そのろく
じゃっ、じゃっ、じゃっ…。
キッチンに、米を研ぐ音が、響く。
ずいぶん久しぶりに、お米、炊くなあ。
…少し、色が悪くなってるかも。
多分、食べられる、はず。
二キロ入りの米を買ったのは、いつのことだっただろう。
…、年末年始の長期休暇の時、か。
うちの店は、大みそか夕方六時で店をしめ、正月三が日がお休みになる。
その間の食料として買ったんだった。
毎日一合炊いて、昼、夜に分けて食べたけど、まだ半分以上残ってる。
今日から毎日、ごはん食べるようにしたら、食べきること、できるかも。
米を研ぐたび、水が白く、濁る。
水を入れ替えるたび、すこしだけ、今日のイヤな出来事が、私の中から、流れてゆく。
米を炊飯器にセットして、さやいんげんの筋取りを始めた。
ぱき、シュッ、ぽきっ…。
今が旬の、活きの良いさやいんげんは、小気味よい音を立てて、私の耳を、くすぐる。
ただ、無心に、筋を取るだけで、だんだん、心が穏やかさを取り戻す。
「お嬢さんは、とても丁寧に、食材を扱うのだね」
いつの間にか、クベール・チュールが私のそばに、いた。
両足を踏ん張り、手をキッチンシンクに伸ばして、立っている。
…けっこう、長いな、猫。
丸くなってるときは、こんなにも大きさを感じなかったのだけど。
「そうですか、そうかも、知れませんね」
食材を扱うことは、嫌いではないんだ。
むしろ、私の手で、変わってゆくさまが、実はとても、好きだったりする。
そうだね、私、料理、好きだった。
ずっと、忘れていたけれど。
「しばらく、拝見していても、よろしいかな?」
全身を伸ばして覗き込んでいる猫は、少し、体勢がきつそう。
椅子、持ってこよう。
すじ取りが終わった私は、ベッド横に押し込んである、少し座面の高い折り畳みチェアを持ってきた。
「クベール・チュール、ここに座って、見ていてね」
「これは良い席だ。ありがとう」
クベール・チュールは、音もなく座面に跳び乗って、すました様子で、こちらを見ている。
…すましたところも、かわいいな。
スマホで、一枚、写真を、撮った。
うん、明日、上田さんに、見せて自慢しよう!
テンションが、少し、上がった。
「クベール・チュールは、鮭の皮は食べますか」
「いただくよ、いただけるのかい?」
上田さんが取って置いてくれた、鮭のおなかは、脂ののった、とてもおいしそうな部位だった。
所々鱗が残っているので、丁寧によけて、食べやすい大きさに、切り分ける。
手早く霜降りして、臭みを抜いて、と。
これはグリルで焙って、美味しくいただけるやつだ!
まだ結構身が残ってる、煮付けるか、蒸すか、冷凍するか…。
ちょっと時期が違うけど、石狩鍋にしてもいいな。
そうだ、大根おろしと一緒にお出汁で煮て、和風汁にしよう!
お徳用野菜の中に、三つ葉も入ってる、うん、美味しそう。
残りは明日の夜、石狩鍋を作ろうかな。
ふふ、私なんだか、すごく楽しい。
「いただこうかな、お嬢さんのおいしい食事を」
「はい、お食べください」
小さなテーブルに、鮭のみぞれ汁と、さやえんどうの出汁煮、鮭皮の炙り、白いご飯。
クベールの前に、鮭あらほぐしと、鮭皮を一枚、細かく切ったさやえんどう、キャットフードが10粒ほど。
「ああ、とても丁寧に、調理されている、お嬢さんの愛情が、食材に伝わっているね」
「そんな、大袈裟ですよ、クベール・チュール!」
こんなに褒められると、照れちゃうよ…!!
そもそも、料理とか、褒められたことないし!!
…作ったご飯は、いつも。
ババクサい。見た目が変。まずくないけどうまくない。量が少ない。組み合わせがおかしい。同じもの作るな。ねぎ入れるな。ご飯はやわらかいのと硬いのを用意しろ。みそ汁は煮立ててにおいを飛ばせ。デザートは日替わりにしろ…
「私は、これから毎日、このような素晴らしい食事をいただけるのかな?」
過去投げつけられた言葉に、引きずり込まれそうになっていた私を、クベール・チュールが、引き上げてくれた。
「こんなのでよければ、ええ、毎日」
「こんなの?そういういい方は、食事に、失礼ですよ」
あ、しっぽが、ばすんばすん、左右に揺れて、たたきつけられてる。
ちょっと、ご機嫌斜めですね。
すごく、わかりやすいな。
「お嬢さんは、どういう気持ちで、この料理を、作ったのかな?」
私、料理、楽しかった。
楽しく、作った。
料理が好きだって、久しぶりに、気が付いて、うれしかったよ!
「うきうきして、作りました」
「では、こういったらいいのだよ。『喜んで』」
ああ、そっか。
私、喜んでご飯、作っていいんだ。
「わかりました、喜んで、毎日、作りますね!」
「ああ、それでいい、それがいいと、私は思うよ」
しっぽは落ち着き、猫が目を細めた。
そして、フンと鼻息をつくと、鮭皮の炙りを、カリカリと食べ始めた。
私も、香ばしく焼きあがった鮭皮に、手を伸ばした。
猫と交わす言葉は、私の心を、どんどん変えてゆく。
クベール・チュールは、私に足りない言葉を、惜しまずに与えてくれる。
出会って、まだ二日目だというのに。
こんなにも、私を変える言葉をくれて。
こんなにも、私を、認めてくれる。
私は、洗い物をしながら、自分の今までを、少しだけ、振り返る。
窮屈な家を出て、一人で生きてゆくと決めた、若いころの自分。
他人という集団の中に、身を投げた若いころの自分。
他人の中に、頼れる誰かを見つけることができないまま、生きてきて。
他人を信じることができないくせに、他人を信用しなければならない、心の、叫び。
他人を信じようと、自分の思いを捻じ曲げる、日々。
ただ闇雲に仕事をし、日々を送る、そのやりきれない思いがくすぶり続けて、何も見出せなくなり。
なんだかもう、どうでもよくなってしまった私の前に、現れた、猫。
洗い物を終えて、振り返ると、クベール・チュールはベッドの上で眠っていた。
ふふ、手足を伸ばして、リラックス、してる。
スマホで、こっそり、写真を撮った。
お風呂、入ってこようかな。
お風呂にゆっくり浸かって、少しだけ、明日からの料理の予定を、考えよう。
久しぶりに、作った料理が、私の日々を、変える。
明日以降の自分の行動を、考える時間が、持てるようになってる。
やりたいことを、自覚できるように、なってる。
私、もっと、変わっていけるかな?
眠る猫を、じっと見つめると、ほのかに、幸せを、感じた。
この猫は、私の、大事な、猫になる。
大事な、猫だ。
私がお風呂から上がった時に、目を覚ましていてくれると、いいな。
また、すてきな言葉を、私にくれるはずだから。