2―2 社畜という名の呪いは解けないようです。
第二部、篠原一の転移後の話です。
この世界にやってきてから、しばらくの時がたった。警備員の仕事は思っていたよりも事務職が多く、正直前の仕事と変わらない点が多い。
だが決定的に違う点が一つ。労働時間である。
具体的なデータを示そうじゃないか。
現世での残業時間は月に百時間程度だった。但しこれはあくまでも社内での労働時間である。家で進めていた仕事も含めれば、百五十時間は超えているだろう。
ちなみに過労死ラインは八十時間と言われている。そう考えれば高校の同級生に、社畜ロボというあだ名を付けられたのも当然かもしれないな。
尤も、ここ五年は友達に会う暇など無かったのだが。
それに比べてここでの残業時間。
半年ほど働いてみても、なんとゼロだ。むしろ残業をするなんて言ったら、上司に鼻で笑われる世界である。
現世でも他の国なんかはこうだったのか……。もはや元の俺の職場だけでなく、日本という国に疑念の目を向けてしまうな。
漂白剤をつけて何度も洗濯し直したあとに、全体に小麦粉をまぶしたくらいのホワイト企業である。
しかしそれに伴って問題が一つ浮上してきた。
これを言ったら笑われてしまうかもしれないが……実は、暇な時間をどう過ごせばいいのかが分からないのだ。
学生の頃何をしていたのかすら、もはや思い出せない。社会人になってからは暇さえあれば少しでも仕事を進めていたからな。
おかげでやる事がない時間や休日は、時間を無下にしてしまっているのだ。
例えば今、この瞬間俺は何をしているか。
……畳の目を数えてしまっている。
前職がニートだったと何故か自慢気にほざいていた新入りくんが昔同じようなことをしたと言っていた。
つまり今の俺はニートとなんら変わらないのだ。手に職を持っているが、休日はニートなのだ。こんなことがあっていいのか。
いや……まあいいのだろう。きっと休日とはそういうものだ。
一日中布団の中にいて、呼吸すら億劫にしながら死んだ魚のような目をたまに動かす。
そしてサザエさんを見ることに憂鬱を覚えるのだ。また明日から仕事が五日間もあるのかと知って、絶望する。
サザエさんやってないがな。
しかしその生き方は俺の性に合わないようだ。畳の目を数える無意味な作業も、ずっと布団から出ないことも正直苦になってしまっている。それこそ徹夜明けの仕事よりも。
では何をすればいいのか。
まあその答えをするする出すことが出来ればここまで長いこと悩んでいない。
なにしろ半年分の休日を全て費やしても分からないのだから、今日それを解明することが出来れば奇跡である。
とにかく少しでも体を動かそうか……。もうじっとしているのは耐えられそうにない。
ドンドンドンドンドン
ゾンビのように這い出る体に反応したのか、玄関が騒がしくなった。いや、ただの来客だろうが、それにしても五月蝿い。
どうやらインターホンのないこの国では普通のことのようだが。
「あー、今出ます」
ということで、だ。
来たのはお客ではなく、NILEだったようで、大きな段ボールが届いた。
ナイルとはこの世界での商品運送業者のことで、いってしまえば現世でいうアマ〇ンである。この世界にネットはないから直接カタログを見て注文しなければならないのが現世との相違点であるが……まあそんなことはどうだっていいんだ。
大事なのは配送された商品。
確か中身は……
「やっぱりか」
段ボールいっぱいに詰められた綿から出てきたのは、ゲーム機だった。
こんなものを触るのはいつぶりだろうか。どうしても暇の螺旋階段から脱却したくて、先週に購入したのを今の今まで忘れていた。
とりあえず起動してみようか。
これで半年続いた半ニート休日も終了を迎えるかもしれない。
どうやらテレビ機器(に酷似したもの)に繋げて遊ぶ機種らしい。
さっそく配線を繋いで──
「…………」
配線が無い……だと!?
ゲーム機からは一本たりともコードが伸びていない。それどころか黒い立方体が佇むだけで、起動のボタンすら見当たらないのだ。
説明書を読んでも専門用語が多すぎて理解できない。いや……もしかしたら一般的に用いられる用語なのかもしれないが、それでも前の世界には無かった概念なのだろう。
なんだよ無線LANって。
この説明書を理解するための勉強を始めれば休日の暇など吹き飛ぶかもしれない。
しかしそれじゃあ本末転倒だ。そもそもあまり身にならないことをやっても仕方ない。
今度ゲームに詳しい同僚に教えてもらうとするか……。
では今は何をするべきなのか。
結局振り出しに戻ってしまって、空虚な時間が過ぎていくだけである。目覚まし時計の音すらはっきり聞こえるほどに暇だ。
そうだ、外。
外に出れば何かしらすることが見つかるかもしれない。唐突に頭に浮かんだが、何故今まで気づけなかったのか。
この世界には転移してきたばかりだし、探検するにはもってこいである。
会社と自宅とを行き来するだけの生活を十数年続けていて、もはや外というのは移動する場所だと位置づけてしまっていたのかもしれないな……。
思い立ったが吉日。
普段とは違った気持ちで玄関のドアノブに手をかける。
まだ昼前だし、ブラブラと散歩するだけでも充分な運動になるだろう。
子供に言ったら怪訝そうな目をされそうなことだが、新しいと形容してもいい体験になんとなく心が踊っている。
なにしろ異世界だろ? 玄関から一歩踏み出すだけでも時分の脳みそでは理解しきれないことが沢山現れるかもしれないじゃないか。
意を決して片足を放り、見渡す。直後、何かが目に飛び込んできて、視界を酷く曇らせた。
何であろうか……水?
次の瞬間、狭い部屋を暴風が襲う。
ごうごうと音を立てながら、段ボールいっぱいに詰められていた綿が舞って、背中全体に張り付いた。
玄関正面に向かう体は、まるでシャワーに打たれたかのようにびしょ濡れになっている。
そうだ……ハリケーンが来ているのだった。何故だか雨音が聞こえないほど防音設備に優れたこの部屋が裏目に出てしまったようだ。
風圧に煽られて開きっぱなしになった扉を両手で懸命に引き、やっとのことで元の位置まで戻す。
くそ……なんて都合が悪いんだ。
この短時間でぐちゃぐちゃの新聞紙やら、大量の雨粒やらが侵入してきてしまった。
とりあえず片付けるとしようか……。
最優先は買ったばかりのゲーム機である。精密機械なのだから水には弱いだろう。ああ、こんなに濡れちゃって……。
しかしこれで片付けるという暇つぶしの名目が出来た。結果オーライとでも言うべきだろうか。いや、全く嬉しくないがな。
うわ……ゲーム機の底にチラシみたいなのが付いちゃってるよ。長い間雨に打たれていたのか、ふやけてほんんど読めなくなってしまっている――が、いや、まてよ……。
「内職……求人」
……おお、この手があったか。