そのじゅうろく
激しい雨は、私が帰る頃には小雨になっていた。店の前の駐車場のアスファルトには、所々水たまりができている。ずいぶん降ったからね、足元に気を付けて帰らないと。
今日の買い物は少なめ。晩御飯は和風サラダうどんにしようと思ってるんだ。ツナたっぷりの、クベール・チュールが喜びそうなものにしようと思って。…なんか食欲ないみたいだったから。
家に帰ると、猫はまだ寝ていた。…途中で起きたのかな?パンケーキがなくなってる。でも、キャットフードは食べてない。体調悪いのかな?病院、連れてった方がいいかも。
「…綾香?お帰り、雨は大丈夫だったかい?」
「ただいま、雨は小ぶりになったよ。…体調、悪いの?病院、行く?」
猫はベッドの上であくびを一つ。
「…眠いだけだよ、雨音がいい子守唄になったみたいだ」
最近よくおしゃべりしてたから、疲れちゃってるのかもしれない。おじいちゃんは労わらないと。私はクベール・チュールの背中をひと撫でして、夕ご飯の準備をするためにキッチンに向かった。
しけったキャットフードは処分して、ツナをほぐしたものを少し、クベール・チュールのお皿に入れる。猫はまだよく眠っているみたい。眠っているのよね…?心配になって猫の顔をのぞき込むと、少しだけのどを鳴らす音が聞こえてきた。
外はまだ、雨が降っている。心地いい、雨音が聞こえる。そうだね、確かにこの音は、眠りを誘うかもしれない。クベール・チュールがうちに来た日も、雨が降っていた。あの日はもっと激しい雨が降っていて、心地よく眠れる感じじゃなかったんだけど…。
「…食事かな?」
ベッドの上からのぞきこんで見つめていたら、猫の目が開いた。
「眠いなら寝てて、私は先にお風呂に入ってくるから。ご飯全部食べてなかったね、おなかすいてない?食べててもらってもいいよ」
「じゃあ、僕は綾香があがるまで、もうひと眠りさせていただくよ。」
和風サラダうどんは、あとツナソースと和えるだけの状態。ゆでて冷水じめしたうどんにラップをして、お風呂に向かった。今日は早めにお風呂から出よう。やっぱり少し、猫が心配だもの。
お風呂から上がって、髪を乾かしている間も、猫は目を開けなかった。あんなにドライヤーの音で尻尾をばすんばすんしていたというのに。慣れただけならいいけど、耳が遠くなったとか…。おじいちゃん猫って聞いちゃったから、心配が募っちゃうよ。ドライヤーを片付けて、そっと猫を窺うと。
「よく眠れた、今日は綾香といろいろ…お話ができそうだ」
猫があくびを一つ、二つ。結構大きな口なんだね。黒っぽい茶色の毛並みに、白い歯と赤い口の中の色が際立ってて、ちょっと怖いというか、獣を感じるというか…。
「じゃあ、食事を少し、いただこうかな、いただきます」
クベール、チュールはベッドから降りて、テーブルの前に座った。
「じゃあ、私も一緒に、いただきます」
猫と私は、食事をしながら、今日あった出来事を話す。大根の葉っぱ事件や上田さんとのお昼ごはん、小さな子供のお買い物の手伝いをしたこと。とりわけ、秋元さんの件は、クベール・チュールにぜひ意見を聞きたいというか。
「秋元さんね、池下さんに泣きながら謝ってたの。でもね、そのあと私の傘を持っていこうとして、びっくりしちゃった」
「ずいぶん、したたかな女性の様だね、フム…」
猫は少々お怒りのご様子で、尻尾をばすんばすんと床にたたきつけ始めた。
「あんなに泣いてたのに、すぐに気持ちの切り替えができるのがすごいというか…素直すぎる感情表現?私にはない、若さを感じちゃって」
「素直な感情表現…いや、それは逆なのかも、しれないね」
逆?
「感情の伴わない涙を流す、技術を駆使している可能性も感じたけれどね、僕は」
「技術?…わざと泣いて見せたってこと?」
そんなこと、する人って…いる、かも…?そういわれてみれば、涙は女の武器とか、聞いたことがある。私はそんな武器、使ったことも無ければ、持ってすらいないけど、ね。
私は、ほとんど人前で泣いたことがない。涙を見せることは何よりも恥ずかしい。厳しすぎる両親は、私が弱音を吐くことを許さなかった。涙を見せようものなら、恐怖で涙が干上がるまで激しくしかられて。…子供のころから私は、泣くことができない人間だった。
そんな私に、涙を武器として使える訳、ない。
「その女性は、素直な感情をあまり持っていないようにも、僕は思うのだけどね。怒りの感情を、悲しみの感情のふりをして、店長にぶつけていた、とは考えられないかい?」
「真反対の感情を他人にぶつけるって。そんな器用なこと、私にはとてもできそうにないなあ…」
秋元さんは、確かに、怒っていたのかもしれない。誰も自分をかばってくれなかったことに対する怒り。理不尽な物言いで暴言を吐いた老人への怒り。なぜ私だけがこんな目に合わないといけないのかという、怒り。もしかしたら、恐怖の感情よりも、怒りの感情が大きくてあの場を逃げ出したのかもしれない。
「感情をごまかす事はとても器用なように見えて…不器用なんだ。不器用だから、素直に自分の気持ちを出せないまま、おかしな感情で包み隠してしまう。素直に感情を表すことができるのは、素晴らしい事なんだと、僕は思うよ」
「素直に感情を出すのは、確かに難しいかもね。私だって、クベール・チュールに言葉をもらわなかったら、まだきっと、感情というものの存在にさえ、気が付かない毎日を送ってたと思うな」
クベール・チュールが私を変えてくれたから。私は自分の中の感情を取り戻せた。
「綾香は、素直になることの大切さを、もう知っているから。君はずいぶん素直で、感情が豊かになったと、僕は知っているよ。けれど…」
なんだろう。
猫の尻尾が少し…。
不安そうに、揺れている…?
「けれど?」
猫は食事を終えて、口の周りを何度か毛繕いすると、ベッドの上に寝転がってしまった。食べてすぐ横になると…猫でも牛になっちゃったりしない?
「まだ、伝えきれていない感情も、あるから」
食べ終わったお皿を重ねて、キッチンにもっていく。枚数が少ないから、すぐに洗って、乾かして、と。
「じゃあ、いっぱいお話してよ!わたし明日は仕事お休みだから、今日は夜遅くまで起きてても大丈夫だよ!まだ時間もそんなに遅くないし。あ、先にちょっと歯磨きしてくる、ちょっとだけ待ってて?」
いつもより手早くお風呂に入ったから、まだ七時ちょっと過ぎ。お話する時間はたくさんある。洗面所で歯を磨いて、いつもの定位置に座ると。
「…よかった。君は明日、お休みなんだね」
猫の尻尾が、いくぶん元気ない様子でふわり、ふわりと揺れる。
「…君にしっかりと、さようならを言うことができそうだ」
「え?」
ベッドに横たわって、両手、両足を無防備に伸ばしている猫は、頭をベッドから上げないまま、細目でちらりと私を見て呟いた。
「綾香、お別れの時がやってきたんだよ」
思わず、猫のそばに近寄る。猫は横たわったまま、目を閉じて呟く。
「この猫の体はもう、寿命なんだよ。…本当はね、寝床の木が切られる頃に、寿命を迎えると思っていたんだ。けれど、少し予想が違ってしまってね。僕は木に、置いていかれてしまったのだよ。そして行き場を無くし、あの日綾香と出会った。…僕はあのまま、あの場所で、寿命を終えると思っていたのだけれども、ね」
このおじいちゃん猫は、あのまま雨に濡れて天に昇ろうとしていたってこと…?それを私が、助けた…?もしかしたら、私は助けたんじゃなくて。邪魔を、していた…?ちょっと待って、混乱してる、私。
「じゃあ、おじさんの家を出たのは」
「彼は足が不自由だったから、迷惑をかけてはいけないと思った。僕の一方的な気持ちだけれど」
多数の猫が自分の矜持をかけて日々競い合っている場所で。亡骸をさらすことは、できないと思ったんだ、きっと。そういえば猫は、自分の死期を悟って姿を消すと、聞いたことがある気がする…。
「けれど、綾香にはずいぶん迷惑をかけてしまうことになりそうだ。心から、お詫びする…」
「そんな…そんなこと言わないで、ねえ、本当に?今から病院に行こう?そしたら助かるよ?もっと、もっと一緒に私とお話しようよ、ねえ、お願い…」
猫が、私のもとから、いなくなってしまう?
猫を、どうにかして、私のもとから、いなくなってしまわないようにしないと。
私の、大切な、猫がいなくなってしまうのは、いや!いやだよ!!
「病院は病気の猫がかかる場所だよ、僕は病気ではなくて、寿命だから。…受け入れるしか、ないんだよ」
「そんな…!!」
神様お願い、私の猫を、連れて行かないで…。
私の大切な猫は、私には必要な猫なの!!
わたしから、猫を、クベール・チュールを、取らないで!!
「ごめんね、でも、僕は君に、悲しみという感情を知ってもらえるいい機会だと思っているよ」
あまりに突然すぎて、呆然とすることしか、できない。
「僕との別れで、悲しみの乗り越え方を知ってもらいたいと思う」
「そんなのは、知らなくていいよ!知らなくていいから!!ずっと、ずっとここに、いてよ…!!!」
悲しみ?怒り?不安?恐怖?
私の感情が、激しく、揺れている。
揺れる私の感情とは違って。
クベール・チュールの尻尾は揺れることなく、ベッドの上で伸ばされているまま、だった。




