そのじゅうなな
猫は、ベッドの上で手足を伸ばして、頭をあげることもせず、時折、うっすらと目を、開ける。
自慢の緑色の奇麗な目が、ほんの少ししか、見えない。
私は、その目を少しでも近くで、独り占めしたくなって…猫を両手でそっと囲い込んだ。
…抱きしめたら、ダメ。猫をこの腕の中に囲い込める、それだけで、いいから。
至近距離で、猫をのぞき込む。
猫の体は、ゆっくり呼吸をしている。
猫の尻尾は、感情を表してくれない。
猫の考えていることがわからない。
クベール・チュールの、伝えたい気持ちを、受け取らないといけないのに。
受け取るだけの、心の余裕が、私の中に見つからない。
こんなに混乱していたら、クベール・チュールの言葉を受け止められない。
最後になる…言葉を。受け止めないといけないのに。
「綾香。僕と長い時を、共に過ごしてくれて、ありがとう」
「長くなんてないよ!たったの一週間だよ?!」
ダメ、混乱が、怒りに代わってしまって、クベール・チュールの言葉を感情が遮ってしまう。怒りをぶつける時じゃない、言葉を聞かなければいけない、わかっているのに、あふれ出す感情が止められない。…気を抜いてしまったら、止め処なく感情のままに言葉を発してしまいそう。
「たった一週間というけれど、…時間の概念はかわるものだよ。楽しい時間を過ごすのと、つらい時間を過ごす時間の流れは、同じであるけれど、まるで速度が違うから。…長さではなく、濃さなんだ。時間を過ごす、内容の濃さ。…君はこの一週間、いかがだったかな?」
ああ、猫が、顔をあげようとしている。私は、そっと、猫の顔を手の平で支えた。
「あっという間だった、人生が、ぐるっと、変わった、ねえ、私、この一週間が、本当に、本当に宝物になったよ?!こんな濃い毎日は、初めてだったんだよ?!短い、短すぎるよ!」
温かい、猫のほっぺた。心地いい、猫の頭の重さを、手の平で感じる。
「時は過ぎたら、短かったと思うけれど、過ごした時間は、この上なく密で…充実があり、私にとっては大変に意味のある…長い、長い時間だった。君の時間を頂いたことに、感謝するよ。…ありがとう」
猫の目の瞼が下がって、だんだんと細くなっていく。
「いやだ!いやだよ!!クベール!クベール・チュール!!私は、あなたの言葉がないと、もう、生きていけない!あなたがいないと…私の居場所が、なくなる!貴方は、私の、大切な、大切な猫、なくてはならない、大切な猫なの…いかないで、私を残していかないで…」
涙が、こぼれた。
「…ねえ綾香。君は、いつかすべてを知るだろう。僕はね、その時の…感動を、邪魔しては、ならないと思っているんだ。今、すべてを僕が話してしまうよりも、君が、君自身で、事実を…確認するべきなんだ」
涙が、あふれ出した。
「だから、言わないよ」
涙が、止まらない。
「けれど、いつか君は…すべてを知るだろう」
私、すごく、すごく泣いてるよ?
「その時、すべてを…理解して、今までの君を、僕に、教えてほしいと、願っているんだよ」
私、泣くことを忘れたはずだったよね。
悲しみを、自分の中なら、放り出した、はずだよね。
この、止まらない、涙は?
この、私の胸が、痛くてたまらない感情は?
…これは、悲しみ。
悲しみが、涙を止まらなく、している。
そっか、私は、今、悲しいんだ。悲しんでいるんだ。
「ねえ綾香。…僕はとても、とても、欲張りなんだ。
だから、僕は、君の…お土産が欲しい。
君と、会えた時に、土産話が、聞きたいんだ。
これから…君が何を思って、何をなしたか。
君の物語を、たくさん、たくさん、聞きたいと心から願う」
猫に、言葉を、返せない。悲しみがあふれだして、言葉が出てこない。
猫は、何を言っているんだろう。私の知らない何かを知る猫の、私への、願い。
きちんと話を聞いて、言葉を返さないといけないのに。
「たくさん、君のやさしさを配って
たくさん、誰かを好きになって
たくさん、喜びを感じて
たくさん、困難を乗り越えて
たくさん、悲しみを幸せで包み込んで
たくさん、たくさん、感情を楽しむんだよ。
君の心を、存分に堪能するんだよ」
悲しみに包まれている私は、泣いている。
「そして、君の物語を、たくさんたくさん、僕に会えた時に、教えてほしい」
ただ、溢れて止まらない、涙を流し続ける、私。
「今日、今、君はとても悲しいと思う。
でもね綾香。
悲しみは、いつか振り返ることができるようになるんだよ。
悲しみが、すべてを包み隠していても、悲しみの中には、君がちゃんといるんだ。
悲しみを、少しづつ、自分の中に取り込んで、深い悲しみの霧が晴れた時、
君は悲しみを、纏うものから、思い出すものへと変えることができるだろうから」
言葉にならない悲しみが、涙となって、あふれ出している。溢れるほどの悲しみを、私は持っていたんだ。クベール・チュールが、私に悲しみを、与えて、くれた。私が悲しみの感情を持っていることを、教えてくれた。そして、クベール・チュールは、この悲しみを、思い出に変える事を教えてくれようと、している。
「その過程の、長い物語を、ぜひ聞きたいと、僕は願うよ」
今、口を開いてしまったら、クベール・チュールの最後の言葉が、聞けなくなってしまう。でも。
「綾香…僕の大切な、愛おしい人。猫は今日消えてしまうけど、僕は、君をずっと想い続けるから。君も、僕を、思い出してほしい…」
「思うよ!!ずっと、ずっとあなたの事だけ思って生きていくよ!!」
我慢していた感情が飛び出して、言葉となって、猫に届く。
「僕を、思い出すだけで、いいんだ。
僕に、執着しては…いけないよ。
君は、自由だ。
君は、豊かな感情を、取り戻せたから。
君は、これから、たくさんの人と出会って…誰かと恋に落ちるかもしれないね。
僕は、それを、とてもうれしく思う。
僕だけにこだわって、感情を閉ざしてしまう必要はないんだよ」
「私は!!クベール・チュールの事だけ想って、クベール・チュールの事だけ思い出して生きていけたら、それでいいよ!出会いなんていらない、ねえ、あなただけ思って、生きていきたい、それでは、駄目なの?」
クベール・チュールの言葉を思い出して、クベール・チュールの事だけ思って、それだけで、きっと私は生きていけるもの。他には何も、いらないもの。思い出があれば、生きていけるはずだから。
「出会いは、受け入れても、拒んでも、良い。けれど…拒んだら、豊かな感情を得る機会が、減って、しまうよ。それは、綾香の物語を彩る出来事を、ふいにしてしまうという事なんだよ」
ああ、クベール・チュールは、私の人生を、余すところなく楽しみなさいと言っているんだ。あるもので満足せずに、手を伸ばせと、言っているんだね。
「…この世界から、猫はいなくなる。いなくなったものを思うのはいいけれど、いなくなったものに頼って、感情を閉ざしてしまうのは、本当に、悲しい事なんだよ。君の、豊かな感情を、また、閉じ込めてしまうのかい?」
…ああ、猫の、呼吸が、深くなる。
「僕は、君の感情を閉じてしまう、原因に…なりたくないんだ、お願い、できないかな…?」
猫の、最後のお願い。
「わかった。クベール、クベールチュール!私、絶対に、悲しみを思い出せるものにする!悲しみに飲まれて、感情を無くしたりなんかしない!悲しい気持ちすら、愛おしいと思えるような、そういう思い出にするよ!」
「…ありがとう」
猫に、伝えないといけない、私の、言葉。
「クベール・チュール!
私、約束するよ!
私、思いっきり生きていく。
私、自分の人生を、胸を張って生きていく。
私、やさしさを、たくさん、誰かに与えて、もらって、生きていく。
私、いっぱいお土産持っていくから!」
涙を流しながら伝える言葉に、猫は返事を、返さない。
「私が会いにに行くまで、時間がかかるかもしれないけど、絶対会いに行く。だから、安心、して…」
ああ、クベールの目が閉じる。
「ありがとう、クベール・チュール。…またね」
閉じた猫の目は、もう、開くことはなかった。




