そのじゅうきゅう
・・・ここは、どこだろう。
足元を、ふわり、ふわりと漂う、雲。つま先が見えない。
…私、歩いてる?踏みしめる感覚がない。
一歩、一歩、前に進んでいく。
…ああ、ここは。
一歩、一歩、進んでいくたびに、私の中に広がる、忘れていた何か。
…私は、戻ってきたんだ。
一歩、一歩、進んでいくたびに、私の中に、浮かんでくるのは。
ここは、人生を終えた人が戻ってくる、場所。
ここは、人生を始める時に旅立つ、場所。
…ここは、クベール・チュールのいるところ。
わかったよ、クベール・チュール。
あなたは、ここに、いる。
あなたは、私を、待っている。
…あなたは、私の名前を、聞きたいと願っていたから。
私、名前の意味が、分かった。
クベール・チュールの名前は、魂の、名前。
魂の名前を知ったもの同士は、赤い糸を結ぶことができる。
クベール・チュールは、あの日、私と赤い糸を結ぶことを、望んでくれたんだ。
そうだね、あの時、聞いていたら、私、小湊綾香の人生を楽しめなかったかもしれない。クベールの言ったことは、確かに、本当だった。
ふわり、ふわり。
雲の中を、進んでいく。
行き先はわからない、けど、私の先には、必ず。
「やあ、お嬢さん…綾香と、お呼びした方がいいかな?」
「クベール・チュール!」
足元には、揺蕩う、雲のかけら。
雲の向こうに、懐かしいクベール・チュールの声が響く。
雲の向こうに、やさしいクベール・チュールの声が響く。
雲の影に、映るのは。
猫の姿ではない、クベール・チュール。
私は、今から、クベールにお土産を話さなければならないの。
私、あの後、いくつも優しさを配ったよ。
私、あの後、たくさん笑ったよ。
私、あの後、恋をしたよ。
私、あの後、命をはぐくんだよ。
私、あの後、たくさん悩んだよ。
私、あの後、悲しみをいくつも経験したよ。
私、悲しみでつぶれそうになった時だけ、あなたの写真を見て、元気をもらってたんだよ。
少しだけ、あなたに頼ってしまっていたと思うの。
でも、それくらいは、許してくれるよね。
伝えたい私の物語は、私の中に、しっかり残ってる。
「たくさん、お土産は、用意してきて、くれたのかい?」
ああ、もう直に、クベール・チュールに、会える。
あの雲の、向こう側。
駆け寄る私の足元は、雲に隠れてよく見えない。私が巻き上げた雲の欠片は、辺り一面を覆いつくしていく。会いたい気持ちが溢れすぎて…少し、はしゃぎすぎてしまったみたい。
「たくさん、たくさん、用意してきたよ!」
雲が晴れると、私の目の前には。
「君はいい人生を送ることはできたかい?」
猫ではない、クベール・チュールが、いる。
「あなたの言葉があったから、良い人生を送ることができたよ!」
小湊綾香を変えてくれたクベール・チュール。小湊綾香の人生が輝いたのは、間違いなくあなたのおかげなの。
「それは何よりだ。…では、その物語を、お聞かせ願いたいのだけども、その前に、少しだけ、良いだろうか」
猫ではない、クベール・チュールの、真摯な眼差しが私に注がれる。
「いいよ!」
クベール・チュールは、私の手をそっと取り…にっこり微笑んだ。
「僕の名前は、クベール・チュール。あなたと、恋をしたいと願っています。…君の、名前を、教えていただけますか?」
私の名前を知ってもらえる、私の喜び。
この人は、私の大切な人になる。
私は、この人の大切な人になれる。
私は、そっと握られた手を、ぎゅっと握り返した。
とびきりの笑顔を、大切な人に向ける。
とびきりの笑顔が、大切な人から向けられる。
小湊綾香は、私。
小湊綾香の人生を終えた、私の、名前は。
「クベール・チュール!わたしの名前は…」
ありがとうございました。




