そのじゅうはち
昨日の雨の名残が地面にまだ残っていて、所々できている水たまりに、青い空が映っている。今日はこのまま、ずっと、晴れるはず。仕事が終わって帰る頃には、この水たまりは消えているに違いない。
昨日あれほどまでに土砂降りだった空が、こんなにも晴れ渡って、いる。
…どれだけ雨が降っても。雨はやがて止んで、太陽が顔を出して、世界を照らすんだ。
昨日あれほどに泣いた私も、いつか。この空のように。
…この、空の、ように。
空を見上げる私の目から、一粒、涙がこぼれた。
「おはようございます」
「え、どうしたの!!こみちゃん、すごく、すごく辛そうだよ?!」
タイムカードを切ってロッカールームに向かうと、上田さんが驚いた顔で私に声をかけて…駆け寄ってきた。
久しぶり…ううん、初めてあんなに泣いちゃったから、ずいぶん、酷い顔になってるって自覚はある。タオルで蒸したり、お化粧をちょっと濃いめにしてみたんだけど…。ごまかせないくらい、酷い顔をしているみたい。…さっきちょっと泣いちゃったからかもしれない。
「うん…あのね、うちの猫がね、死んじゃったんだ。だから、すごく、すごく、悲しいの…」
「え、あのイケメン猫?!そんなに急に?!」
ロッカーに、荷物を入れて…。今日は食欲ないから、お弁当も持ってきてないし朝ご飯も食べてない。…仕出し注文、しようかな。食べられないかもしれないけど。
「おじいちゃん猫、だったから…、仕方なかったの」
そう、猫の寿命は、悲しいけど、仕方の、ないこと。受け入れなければいけない、事実。
もう、私に言葉をくれる猫は、この世界から、いなくなってしまった。
「…ねえ、こみちゃん、今日、仕事休みなよ。今まで頑張ってきたじゃん…こういう日ぐらいさ、ね?あ!!池下さん!!」
月曜発注の準備をしている池下さんが通りかかったのを、上田さんが呼びとめる。
「え、何、どうした…小湊さん?!」
池下さんが驚いた顔で私を見ている。そんなに、私…酷い顔してるのかな。
「あのね、こみちゃんの大切なね、猫が死んじゃったんだって。お願い、今日お休みさせてあげて?ねえ、こみちゃん何時も頑張ってたじゃん!こみちゃんのおかげでみんな助かってることもあるじゃん!猫のお見送りって大変なんだよ、あたし何度も猫見送ってるからわかるもん!!」
「そんな…いいよ、私働けるよ?」
猫は、箱に入れて…ある…から…。ああ、涙が…溢れて…。ダメ、泣いちゃ、駄目。
「おうおう、何やってんだ!休ませてやれよ、気の利かねえ店長だな!!」
ロッカールームにどかどかと足音を響かせて勢いよく乗り込んできた藤田さんは、乱暴にロッカーに荷物を入れて…掃除道具一式を抱えて店の玄関に行ってしまった。
池下さんは藤田さんの乱暴な物言いを少し呆れた表情で聞きながら、見送って私に声をかける。
「うん、小湊さん、お休みして?あのね、お別れってのはね、しっかりしないと、ダメなんだよ。いつまでも心に残っちゃうんだよ?」
池下さんが…心配そうな顔をして、私を見ている。上田さんも、泣きそうな顔になってる。
「ううん、大丈夫。私ね、今、悲しいという感情を楽しんでいるんです。すごく、すごく悲しい出来事を、悲しいんだって、思ってるの。本当に、本当に、それが幸せで。…ただ、それだけなの」
ああ、しまった。悲しいという感情を受け入れていることを説明したかっただけなのに、悲しみの感情が、溢れて…。
ポロリと、涙が、こぼれてしまった。
「「!!!」」
いい年をして、涙を見せてしまった。恥ずかしさと、申し訳なさ。こぼれ始めた涙は、なかなか、止まって、くれない。…私の涙につられて、上田さんまで…泣いちゃった。
「小湊さん、店は大丈夫なので。…帰って、猫ちゃんの事、してあげてください。してあげないと、ずっと、ずっと心残りになっちゃいます」
「ッ!!ぐすっ…そうだよ!今日は一日、イケメン猫のことだけ考えてあげて?ね?」
「でも…。今日は月曜だし…」
月曜は週初めだから。やらないといけないことも多くて、皆大変だって、私、知ってるから。私だけが、休んでいいわけ、ないよ…。
「大丈夫ですよ、小湊さんが最近助けてくれてるから、僕余裕あるんです、気力もあるし。有給申請しておくね?今日は休んでください。悲しみに浸ってください。…明日は、出てきてほしいです」
…悲しみに、浸っていいと、言ってくれてる。…明日は出てきてほしいって、希望を伝えてくれている。
池下さんの優しさと、先を考えた、言葉。
…そうだ。
私。
優しさを、たくさん与えて、たくさんもらうって、クベール・チュールに、約束、したんだった。
この優しさは、もらっていいものなんだ。
優しさを受け取ってもいいんだ、受け取って、明日頑張ればいいんだ。
「ありがとうございます。…明日は、必ず…出勤します、ごめんなさい」
「こみちゃん!!元気、元気出してね?!うう、ぐすっ…」
私は、崩れ始めたお化粧を気にすることなく、盛大に泣きながら家に帰っていった。
すれ違う人たちは、私の様子を見て、びっくりしていた。
目を逸らす人、見つめる人…。
声をかけてくれたおばあちゃんもいた。
優しさは、どこにでもあるんだ。
声をかけない優しさ、声をかける優しさ。
気が付かない人もたくさんいた。
下を向いていたら、私の泣き顔なんて気がつかないから。
下を向いていては、誰かの気持ちを知ることはできない。
顔を見なければ、その人の気持ちを知ることはできない。
誰かの顔を見る余裕なんてない人がたくさんいる。
私だって、そんな余裕を持たないまま、ずいぶん長く生きてきた。
人を気にする余裕をなくし、自分の事も気にしなくなっていた私。
…自分の感情すら手放していた私がこんなにも。
ねえ、クベール・チュール。
私はこんなにも悲しんでるよ?
こんなにも恥ずかしげもなく、泣いているよ?
自宅マンションのドアを開けて、部屋に入る。
猫の入った箱が、ぽつんと置いてある。
私は、猫をお空にかえさなければならない。
大切な猫を、お空へと。
もう、会えない、大切な猫。
でも、クベール・チュールは、いつかまた会えると言っていた。
会えた時に、たくさん、たくさんお話ができるように。
私、たくさん、たくさん、いろんな経験をしていかないとね。
ずいぶん、ずいぶん泣いた私は。
大切な猫の体を、お空に、かえした。




