そのいち
春が来た。
春って、こう、気分がウキウキする季節っていうじゃない?
ウキウキ気分でバネみたいに跳ねあがりたくなるから、Springっていうんだよって、大学時代の雑学に長けたお友達が言ってたっけなあ。
ウキウキだと…?
ズブズブだよ!!!
桜満開の今日!!4/1のエイプリルフール!!!
めっちゃ雨降ってるじゃん!!
春雨じゃん!!
食材じゃん!!
私は一人、傘もささずに家路についております…。
靴の中もぐちゅぐちゅ、全身濡れ鼠の私、小湊綾香三十代独身、ただいま絶賛商店街を爆走中!!!
くそう、だれだ!!
人の傘盗ってったやつ!!!
怒りに燃える私の全身からは湯気が立ち上っている。
ああ、これなら風邪ひかないな、よし!!
激しい雨の中、小道を急ぐ私の目に、何やら動くものが見えた。
ん?
なんだあれ…。あ、黒い…猫?
なんか猫が、塀の上で、ずぶぬれになってるじゃん…。
普通猫って水苦手なんじゃないの?
しかもなんか、こう、微動だにしない感じだし…生きてる…?
ずぶ濡れのまま、ずぶ濡れの猫を、うかがう。
あ、目が合った。
きれいな緑色、おとなしいけど、飼い猫?
でも、なんかこのまま置いといたら、かわいそう。
・・・。
嫌がらなかったら、連れていくか。
びったびたの猫を、抱きかかえる。
猫は何も言わず、おとなしく私に抱かれたまま、連行された。
我が家はエレベーターのない、三階建てのマンションの三階部分。
びったびたの装備で、三階まで一気に駆け上がる。
部屋のカギを開け、猫を玄関に下ろす。
猫はにゃあとも鳴かず、微動だにしない。
「とりあえず、タオル、タオル…」
ぐちゅぐちゅの靴を脱ぎ捨て、玄関マットで足をよく拭いてから玄関横のお風呂場にあるタオルを一枚持ってきて、猫を拭く。ふるえてないから、ちょっとこのまま待っててもらおうかな。
私は玄関で服を脱ぎ捨て、一つにまとめると全自動洗濯機にポイして、お風呂に直行した。
急いでお風呂から出ると、玄関に直行した。
あ、まだ同じ格好で猫がいる。
寒かったよね、お風呂入れちゃおう。
体にバスタオルを巻いたまま、猫をお湯にそっとつける…全然微動だにしないぞ…。
大丈夫なのか、この猫。
しばし体を温めて、おっきなバスタオルで包んで水気を取り、リビングに連れていく。
ドライヤーで乾かさないとね。
時折自分の髪も乾かしつつ、猫も一緒に乾かす。
しかしほんとにこの猫動かないな。
弱ってるのかな…。
一通り乾いたところで、ベッドの上に猫を置き、自分はジャージに着替える。
その様子を、猫がじっと見ていた。
乾かした猫は、真っ黒ではなくて、なんていうんだろ、うーん、チョコレートみたいな色をしていた。
「ああ、そうだ、クベール・チュール!」
そうそう、なんかそんな感じの、ちょっと高級そうなチョコレート、アレの色だ。
トロトロに溶けた甘い甘いチョコ、昔、彼氏に作ってあげようとして、失敗して、うん、嫌な思い出だ、消去、消去!
猫、元気出たかな?
乾かしたからちょっとは元気になったかな…?
そう思って抱き上げて、
「あんたのなまえは
「クベール・チュールと申します、お嬢さん」
はい?!
「ごきげんよう、お嬢さん。あなたのお名前は?」
ねこ、ねこっ!!!!!?????
猫、しゃべってますけどおおおおおおおお!!!!
抱き上げた猫、いや、クベールチュールを、そっとベッドに戻す。
「テレビのドッキリですかね?」
まさか、こんなごくごく一般人のアラフォー女子を、テレビのネタに引っ張り込もうと?
そんな馬鹿な。
「テレビのどっきりですかね嬢は、」
「わあああ!!違う、違うよ、私の名前は綾香だよ!!小湊綾香!!!」
危うくおかしな名前認定されるところだったよ!!
人の話はちゃんと聞かないとね!!
人じゃなかった!猫だ!!!
「綾香というのですね、いいお名前だ」
目を細めて、ゆったりと落ち着いた低めの声で、猫…クベールチュールが私の名前をほめる。
なんだろう、人、いや猫に名前をほめられるとか久しぶり、いや違う、初めてだよ!!!
「おいくつになられましたか」
「さ、36歳です…」
クベールチュールは目を閉じ、ふうと息をついてつぶやく。
「お若い…お若いですね。お嬢さんとお呼びしても、よろしいですか?」
「お、お嬢さん?!」
お嬢さん呼びなんて生まれてこの方初だよ!初!!!
あきれ返る私を気にすることなく、クベールチュールは淡々と自己紹介を始めた。
「雨に降られ、体が動かなくなりましてね。参っていたのですよ」
ああ、やっぱり困ってたんですね、誘拐罪にならなくてよかった。
「温かいお湯をありがとうございました」
「いえいえ」
なんだこのまったり感。
猫が話すというトンデモ現象が、穏やかに収束していくぞ…。
「私は、名前を持つ猫なのです」
「誰かに飼われてるってことですか?」
あ、ヤバイ、誘拐犯じゃん!
「違いますね、私は猫の姿をしていますが、私自身は、この猫ではなく…」
「乗り移ってるってことでしょうか…?」
クベールチュールのしっぽが、ぱたぱたと私のベッドの上を跳ねる。
ああ、スプリング、ここで発見…。
「そうですね、違うんですが、少し、説明が難しい」
何やら香箱を組んで、考え込んでしまった。眠り猫みたいな顔してる、ふふ。
「お嬢さんは、私の名前を当ててしまったのです」
「クベール・チュール、を?」
そんなことって、あるのかな?
猫に日がないろんな名前を呼びかけたら、しゃべる猫だらけになっちゃいそうなもんだけど。
「名前は、一つしかない大切なもの。魂のキーワードといえばよろしいでしょうか」
難しそうな話が出てきたなあ…私頭には自信がないのに。
いや、自信あるもんなんて、何にもないよ、ははは。
「互いに名前を名乗ると、意思の疎通が可能となるのですよ、お嬢さん」
危なかった!!テレビのドッキリさんだったらおかしな話になるところだったよ!!
「私は、貴方に名前を呼ばれて、貴方の声を聴いたのです」
あ、目が開いた、かわいい。
私は当然猫派です、はい。
「ただ、貴方の名前を知らないので、いろんな言葉で、話しかけました」
「失礼な発言があったのであれば、お詫びいたします」
なんという紳士な猫!!
「いえ、何も粗相はございませんでした…。はい…」
ジャージ姿で対応してしまって申し訳ございません。
「お嬢さん、こうなったのも何かのご縁。私を、こちらにおいてはいただけませんか」