3:母と子と
あれから1週間が経過したが、未だに意識は途切れる様子を見せない。
これはもう、自分が生まれ変わったのだという仮説をほとんど信用してもいいだろう。
「母親」は毎日、俺の世話をした。
赤ん坊である俺は何もできないので、彼女は文字通り「すべて」のことをしてくれた。
言葉を話せないので思い通りにいかないことはもちろんあったが、不満があるかというとそうではない。
ここまで尽くしてもらって、文句など言えるはずがなかった。
普通、赤ん坊と言うのは何も考えずに世話をしてもらうものなのかもしれない。
赤ん坊にとってはそれが日常であるし、世話をしてもらうこと自体はもちろん仕方のないことである。
しかし前世の記憶を持つ俺にとって、この状況は普通ではない。
はじめに出た感想は「申し訳ない」だった。
前世の俺は16歳。
幸せな一般家庭に育った俺は、まだ親に養ってもらっていた。
だが赤ん坊というのは、もっと手のかかるものだ。
着替えや排泄物の処理まで、「母親」は嫌な顔をせずにしてくれる。
これは普通自分でするものだと分かっている俺にとって、恥ずかしい以前に申し訳なかった。
だがその感情は、次第に感謝に変わった。
母親であるその人物は、自分を深く愛してくれている。
それなのに、申し訳ないと思いながら世話をされるのは、失礼というものだ。
ただし、当たり前だと思うのはもっと失礼だ。
だから俺は、感謝することにした。
前世では親に感謝することなどロクになかった。孝行もしてやれなかった。
ふと、母さんの顔が思い浮かんだ。
カウンターキッチンの向こうで、夕食を作る姿。
彼女もまた、俺を深く愛してくれた。
会いたい。だけどもう、叶わない。
今の親に愛されながら前世の親を思い出すことが、一番失礼なのかもしれない。
しかし突然死に追いやられた俺にとって、流石にこれは仕方なかった。
何にせよ、申し訳ないと思うことはやめたのだ。
1週間、変わったことは何も起きなかった。
朝は早い。「母親」はまだ暗いうちに、俺を起こさぬようそっと目覚める。
忍び足で隣の部屋に行くと、火を灯した蝋燭を手燭に乗せ、こちらの部屋に戻ってくる。
手燭というのは、持ち手の付いた小さな燭台である。
それを使って部屋じゅうの蝋燭に火を灯し終えると、こちらの様子を伺いに来た。
初めの2日間は、それに気づいた。
慣れない環境で、やはり深い眠りにつけなかったのかもしれない。
それ以降は気づいたら部屋が明るいこともあったし、すっかり太陽が昇ってしまってから目覚めて、部屋の蝋燭は既に消されていることもあった。
けれどもやはり、「母親」と共に目覚めてしまうこともあった。
ばっちり目を開けて一連の動作を眺めていると、様子を伺いに来た彼女は、やはり訝しげな顔をした。
初めはそれがなぜだか分からなかったが、ある時ふと気づいた。
俺はこの世界で目覚めてから、一度も泣いていないのだ。
俺の意識が目覚めるまで、この赤ん坊はぎゃあぎゃあ泣いていたに違いない。
ってかそれが普通だろう。
まだロクに寝返りも打てない赤ん坊が、突然泣かなくなったらどうだろうか。
腹が減っても排泄しても泣かない。
夜泣きもしない。
そりゃ不気味だし、それ以上に心配するに決まっている。
だけどそういう時は、きゃっと笑ってやったりして感情を表に出すと、たいてい彼女はほっとした顔をする。
単純だ。
彼女は目覚めてから日が昇るまでの時間を、アクセサリーのようなものを作って過ごしている。
天然石やウッドビーズを使い、丁寧に作り上げていく。
一体何に使うのだろうか。
日中は特に変わったことも起きず、穏やかな時間が流れた。
初めに見た「母親」の服装はどうやら寝巻きだったらしく、昼間はもう少しマシな格好をしているが、それでもやはりみすぼらしい。
1週間、一度も人は訪れなかったし、外に出ることも殆どなかった。
今の体は疲れやすくて日中も寝ていることが殆どなので、もしかすると寝ている間に誰かが来たことはあるかもしれない。
外に出たのは二度のみ。
いずれも食料品を買い求めに出たらしかった。
但し「母親」は、何故か外出時には俺を隠すように布で包んでしまう。
優しく包んでくれるので苦しくはないが、おかげでまだ家の周りの景色を見たことはない。
俺はそんなに酷い姿をしているのだろうか?将来が心配だ……
それにしても、赤ん坊ってのは本当に汗っかきで、そういう風にして外に連れて行かれると全身ベタベタになってしまう。
早くも外出が嫌いになりそうだ。
日が沈むと、「母親」が夕食を済ませてすぐに就寝する。
どうやら蝋燭が勿体無いという考えのようで、真っ暗になるギリギリまで外からの光で生活したし、どちらかというとさっさと用事を済ませて蝋燭消して寝てしまいたいみたいだ。
そして実はこの1週間、「父親」の姿を一度も見ることはなかった。
いつでも家の中には、俺と「母親」2人きり。
「母親」はいつも俺を抱いて、微笑んでいた。
そして俺に、たくさん話しかけた。
おかげでひとつだけ分かったことがある。
それは彼女が一番多く語り掛けてくる言葉でもあった。
…………「メルヴィン」というのが、俺の名前らしかった。
普段は「メル」と愛称で呼ばれることが多い。
「メル」「メルくん」「メルちゃん!」
ってな感じで……
この愛称、どうしてもあの赤ちゃん人形を思い出してしまうが……まぁ、このプニプニボディのベビーちゃんにはぴったりだろう。
それにしても、やっぱり家の中に電球はない……あ、LEDだからとかじゃないよ?
家具も全て木製だし、風呂場も無くて体を洗うのも3日おきぐらい。
それに暮らしぶりもさっき話した通りなので、やはり我が家は相当貧乏なのかもしれない。
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1か月の月日が経過した。
最近気付いたことがある。
それは、自分の見ている景色がどんどん鮮明になっていることだ。
よく考えたら、生まれたばかりの赤ん坊はほとんど目が見えない。
ならば、事故に遭った後に見たアレは、まだここに生まれたばかりの頃の、この赤ん坊から見た景色なのかもしれない。
そう考えると、首が動かなかったのも納得できる。
とすると、やっぱりこの赤ん坊は初めから俺なのだろう。
もちろん、体もどんどん動かしやすくなってきた。
うつ伏せにされた時にぐいっと体を持ち上げてドヤ顔すると、「母親」が嬉しそうな声で褒めてくれる。どやっ。
首もあまりグラつかなくなった。
寝返りは……まだだけどね?
体を動かせないのはとても辛かったので、ちょっと嬉しい。
かなり気分がいいので、少し「母親」を喜ばせてみることもある。
俺がニコッとすると、彼女は心底幸せそうな顔でニコッと返してくる。
キャッキャと嬉しそうな声を出すと、彼女も嬉しそうだ。
声を出すと、真似をしてくる。
どうだ!俺様のかわいさは!
こうやって喜ばせると、ずっと抱っこしてくれる。
その時間は、硬いベットに寝ているよりずっと幸せだ。
例え一度16歳まで生きたとしても、今の俺は赤ん坊だ。
何もできない俺にとって、頼れるのはこの人しかいない。
俺が「母親」を好きになるまで、それほど時間は掛からなかった。
さすが、子供にとって唯一無二の存在。
母は偉大である……
一方、父親の方はやはり一度も姿を現さなかった。
訪問者が無かった訳ではない。
しかし、家に人が訪れるのは俺にとって喜ぶべきことではないらしい。
近所のおばさんが来た時、俺は寝室に閉じ込められた。
お姉さんが来た時は、布に包まれてずっと抱かれていた。
やっぱり俺の姿は見られたくないらしい。
隠し子なら存在も知られてはいけないはずなので、そういう訳ではないんだろうけど……
……ちょっと、いい気分ではないよね。
時々「母親」が俺の髪を撫でながら、深刻そうに考え込むことがある。
そのことと、何か関係があるのだろうか。
気まずいのは嫌なのでニコニコしてやると、彼女は少し困ったように微笑み返してきた。
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目覚めてから、3か月の月日が経過した。
首も座ったし、寝返りもバッチリだ。
かなり世界が広がった気が、しなくもない……
ここの言葉もだいぶ分かるようになってきた。
聞いたこともない言語を習得するまで、普通はもっと時間がかかるものなのかもしれないが、赤ん坊の脳というのはすごいもので、ぐいぐい吸収することができた。
それになぜかは分からないが、絶対に日本語ではないのにどこか日本語に似ているところがある、気がする。
生後半年に満たない赤ん坊は普通、言葉を理解するはずがないのだが、それでも「母親」はたくさん話し掛けてきた。
「いいお天気だね」
「今日も元気ね」
「いい子だね」
「よく笑うのね」
そういう風に話し掛ける、彼女はいつも笑顔だった。
今まで外出した回数は数十回。
どうやら目的は買い物だけではないらしいという事が分かってきた。
彼女が毎朝作っているアクセサリーは実は売り物で、それを売り捌くことも目的のひとつらしかった。
布の隙間から時々見える景色しか見ることができないので、それを確信するまで3か月も掛かってしまった。
彼女は自身の作っているものと同じようなものを売っている店よりも、遠方からやって来た行商人などに商品を売ることが多かった。
ちらっと見たところ、ここの通貨の価値は分からないが、そこそこの大金を受け取っているように見えた。
この辺でしか採れない石でも使っているのか??
それならあまりたくさん作ることができないのも納得できる。
作るのに時間がかかる訳でもないので、もっと作ればいいのにと思っていたところだ。
そんなことを考えていると、ある朝思いついたように彼女は小さなブレスレットを作り、それを俺の腕に付けてくれた。
初めてのプレゼントだった。
見ると確かに綺麗だった。
なんだか不思議な輝きを持っている。
何の記念日でも無いが、貰ってしまってもいいのだろうか。
突然のことで、めちゃくちゃ嬉しかった。
彼女が考え事をする頻度は、日に日に多くなっていた。
おおかた生活費に困っているのだろう。
男もいなければ収入源も少しだけ。
ほとんど貯金で生活しているに違いない。
なんて考えていると、ある日彼女はポロリとこんなことを呟いた。俺に、向かって。
「あの人に、似てきたわね」
心底憎い物を見るような目で宙を睨み、吐き捨てるように続けた。
「髪も目も、真っ黒ね……」
その時彼女は、とても哀しい目をしていた。
どうやら俺の「父親」は、かなり彼女に嫌われているらしい。
彼女は訪問者との会話を、玄関先で済ませることが多くなった。
ある日、大柄なおっさんが家に来た時にちらっと外の様子を見ることができた。
おじさんは「母親」と同じようなみすぼらしい格好をしていた。
どうやら確実に、ここは先進国ではないようだ。所謂、発展途上国。
我が家の経済状況はガタガタだが、他の家も同じようなものらしい。
外の様子を見ると、そういう国だと考えれば都会でも田舎でもない、普通の町って感じだった。
それからは、人が来るたびに外の様子や訪れた人物を観察するようになった。
この国のことをもっと知りたいと思い、ついでに「母親」と訪問者の会話も聞く。
そして気付いた。
やっぱりここはおかしい、と。
言語も聞き慣れないしもともとおかしいと思っていたのだが、初めて聞くような言葉が多すぎるのだ。
地名や国名も知らないものばかりだった。
ここがマイナーな国だとしても、周辺国の名前まで全て聞いた事がないのはおかしいだろう。
しかしそれがどういうことなのか、今は知る術がない。
それにしても、結構な頻度で人が来る。
やっぱり都会じゃないから、近所との関わりとか大事にするのかな。
「あなたもたまには、お祈りに来なさいね」
訪問者は皆、帰る前には口を揃えてそう言った。
多分、その一言を言うために来ているんだろう。
ある日の夕暮れ時のことだった。
その日はまた、別の人が訪れていた。
やたらおっぱいのでかいおばさんだ。
例のごとく、俺は空気を読んであまり姿を見られないようにしつつも、こっそり様子を伺っていた。
誰かが来ると必ず「母親」が俺に布をかけるので、姿を隠すには都合がいい。
いや、おっぱい見るためじゃないよ?
流石におばさんのおっぱいには興味ないから!
なんて、お気楽に考えていると、突然ぱいでかおばさんが叫んだ。
女性特有の甲高い声に、耳がキーーンとした。
おばさんが次に発した言葉はこうだった。
「……悪魔よ!悪魔の子だわ!」
失敬な!俺様は天使のようにかわいいじゃないか!まぁ見た事ないけど!
「母親」は真っ青になって、怒涛の如く扉を閉めた。
彼女の額からはダラダラと汗が垂れていて、それが冷や汗であると確信できるほどに、彼女はただならぬ顔つきをしていた。
彼女は扉が開かれないように、急いで鍵を閉めた。
全身を覆っていた布が一部脱げていることに気づいたのは、その直後だった。