そのさん
殺風景なこの部屋の中で、優雅に寛ぐ、貫禄たっぷりのチョコレート色の猫は、時折尻尾を揺らしながら、私の言葉を待っているみたい。
何を話そうか。
話題がぱっと浮かんでこないあたり、やっぱりわたしはコミュ障なんだよね。
猫相手に話せないとかさあ・・・しゃべるから猫じゃないけどさあ・・・。
いや、見た目は猫なんだけどさあ・・・。
「お嬢さん、食事はきちんと取れそうですか?」
ああ、そっか、クベール・チュールの分も用意してあげないといけないよね。
キッチンの戸棚から、買い置きのクラッカーを出し、冷蔵庫からチーズを取り出す。
「クベール・チュールは、チーズは食べますか」
「いただこうかな、いただけますか、お嬢さん」
スライスチーズを一枚出し、四分の一の大きさに折りたたんだものを、一枚づつはがし、クラッカーの上に載せる。
クベール・チュールには、そのうちの一枚を、小さく刻んで、皿の上に出して分ける。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただこう、君の分けてくれた食事を」
クベール・チュールは、器用に細かく刻まれたチーズを口に運ぶ。
「足りなかったらいってね」
スライスチーズと、クラッカーが、今日の私の晩御飯。
最近本当に、食が細くなったな・・・。
私はいいけど、クベール・チュールには、ちょっと申し訳ない。
明日、キャットフード買ってこよう。
ベッドの前の、小さなテーブルに、クラッカーののったお皿を置いて、ふわふわのラグの上で胡坐をかく。
行儀が悪いけど、これがいつもの私のスタイルなので、変えるつもりは、ない。
猫だし、行儀とか、気にしなくていいよね?
チーズをのせたクラッカーを、一枚口にくわえながら、目の前のクラッカーに、視線を向ける。
ああ、まだ、あと、二枚もある。
職場では、お弁当をいつも食べているから、一日の摂取カロリーは、そこまで低くはないと思うのだけど。
およそ800キロカロリーで、私は日々を、生きている。
私が、二枚目のクラッカーに手を伸ばしたとき、クベール・チュールが声をかける。
「ご馳走様でした」
ラグの上に胡坐をかいて座りながらテーブルのクラッカーに手を伸ばす私と、猫の目の高さは、ほぼ同じ。
「お粗末さまでございました。」
猫と目を合わせて、お返事させていただく。
ああ、緑色の瞳。昔見た、アニメの猫みたいだ。
・・・あの猫は、しゃべりはしなかったけれども。
じっとこちらを見つめる、緑色の瞳に、なんだか引き込まれそうな、のぞかれてそうな、怖さを、感じる。
猫、なのに、やっぱり私は、目を見るのが、少し、怖い。
そっと視線を、自分のクラッカーへと、落とす。
まだ、あと、一枚。
「お嬢さんは、目を合わせるのが、お嫌いですか」
ピンポイントで、クベール・チュールが痛いところをついてきた。
視線はずすの、下手すぎたかな。
「ごめんなさい、私、目を合わせることに、慣れてなくて」
クラッカーを見たまま、返事をする。
怒られちゃう、かな?
思慮深い猫は、目を閉じ、何もいわず、尻尾を左右に、パタン、パタンと揺らしている。
最後のクラッカーを、食べ始めたとき、猫の目がゆっくり開いて、私を見つめた。
「お嬢さん、私と、目を合わせる練習をしませんか」
ばちっと視線が、かち合う。
すぐに、目を、クラッカーのなくなった皿へと、向ける。
ああ、だめだなあ・・・。
会話があると、すぐに視線が、外れてしまう。
「ええと、それは、いったいどういうこと、ですか?」
「目を合わせると、心を見透かされているんじゃないかと考え、その恐怖感から、目が竦んでしまっているのだと、お見受けしました」
そう。私、目を合わせることが怖いんだよね。
さりげなく、視線をすぐにはずしちゃう。
・・・さりげなくなんて、できてないかも。
意外と、目を合わせなくても、会話って、できる。
だったら、合わせなくても、いいんじゃないかなって。
「心は、君だけのものだよ。誰も、君の心の奥の気持ちなんて、のぞきません」
まあねえ、こんなおばさんの胸のうちなんて、誰ものぞきたいとは思わないと、思うんだけど。
「気もちというのは、のぞくものではなく、言葉で伝えるものだと、私はずいぶん前から、知っているのですよ」
伝えたい、気持ちかあ・・・。
私の中に、伝えたい言葉って、あるんだろうか。
何にもない、空っぽの自分が、ここにいるんだけどな。
「気もちが、何もなければ、伝えるも何も・・・」
ああ、しまった、クベール・チュールの話を、否定してしまった。
私は、誰かの言葉を否定することに、非常に躊躇するタイプなんだよね。
すべての意見は、受け止めて、流す。
そういう、生き方をしてきたから。
誰かと、相反するのは、とても疲れてしまうから。
少し、居心地が悪くなってしまったので、チーズがなくなったクベール・チュールのお皿と、自分のお皿を二枚重ねて、キッチンへ持っていく。
今日のご飯は、これで終わり。
お皿を洗って、拭いて、食器棚に戻してから、ベッドの前に腰を下ろす。
さりげなく、ベッドを背もたれにして、猫と目を合わせなくていい位置を、キープする。
「伝えたい気持ちが、出てくる日だってあるはずです」
「そうでしょうか・・・?」
自分の気持ちは、いつだって二の次で、誰かの気持ちを優先してきた私には、イマイチピンと来ない。
ぽすん、ぽすんと、猫が尻尾をベッドにたたきつける、音が耳に届く。
考えるときの、癖なのかな。
「私で慣れなさい。私の目を良く覚えておくのだよ。誰の目を見ても、私の目を思い出すように」
視線を、クベール・チュールに、向けてみる。
緑色の、大きな目が、私をまっすぐ、見つめていた。
「そうすれば、誰も、怖くなど、ならなくなるから」
無表情な、猫の顔に、まっすぐ私を見つめる視線。
綺麗な、ガラス玉みたいな、緑。
この瞳を、覚えろと、あなたは言うの?
「とても、綺麗な瞳ですね」
猫は、ふんと一息ついて、目を細めた。
「そうでしょう?僕の瞳は、とても、見目が良い。自慢なのですよ」
それからしばらく、何もいわずに、猫と目を合わせ続けた。
この猫の瞳には、わたしの知らなかった、魅力がある。
「今から、君は変わるよ。安心して、目を見て話をするといい」
猫から力強い、言葉をいただいてしまった。
今から、私の何が、変わっていくんだろう。
外の嵐は、気が付いたら、収まっていた。
今日はゆっくり、眠れそう。
猫は・・・私のベッドの隅に、ちょこんと寝そべっている。
もう、眠ってしまったのかもしれない。
明日は、晴れるかな?
「ありがとう、クベール・チュール。おやすみなさい」
「お休み、お嬢さん」
誰かとお休みの挨拶をしたのも、久しぶりだと気が付いた。
ああ、人じゃなかった。
猫だから、初、か。