そのじゅう
ちゃぷ、ちゃぷ…。私は、乳白色のお湯を、楽しんでいる。
「先にお風呂におはいりなさい。私は少しだけ、食後の転寝をさせていただこう」
クベール・チュールがそう言ってくれたので、食後の後片付けをした後、私はのんびりお湯に浸かることにした。あまり、お湯を楽しむことがなかったんだけどね。今日、温泉の元久しぶりに買ったんだ。ふふ、いいにおい。お湯も、すべすべで。手足を伸ばして、お湯を揺らして。それだけで、ずいぶん心が穏やかになるものなんだなあ…。リラックスってこういう事なんだろうね。
もっと大きなお風呂だったら、もっとリラックスできるのかな? そういえば、温泉久しく行ってないな…。最後に行ったのは、いつだろう。
…。大学の時の、ゼミの合宿、かな。卒論のテーマを発表して、意気込みを語るという名目で、一泊二日。海辺の温泉旅館で。温泉がしょっぱかったんだよね。温泉に入って、大広間でご飯食べて。発表会して。
その発表会が、私を、変えた。
私が卒論のテーマに選んだのは、仏像体内についての考察。経文、遺物、文字、宝。仏像の中に残された魂の痕跡を追いたい、研究したいと願った。人々の祈り、願い、教え、そういったものを追求して、自分の中で答えを出したいと、願った。自分の、熱意を語ったつもりだったんだ。
けれど。
まだ、テーマの決まっていない学生が何人かいて。私のテーマを、取られてしまったのだった。調べて、結果が出やすいからという理由だった。私みたいに、思い込みで、仏像の中に魂を込めたに違いないという考え方は論文向きでは、なかった。思い込みが自分の首を絞める。卒業論文の成績は、可、だった。温泉でテーマを見つけたゼミ仲間は、優だったんだ。
…この辺りから、なんとなく、人生のやるせなさを感じ始めて。就職も超氷河期で、文系のマイナー学科卒の私に内定は出ず。結局アルバイトをしていた今のスーパーにお世話になることになって。
何だろう、私って打たれ弱いのかな。流されやすい? 自分を持ってない? 運が悪い? だめだなあ、一人きりになると、どうしても悪い方へと考えてしまう。クベール・チュールがいないと、私は、本当に…情けない。
くさくさしても、しょうがないか。勢い良く、お風呂から出る。お湯を抜いて、体を拭いて、ルームウェアに着替えて、お湯の抜けた浴槽を洗ってから、ドライヤーを持ってリビングへと向かった。
猫がベッドで微睡んでいる。ドライヤー、申し訳ないな。明日は仕事休みだし…タオルドライだけでいいか。あ、猫の目が、開いた。
「…とても、いい香りがする。今日のお湯は、特別に上等なものだったのかな?」
「そうですね、いつもよりは、良いお風呂でしたよ。思いのほか、上等でした」
大したことないなんて言ったら、またばすんばすんが来るからね! 気を付けないと。
「髪は乾かさなくていいのかい?」
「ええ、明日はお休みだから。このままでいいかなと…」
おや、猫の様子が…。
「綾香。私が眠っているのを見て、躊躇したね?…私は遠慮されないといけない存在なのかな?」
ばすん、ばすん。尻尾が激しくベッドを叩く。猫がご立腹だ。
「ええと…乾かすので、ちょっとお時間、ください」
「ああ、かまわないよ」
猫の、機嫌を損ねる基準が、いまいちわからないかも…。
ドライヤーを片付けて、クベール・チュールと向き合う。緑色の目が、まっすぐ私を見つめる。ああ、少し目が細くなった。ゆっくり、左右に揺れる、尻尾。もう機嫌は良くなったみたい。
「綾香は、とてもやさしいのだと思うのだよ。その優しさゆえに、人と相対した時に、相手を思いやってしまう。今みたいに、ね」
やさしいかな?クベールが起きちゃったらかわいそうって、思っただけなんだけどな…。そもそも、今のは人じゃなくて、猫だし…。
「君は、やさしさを蔑ろにされて、今の臆病さを身につけたのだと、思うのです。やさしさを分けて、やさしさ以外の感情を返された経験が、多いのかもしれないね」
「私は、臆病に見えますか」
「気持ちを伝えることを、あきらめてしまっているように見えることがあるのです」
あきらめ、かあ。確かに、そうかもしれない。会話をするたびに、どうせいい返事は来ないよねと、どこかで決めつけている自分がいる。…そうか、私、こういう性格なんだね、きっと。決めつけがち?
「私の返した言葉が、受け入れてもらえないと決めつけているのかも知れない。私の言葉は、届かないことが、多い気が、します…」
少し、ううん、ずいぶん、後ろ向きな、私の意見。クベールの、尻尾は…?
「言葉を返すとき、君のもつやさしさを足してみたらどうだろうか。戦うという表現は少し攻撃的かもしれないけれども…君の言葉に対して返ってきた誰かの言葉を受け入れるだけでは、負けてしまうかもしれない」
私の言葉に対しての返事は、あなたの言葉はこれ以上受け入れませんよという、遮断前提の会話。そういう会話が、私には多かったようにも、思う。私は、会話をいつも負ける状態で終える癖が、ついていたかもしれない。会話に、勝ち負けがあるとするのであれば。
「投げかける言葉に、やさしさを加えてみたら。案外、戦いは穏やかに収束するものだと思うのです」
「やさしさ、ですか?」
私は、やさしいのかな?よくわからない。誰かの意見を、認めることが、やさしさ?言いたい自分の気持ちを、抑え込むことが、やさしさ?…あの時、私の研究を取らないでと言えなかった、私。一緒に研究すすめようかと、切り出した私。同じ資料を、共有して。論文テーマのディスカッションに力を入れて。
「君は、とてもやさしいよ。ただ、やさしさを出す勇気がすこしだけ、ほかの人に比べて少ないかもしれない。…やさしさを軽視される悲しみを知っているから」
一緒に、研究を進めていって。私が一人で集めた資料もなぜか共同収集になっていて。結果は私の方が劣っていると判断されて。私は認められず、何も、残せなかった。
「やさしさを返すのは、少し難しいかも、知れません。私は…少し、恐怖を感じるもの」
「でもね、僕は思うんだよ。君が、やさしさを誰かに与えたら、この世界に、やさしい人は、確実に一人増えるんだ」
世界規模の話ですか。なんか、話が壮大になってきた。ええと、私、そんなにもすごい言葉、もらっちゃっていいんですか?ちょっと、混乱が。
「君は僕にやさしさを与えてくれたね。ありがとう。君のやさしさに、僕はとても感謝しているよ」
「私の方こそ!…もらってくれて、ありがとう? ううん、やさしい言葉を、ありがとう」
私がクベール・チュールにしたことは…雨の中で助けたことと、部屋に置いたことと、美味しいご飯と…。やさしい? やさしいと言ってくれたのは、どの行動のことなんだろう。自分のしたことなのに、受け取る側の気持ちが、見えてこないというかっ!! ちょっと、恥ずかしい!! でもここで否定したらばすんばすんが!!!
「できたら、その優しさを、この世界に、少しだけ分けてあげてほしい。やさしさに飢えている人は、いるよ。やさしさを分けることは、誰にだって、実はできるものなんだと僕は思う」
目を閉じ、香箱を組みなおす、猫。揺れる尻尾が、とても優雅だ。雅って、こういう事なんだろうなあ…。
「少し、少しだけでいいんだ。やさしい気持ちを、向けるだけでいい。どうか、君のやさしさを出すことに、躊躇しないでほしい」
「できるでしょうか?…ううん、するんですね、やさしさを、躊躇しないで、出す」
昨日のクベール・チュールの、力強い言葉を思い出す。
『なれるでしょうか? …綾香、なるんだよ。君は、素直になるんだ、今日から』
自分はこれから変わるんだという意思を、確認する。私は、変わるんだ。変われるんだ。変わってる!
「君が与えたやさしさが、誰かの出せないでいた優しさを引き出すことになるはずだと、思うのです。もらえないから与えない、それでは世界中からやさしさが枯渇してしまうよ」
やさしさが枯渇してしまった世界。そんな世界で、生きていく? 私がやさしさを誰かに与えることで、世界がほんの少し変わるというならば。
…私は、今までどんな風にやさしさを出して、どんなふうに返されてきたんだろう。私のやさしさは、間違っていたのかもしれない。何が間違った考え方で、何が正しくて、何が蔑ろにされたのか。…少し、混乱してしまったみたい。
どうしようか。クベール・チュールに、相談してみる? …うん、クベール・チュールは、躊躇するなと、言っていたもの。遠慮したら、また、ばすんばすんが、来る。
「あのね、クベール・チュール。私は、学生時代に、悲しい出来事を経験したの。そこに、私の出せない勇気と、ねじ曲がったやさしさの、ルーツがありそうな、気がして」
「お聞かせ願おう。」
猫は、時折目を閉じながら私の話を聞いてくれた。
今まで私が経験してきた、蟠りの残る出来事。そこにやさしさはあったのか。そこに、私が得た感情とは。ずいぶん白熱した、言葉の応酬があった。クベール・チュールは恐ろしく冷静に、私の過去の出来事を分析してくれた。
私の過去は、変わらない。
けれど、今日。過去の出来事から、自分が変わるきっかけを、もらえた。どんな感情がそこにあったとしても。経験は宝、なのだという事。経験に傷つき、そこに留まるのか。経験から学び、前を向くのか。
変わらない過去の出来事から、私が変わるきっかけを見出す。
私の弱気な過去の出来事を聞く、クベール・チュールの尻尾は、終始穏やかだった。




