そのじゅうよん
パタン、パタン、ぱた、ぱた…。
猫の尻尾は、今晩もご機嫌みたい。晩御飯のかつ丼風雑炊を食べた後、お風呂に入ってしっかり髪を乾かして。今から、クベール・チュールと私の、おしゃべりの時間。
…ずいぶんいろいろとお話、してきたね。最初話すのがすこしだけ億劫だったなんて、信じられない。説教されるのがちょっと怖かったとか、信じられない。こんなにもおしゃべりを心待ちにしている自分が、信じられない。
大き目のマグカップに、ミルクたっぷりのココアを用意して、クベール・チュールの横に腰を下ろす。テーブルの上にカップを置くと、湯気がふわりと揺れた。
「今日は何をお話しようかな」
思慮深い猫が目を細めて思案している。昨日の夜は、クベールの人生論?をいろいろと聞かされたんだよね。こんなにも穏やかな猫なのに、意外と熱血部分があってびっくりしつつ…ちょっと、憧れの部分も感じた、ような。猫なんだけど、なんていうんだろう、力強い言葉というのかな…。
「あのね、私、クベール・チュールのことが、聞きたいかも」
そう、クベール・チュールという猫の、生きてきた道を、聞いてみたい。力強い言葉を持つようになったいきさつ?どういう暮らしをしてきたら、強くて、前向きで、紳士で、穏やかな猫になれるのか。…いや、猫はしゃべらないものだけれども!
「僕?そうだね、そういえば、僕は君に言葉をあげてばかりで、自分のことは話していなかったね」
「クベール・チュールのここに来るまでのお話、聞きたいな…。ダメ?」
猫は組んでいた香箱を崩して、うーんと伸びを一つ、した。尻尾がピーンと伸びて、雅なんですけど…。お行儀良く、前足をそろえて尻尾を巻き付けて、こちらを見る猫。…尻尾長いね。
「僕がこの猫になったのは、15年ほど昔のことだよ。川の近くの住宅地で半分飼われていてね」
「半分?」
猫が少し顔をあげて、遠くを見ている。前過ごしていた家を思い出しているのかもしれない。
「僕は木の上を住処にしていたのです。遠くを眺めて過ごしながら、食事だけいただきに行っていたのだよ」
川の近くかあ…。どこの川だろう。この辺りにある川は、文珠川と八川と小田内川。いつかお弁当を持って猫と一緒にピクニックに行ってもいいかもしれない。クベール・チュールなら。連れてってもいきなり走り出したりしないはず。この落ち着きだもの!!
「食事を与えてくれたのは、車いすに乗った年配の男性でね。ずいぶん豪快な考えの持ち主で、しょっちゅう猫拾って来ては家に出入りを許していたんだ。…昨日少し話したね?猫の矜持に拘る争いのことを」
縄張り争いのマーキング合戦の事かな?猫の世界も大変なんだなって笑っちゃったんだけどね。
「猫の争いを見ながら笑い飛ばし、人の争いを見ながら穏やかに場を収め、ご婦人の涙にやさしく寄り添う、そんな男性を見て、僕はずいぶん勉強させてもらったのだよ」
猫に歴史あり、かあ。
「家を出たって前言ってたけど…ちゃんとそのおじさんには言ってきたの?」
「僕が綾香と話せるのは、君が僕の名前を当ててしまったからであって、僕はただの猫なんだよ」
そうだ、そうだった、私は猫の名前を当ててしまったから、話せるようになったんだった。じゃあ、何も言わずに、家を出たんだね、おじさん探してるんじゃないのかなあ…。
「どうして雨の中にいたのか、聞いても、いい?」
あの日、ずぶ濡れの私が見つけたのは、ずぶ濡れだった、猫。
「住処の木が切られてしまってね。…間に合うと思っていたのだけれど、間に合わなくて、少し彷徨ってしまった。綾香が僕を抱き上げてくれなければ、僕はここにはいなかったはずだよ。…ありがとう」
ああ、雨が降り出す前に、間に合うと思って移動したってことかな。あの雨は確かに昼から降ってきていて、朝方晴れてたこともあって、傘を持ってきてない人が多かったんだよね。…それで、私の傘が持っていかれてしまったわけなんだけども。まあ、この件に関しては、もういいや。
「そっか、無理やり連れてきちゃって悪かったなって思ってたんだけど、よかった。いっぱい言葉もらえて、私の方こそ、出会えたことに感謝してるもの。ありがとう」
猫は目を細めて、前足をバッテンに組んで座り直した。…スフィンクス座りっていうんだよね、これ。
「そういえば…クベール・チュールは、いつから自分のことを僕っていうようになったのかな。はじめ、私って言ってなかったっけ…」
もっとこう、上からな感じだったようにも、思うんだけど。威厳があるというか。そういえば、はじめ私のことお嬢さんとか言ってたよね!!
「僕ははじめ…君をずいぶん、幼いと思っていたよ。この猫の体はずいぶんおじいちゃんだということも、あるね。ついつい君を若いと思ってしまったんだよ。けれど、君はずいぶん、素敵な女性だから。つい年上を装っていたはずが、自分が出てしまったというのかな。」
「実はそんなに、年が変わらないとか…」
猫はフンと鼻息をついて、目を閉じた。私は、少しぬるくなったココアを飲みながら、猫の言葉を、まってみる。
「…年というものは、非常にあいまいなものなのだよ。たとえば、猫の体はずいぶん生き急ぐものだから、人から見れば老いるのがとても速く感じるだろう?人も老いるけれども、老いるのは、魂の器である体だけであって…魂というものは実は年を取らないものなのかも、知れないよ?」
そうか。クベール・チュールは、私の知らない、何かを知っている。それはもしかしたら、この世の仕組みのようなもの?
「クベール・チュールは、何を知っているの?」
「いずれ君も知る事しか、知らないよ。いつか綾香も、知る日が来るからその日まで待っておくのがいいと思うよ」
やんわりと、質問の答えを返すことを拒否されてしまった。
「私は何を、知る事になるのかな?驚く?」
「綾香が今忘れているだけで、本当は知っていることなんだよ。驚くというよりも…しっくりくると、思うよ」
にっこり笑っているかのように細くなっていた猫の目が、ゆっくり開く。…じっと、私の目を見つめる、クベール・チュール。なに?なんだろう、猫の訴える目が、まっすぐ私を、射貫いて、来る。
「綾香。僕は、欲しいものがあって、この猫の中に入った。欲しいものは、そうだね、…見つかったんだ」
「よかったね、それは何って聞いても、良いのかな?」
猫と見つめ合ったまま、質問してみる。今度は、答え、返ってくるかな…?
「…君は今、忘れているけれど、名前を持っているんだよ」
「いつか思い出す?」
「もちろん」
猫が私の目を見つめたまま、私の方に寄ってきて、頭突きをしてきた…。なんでここでいきなり私に攻撃を仕掛けてくるんだろう。…まあ、そんなに痛くないからいいけど…。逆に、ちょっとすべすべしてて心地いいかも。
「僕は、君の名前を、知りたいと思う」
「思い出した時に、クベール・チュールがいたら、教えるよ?」
猫の尻尾が、少しだけ、不機嫌に揺れる。教えるといったのに、不機嫌?
「もし、思い出して、名前の意味を知ったら、君は僕に名前を教えてくれるだろうか」
名前の意味が、正直よくわからない。ひょっとしたら、名前はとんでもないキーワードになってたりするのかな?そんなものすごいことを簡単に教えるって約束していいのかな?…でも、クベール・チュールには、恩がある。私を変えてくれた大切な猫が望むのであれば、叶えてあげたいとも思う。
「その時になってみないとわからないけれど、覚えておくね。…だってクベール・チュールは、私の大切な猫だもの」
「覚えておいてくれたら、それだけでいいよ。ありがとう」
猫の機嫌が直った。香箱を組んで、ゴロゴロと喉を鳴らしている。私はここぞとばかりにスマホで動画を撮って、猫のゴロゴロをゲットした。明日上田さんに見せびらかそう!
テンションの上がった私は、目が冴えてしまってなかなか眠れなかったのだけど、猫はなんだかとっても眠たそうで、早々に就寝してしまった。おじいちゃん猫だって判明したし、大切にしてあげないといけないなあ…。
すやすや眠る猫を心行くまで見つめてから、私は部屋のライトを落として目を閉じた。




