そのじゅうご
目が覚めて、カーテンを開けると薄暗い雲が広がっていた。…今日は雨が降りそう。洗濯物は今日はやめておこうかな。明日はお休みだから、まとめて洗ってコインランドリーに行ってもいいか。
洗濯をする時間が余っちゃった…そうだ、ふわふわのパンケーキ、作ってみようかな。ちょっと多めに作って、お弁当にも持っていきたいな。
雨が降り込むといけないので、小窓だけ少し開けてキッチンに向かう。猫はまだ、ベッドの端っこでお休みのご様子。そうだね、おじいちゃんだもんね、ゆっくり眠っててもらわないとね。
キッチンでメレンゲ入りのふわふわパンケーキを作る。弱火でじっくり焼かないとふわふわに仕上がらないから、時間のある時しか作れないなあって思ってたんだけど。雨模様はちょっと憂鬱だけど、時間ができたことに少しだけ感謝もしてみたりして。
…私ずいぶん、変わった。今までの私だったら、雨が降りそうな天気であれば、店に行くのが面倒だなあとか洗濯できないことに腹を立てたりしてたはずだもの。こんなにウキウキしながらメレンゲ泡立てたりしてないはずだもの。
泡立てたメレンゲを、パンケーキ生地にさっくりと混ぜ合わせる。ここで練っちゃうと、ぺったんこのパンケーキになっちゃうんだよね!白いメレンゲと黄色い生地にマーブル模様が少しだけ残るくらいで混ぜるのをやめて、深めの炒め鍋に生地を落としてふたをのせて、じっくり焼いていく。クベール・チュールの分はカットして出そうかな。小さめサイズのを作ってもふわふわ感はたぶん楽しめないはず。
パンケーキに火を通している間に、パンケーキ生地を牛乳で少し伸ばしたものをフライパンで焼いていく。今日のお昼は、クレープにしようと思ったんだ。ゆでたささみを裂いて、甘味噌とあえてキュウリとともに巻いたのと、ハムとチーズを巻いたのと、きな粉と黒蜜を巻いたのと。あと別添えでトマトとアボカドのハニーマスタードサラダ。今日もバスケットに入れて持っていく。
ふわふわパンケーキをひっくり返すと、きれいなキツネ色に焼けていた。中まで火が通るまで、あと少し。その時間を使ってお弁当作りで余った食材をミニボウルに盛り付け、サラダにする。…よし、朝ご飯の準備も、完了。
テーブルにパンケーキとサラダとミルクたっぷりコーヒー、クベール・チュール用のカット済みパンケーキとキャットフードをならべる。猫はまだ寝てるみたい、起こしたらかわいそうだよね。ちょっと寂しいけど、一人でパンケーキにフォークを入れる。ふわふわのパンケーキ表面にしわが寄って、そのやわらかさに期待がかかる!溶かしバターとはちみつが染み込んだパンケーキをフォークですくって、口に運ぶ…。
「うん、美味しい!」
大成功だ!じゅわっと口の中でおいしさが広がる。自然と口元が、にこやかに微笑む。
「…おはよう、綾香。ああ、いい香りがする」
「おはよう、クベール。チュール!今日はパンケーキを焼いてみたの。よかったら、どうぞ!」
いつもだったらすぐにテーブル前に来るのに、今日のクベール・チュールは少しまだ眠そう。
「ありがとう…まだ少し眠りたいから、あとでいただこうかな。楽しみにしておくよ」
「ここに置いておくから、おなか空いたら食べてね?」
猫はベッドから降りることなく、私を見つめて目を細めている。私は食べ終わった食器を片付けて、立ち上がる。猫が私を目で追ってる。見上げる仕草が、とてもかわいい。
「食事をご一緒することができなかった…すまないね」
「いいよ、ゆっくり休んでてね?おじいちゃん」
ばすん、ばすん!!
「綾香。僕には立派な名前が、あるのだけれど」
猫が怒ってる!!
「ごめんなさい、クベール・チュール!!これ洗ったら仕事に行ってきます、…ゆっくり寝ててね?」
機嫌を損ねた猫は、フンと鼻息をつくとベッドの上で丸くなってしまった。ああ、しまった、朝からなんという失礼なことを。…帰ってくる頃には、機嫌が直ってるといいんだけれど。
「…いってらっしゃい、綾香」
「いってきます。」
丸まった猫をのぞき込むと、細めた目がちらりと私を見ている。怒ってはいないみたい。おじいちゃんなんて言ったから拗ねちゃったのかな。割とこう、子供っぽいところあるんだね…。
曇り空が広がる中、傘とお弁当を持って店に向かうと、ポツン、ポツンと、雨が降り出した。少しだけ急ぎ足で歩く。本格的に降り出す前に、店に到着することができた。
「おはようございます」
タイムカードを切って、更衣室に行くと…あれは、秋元さんと池下さん。秋元さん、戻ってきてくれたのかな…?いや、違うみたい…?
「すみませんっ、働け、ません、ごめんなさいっ…!!」
秋元さんが派手に泣きながら謝っている。…すごいな、なんか、あんなに躊躇することなく、人前で泣けるなんて。感情が豊か?表現が豊か?子供っぽい、と思ってしまう私だけれど…。
どこかで、あんなに泣ける秋元さんをうらやましく思う自分がいる。
自分が嫌だと思う事から逃げ出せる勇気。
自分が悲しい時に人前で涙を流せる勇気。
自分の意思を素直に伝えることができる勇気。
私が年を重ねてすべて手放してしまったものを、この若者はまだ手放さずに持っているのだと、思い知る。
クベール・チュールに言葉をもらって、ずいぶん私は変わったけれど、失くしてしまったものを取り戻すことは難しいのかもしれない。大人になってしまったから、わがままを言う事に躊躇してしまうし、涙をこぼすことは恥ずかしいと思う。
自分の意思を伝える勇気は、少し取り戻したとは、思うけれどね。
「ああ、小湊さん、おはよう、今日はソラマメお願いしてもいいかな?」
「はい、わかりました」
少し疲れた様子の池下さんにお願いされたので手早く着替えて青果倉庫に向かうと、立花さんと神保さんがもめている。神保さんは最近少し怒りっぽいんだよね。切れやすいというか、我慢が利かないというか。
「おい!大根の葉っぱの切り方が雑過ぎるだろうが!!」
「でも店長がここでカットしろって…」
ブロッコリーをカットしている神保さんが、大根を切っている立花さんに文句を言ってるみたい。
「そんな雑な切り方したら俺がもらっていくやつが探しにくくなるだろうが!!!」
なんだ、青菜をもらっていきたい神保さんのわがままってわけね、ちょっといただけないな。
「神保さん大根やったら?立花さんと交代すればいい青菜選べるんじゃない?」
「俺に立ち仕事やらせるの?昨日から腰痛いから無理だわ!!」
大根のカット台は立って使わないといけないから、立ち仕事になるんだけれども。ああ、腰が痛いから座ってやれるブロッコリーを取ったんだけど、そうすると自分の欲しい葉っぱが手に入らなくなるから立花さんに当たってる感じなんだね、きっと。
「じゃあ今日持ってく青菜分、今カットしちゃって取っとけばいいんじゃない?まだオープン前だから今のうちに取っといてブロッコリーに取り掛かったら?」
「おう!そうするわ!!」
立花さんは少々不満そうな顔をしてる。そうだよね、わがままに振り回されて気の毒だと思うよ…。
「立花さん、神保さんと変わってくれてたんだよね?担当。ありがとうね。…池下さんに、ちょっと報告、しとくから。いつもごめんね?何かあったら私話聞くから」
「小湊さん…。ありがとうございます、よろしくお願いします」
私はブロッコリーの台車をさりげなく大根台から離れた場所に移動させて、まだ誰もいない野菜売り場へと向かった。
今日初入荷となるソラマメを置く場所を確保しないといけないからね。青果倉庫のソラマメは三ケースほどだったから、そんなに大きく場所を取らなくてもいけそう。よし、キノコの横に場所を確保してと。
場所を作ってから、青果倉庫でソラマメを袋に詰めるのだけれど。そこに、話を終えたであろう秋元さんが通りかかった。もう姿を見ることはないんだろうなあ…。そう思って、秋元さんを、目で追ったら。
…あれは、私の傘!
「秋元さん!」
「小湊さん、お世話になりました、私今日でここやめるんです」
辞める人が、どうして私の傘を持っているのかな?
「その傘は?持っていくの?」
「雨が降っているのでもら…借りていこうと思って。」
今、もらうって言おうとしたよね?!
「その傘、私のものなの。店の自由に使っていい置き傘じゃないの、渡してもらっていいかな?」
「えっ…。でも…」
この前も無断で持っていって、今日も無断で持っていく…もうここに来ないつもりだったから、もらっていこうとしたんだよね…。この子、意外と大胆というか、欲望に忠実というか、自由というか、自己中心的というか…。そういう子、だったのか。
「店の入り口にビニール傘があるから、それ使ってね。返すのは、いつでもいいから」
手を差し出すと、私の傘が手渡された。渡してもらえてよかった。強行突破されるかもって思っちゃったよ。
「返すときは傘立てに入れといてくれていいから。お疲れさま、気をつけて帰ってね。」
秋元さんは返事もしないで、汚れたビニール傘を差して土砂降りの中帰宅していった。




