一人で不毛な議論をする男
「なぜ人は愛する人を選び、愛し続けなければならないのか」
在りし日のゴーギャンの問いかけのように、僕の頭にそんな言葉が浮かんだ。哲学的でいて、反哲学的とも言えるそんな矛盾した問いだろう。もしも最近不倫で糾弾された東◯さんがツイッターで世間にそう問いかけたとしたら、ムキになった人々の言葉の暴力の集中砲火を浴びるところだ。
「ヒトは大人になったら愛する人を一人決めて生涯をその人と添い遂げなければならない」
そんな綺麗事が世間一般を支配している時代があった。実際はその事実一遍通りではない現実を誰もが知っているというのに。
実際、誰が、いつ、そんなルールを決めたんだろう?はるか昔、人間が猿からヒトに進化したとき、そんなルールはなかった。現代だって一夫多妻制が認められる国もあれば、フランスのように事実婚が主流の国もある。日本でも平安時代までは一夫多妻制だったのだ。男が夜な夜なその日に選んだ女の元に夜這いに行く通い婚もあったし、二人の男が一人の女をシェアする、たしかそんな映画もあったはずだ。
多くの文献が物語っているように、ヒトはいつの時代も「考える動物」であったことに変わりはない。古代のヒトが考えた本当は卑猥な神話、ポルノや春画の存在、シェイクスピアやドストエフスキー、芥川龍之介だって愚かな性を題材にした名作を描いている。
バイセクシャルのカップルのフンボルトペンギンやカモメ、キリン、オス同士のコクヌストモドキの後尾。男女間の恋愛の定義だってもはや当てにはならない。
ヒトが表面だけを取り繕って裏で何を考えているかわからない高等動物であることだって、いまさら確認するまでもない。
やれやれ……全く不毛な議論だ。僕がこんな小難しいことを考えるようになったのもすべては彼女のせいだ。あの日、僕の既存の価値観はすべて覆されたのだから。
あの日、僕はベランダで彼女を抱きしめながらキスをした。彼女は僕の腕の中で身体を硬くしたまま僕を受け入れた。重なった唇や僕の頬に触れた彼女の掌のわずかな震えから、彼女の緊張が伝わってきた。でも僕は、逆に彼女に触れられた喜びで興奮状態にあった。僕がなおも強く彼女の唇を貪ろうとすると、彼女は唇を離して僕から顔を背けた。
「ちょっと……」
そう言って、彼女は赤くなった顔を隠すようにして僕に背を向けた。
「……とりあえず、中に入ろうか」
僕はそう言って、彼女の肩に手を置いて一緒に部屋に入った。顔を赤くして俯きながら歩く彼女の横顔を見ると、僕はまたすぐに彼女にキスをしたくてたまらなくなった。そして今度は彼女をこちらに向かせて抱きしめた。
「もう一回、キスしていい?」
「……ダメだよ」
彼女は視線を逸らしながら恥ずかしそうに答える。
「一度受け入れたのに?」
「ダメなものはダメなの」
彼女はそう言って僕の腕の中で無駄な抵抗をしようとする。きっと彼女は今、彼女の中の罪悪感と戦っている。だから僕は彼女の耳元でこうささやいた。
「大丈夫。誰も見てないよ。素直になって」
彼女はその言葉を聞くと動きが止まった。そして僕の目を見つめた。潤んだ瞳が何かを訴えているようにも見えた。そして僕はもう一度彼女にキスをした。さっきよりも強く、彼女の唇を奪った。
固く閉ざされていたはずの彼女の唇がわずかに開き、そこから甘美な吐息が漏れた。そのとき、僕はすかさず僕自身をそこに滑り込ませた。彼女を探すために。恥ずかしそうに奥に引っ込んでいた彼女は徐々に僕に近づいてきて、やがて僕たちは交わった。僕は優しく彼女を撫でて、彼女も僕に触れた。
僕はまるで、僕の身体の全神経が舌に集中したみたいに、自由自在に軽やかに動くことができた。そして、僕は彼女の後ろの方にあったベッドにそっと彼女を導き、そのまま押し倒した。
綺麗にメイキングされていた彼女のベッドの真新しいシーツには、僕たちが倒れ込んだせいで幾つもの深いしわが刻まれた。彼女の肩までの黒い髪が白いシーツに扇状に広がり、彼女はピンク色に上気した頬で僕を見上げている。そして彼女は両腕をクロスさせ、自分の目を隠した。彼女の形の良いツンと尖った鼻と、さっきまで触れ合っていた唇が悩ましげに動いた。
「はぁ……」
彼女はため息をついた。
「どうしたの?」
と僕がいうと、
「ダメなのに……」
と言った。相変わらず葛藤しているみたいだ。
「ダメだね」
僕は言った。
「悪いことをしよう。僕に付き合って」
彼女は黙っている。
「それが僕へのお礼」
「そんなこと無理に決まってる……!」
彼女が腕を下ろし、ムキになって言おうとする唇を僕は人差し指で押さえた。
シー……
「何も言わないで。僕を受け入れて」
僕がそう言って彼女を見つめると、彼女は本当に何も言えなくなったみたいだ。