、今日は、平気。
むしろ、緑色の目を見ていると、心が落ち着いて、来る。
「あげていかないと、口数の少ない私を見たほかの人たちが、心配するかもしれません」
もともと口数の少ない私。…ううん、違うか。
昔はおしゃべりだったような、気もする。
でも、その頃の記憶が、遠すぎて、いまいち、思い出せない。
「…もちろん、胸が高鳴るような時は、喜んでテンションをあげていいのだよ?けれど、怒りの感情は、気分を高揚させる感情ではないと、私は思うのです」
尻尾が、だんだん、派手な動きになっていく。
ああ、これ、もしかして、説教パターン…?
「心の安息と、気分の高揚を同じくしては、とても疲れてしまうよ。心を疲れさせるような考え方はおやめになった方がいいと、私は思うのです」
少しだけ、おかしいな。
ふふ、私、また怒られちゃうのか。
「テンションを無理やり上げることを、やめた方がいい…?」
ぱった、ぱった……尻尾が、揺れる。
「君の心が、とてもかわいそうだ。自分の気持ちに、素直におなりなさい」
「素直、ですか」
素直な、気持ち。
いつからだろう、穿った考え方をしがちになったのは。
人の言葉の裏を読むようになり。
人の表情の裏を読み取り。
自分の感情を偽り。
ねじ曲がった思い込みをするようになった。
「今から、私、素直になれるでしょうか」
尻尾が、揺れる。
「なれるでしょうか? …綾香、なるんだよ。君は、素直になるんだ、今日から」
今日から、素直に、なる。
クベール・チュールは、昨日、私に、目を見る勇気をくれて。
今日、私は、目を見ることができるようになっている。
私は。
今日、今から。
素直に、なる。
「クベール・チュール。わたし、今日、とても、怖かったの」
クベール・チュールは、ただ目を閉じて、今日起きた事件の詳細を聞いてくれた。
傘のこと。休みのこと。かぼちゃのこと。店長の顔に驚いたこと。
上田さんのこと。藤田さんのこと。クベール・チュールを自慢したこと。
怖かった、事。
ああ、誰かに、話すことで、こんなにも、胸が晴れるんだ。
話すことで、ずいぶん、気持ちが、変わるんだ。
…話せて、よかった。
「大変だったね、お嬢さん。がんばったね」
「クベール・チュールが、私に力をくれたんだよ。ありがとう」
クベール・チュールの言葉がなかったら、私はきっと、何もできなかった。
クベール・チュールが、私に目を見ることの大切さを、教えてくれたから。
多分、あの時、私が目を逸らしていたら。
きっと私はもっと大変なことになっていただろうと、思う。
真剣に、目を逸らさずにいたからこそ、あの程度のダメージで、すんだはず。
「お嬢さんが、どんどん魅力的になっていくから。私はとても、うれしいよ」
私の長い話を聞いてくれた猫は、目を細めて、ぐるぐる、のどを鳴らしている。
ふふ。とても、かわいい。
「クベール・チュール。少し、なでてもいいですか」
目が、半分開く。なんで猫って、こういう表情、色気があるんだろう…。
「かまいませんよ。あまり触り過ぎると、パチパチするかも、しれませんが」
私はそっと、クベール・チュールの背を、なでた。
手の平に伝わる、のどの、ぐるぐる。
ふふ。
なんだか、とても幸せな気分。
時刻はもう、23:00を回った。
ずいぶん、話していたみたい。
あ、猫が、あくびをした。
「おやすみ、クベール・チュール」
「いい夢を。お休み、綾香」
今日は、いい夢を、見ることができるかもしれない。