5―1 主人公は誰に自己紹介をしているのでしょうか。
包み込まれるような、柔らかい感覚を受けるのと同時、キッチンの方から音が聞こえてくる。
トントントン、と何かを刻む音。
直後スープの様な、温かな匂いが鼻腔をくすぐる。
ぐっと伸びをし、隣に置いてある時計を見ると、その時刻は7時丁度。微かに開いた窓からは、気持ちのいいそよ風と明るい日差しか差し込んで来ている。
私にとっては近年稀に見る、目覚めの良い朝である。
しかし今はまだ、ベッドに戻って目を瞑り、寝たふりを続ける。
……何故かって? 簡単な理由ですよ。
「──あなた、朝ですよ」
透き通った声が耳の奥まで響き渡り、肩に感触を受ける。そして横目で長く伸びた指を確認し、待ち構えていたように上体を起こす。
と、そこは趣味の道具が沢山揃った、狭く小汚い部屋だった。
ベッドの横にある時計は、十時二十分。目覚ましの代わりにお腹がなりました。
──そう、今度こそ目が覚めたみたいです。
一人暮らしから脱却できなかったトラウマが、夢にまで出てきたみたいですね。朝から憂鬱な気分です。
***
「……らっしゃーせー……」
力ない店員の挨拶とともに入口が開き、入店を知らせる音楽が流れる。
深夜のコンビニ。
大学の卒業が近づいてきてから、毎日のように通っている。買う物は決まって栄養ドリンクと、チョコチップが練り込まれているパン。
警官が張り込みのときに食べるアンパンと牛乳みたいなものだろうか。味にも飽きてきたのだが、やはりこの組み合わせでないとしっくりこないみたいだ。
それぞれ二つずつ手に取り、レジへ向かう。
やる気のない店員が、欠伸をしながら品物のバーコードを読み込む。
そして僕は早々にコンビニを後にする。何一つとして代わり映えのない日々のワンシーンだ。
そんな繰り返しの毎日に僕は気が滅入っているようで、なんとなく思考回路が正常に働いていない気がする。
最近は特に酷い。卒業論文のテーマに『卒業論文を執筆する意義について』を採択しそうになってしまったほどにだ。それほどに筆が進まない。
こんなに不安定な基盤の上に感情を放っているからだろうか。今目の前でコンビニ強盗が銃を構えていても、鼓動が安定しているのは。
遥か遠くで罵声が聞こえる。意識はあるはずなのに、どこか他人事のようだ。
今店員に向けられている銃口が己に向けられたら、それは『非日常』なのだろうか。
……いや違う。コンビニ強盗に出くわすということ自体、銃の標的が自分にならないにしろ、既に非日常的な出来事だった。何故気づけなかったのだろう? そんな疑問を頭に浮かべながら出口に手をかけた。
「おい、動くなって言ってんだろ!」
銃の先がこちらに向けられる。
銃口は、まっすぐと僕の右胸を指している。
紛れもなく、数秒前に考えていた『非日常』だった。それなのに、やっぱり空虚なのだ。『非日常』を『日常』の一つの出来事として数えてしまっている自分がいた。
銃口を向けられても顔色一つ変えない僕を見つめる強盗は、酷く怯えた様子だ。当然だろう、目と鼻の先に死が見えるのに、それを恐怖に変換してくれない者が眼前に居るのだから。
引き金に触れている指が、震えている。圧倒的に優位な状態にある相手が、無力な自分に恐れをなしているのだ。
それが愉快な光景に映ってしまったことも、仕方のない事なのだろうか。
そんな余裕ぶった僕の心情は、直後、水をさされたように働かなくなった。彼の震える指は歯止めが利かなくなったようで、意思とは無関係に引き金を引いていたのだ。
弾が身体に届くより早く、銃声が鼓膜に到着した。弾が回転しながら腹部に向かっているのが見える。まるでそこだけ時間が止まったかのようだ。
そういえば、事故に遭う瞬間はスローモーションのように周囲がゆっくり動くように見えると聞いたことがある。それは本当だったのか、となんとなく感心。死ぬ直前なのになんて呑気なものなのかと、自分でも呆れてしまう。
ゆっくりと回る世界でとくに出来ることもなく、微動だにしない身体の中で唯一、眼球だけが自由に動いた。
ただぼぅっと距離を詰めてくる弾を見つめて追いながら、ふと視界の端に映るものが気になった。魔法陣……というものだろうか。切り絵のように細部まで凝られた模様となっていたそれは光源となっていた。だが、コンビニの入口の装飾として置いておくにはどうも居心地が悪い。
というか、こんなにも目立つものが側にあったというのに、何故気づかなかったのだろう。そんなにも意識が蚊帳の外にあったというのか。
そんなことを考えていながらも、また確実に、意識を周囲に向けられていなかった。気づいた時には既に、そこはコンビニの中ではなかったのだから。
薄暗く、どこまでも続いているような不思議な世界。そこには木偶の坊のように突っ立っている男が、一人だけいた。これから結婚式にでも出席するかのように思われるほど真っ白なスーツを着ている。
身体は自由に動く。つまり、スローモーションのような状態は終わっていた。ただ、思考回路はまだまともに働かない。いや、正常に働いていてもこの状況の理解は難しいか。
ただ一つだけ分かること、それは紛れもなくこの空間は『非日常』であるということだ。なんとなく動いていた心臓は脈を速め、頭にまで鼓動が響いてきた。この状況を、空間を、白スーツの男を知りたい。
「……成人済みですね。問題無しっと」
どこから取り出したのか、白スーツが紙の切れ端に万年筆でサラサラと書き留める。
「あの……今の状況、理解出来てますか?」
咄嗟に首を横に振るも、寧ろこの状況を理解できるやつがいるのかと、心の中でツッコむ。聞きたいことがありすぎて、なにから質問すべきかまとまらない。
やっとのことで言葉を捻り出した。
「えっと……天国? ですかここ」
「またそれですか。そんなに死ぬ間際に転移する人が多いんですかねぇ。あ、そういえば初セリフですね、おめでとうございます」
なんとなく答えをはぐらかされた気がする。でも今はそんなことより、突然のメタ発言の対処法を教えてほしい。
「……あの……それで質問の答えは……?」
「ああ、天国ではありませんよ。俗に言う、異世界というやつです。まあ私たちから見れば貴方たちの住んでいた世界が異世界にあたるわけですが」
淡々と話す白スーツに、なんとなく不信感と恐怖を拭いきれない。だが、それを遥かに越えていったのはやはり好奇心だった。
異世界という聞き慣れない単語。それを知っていること前提で話しているということは、僕が住んでいた世界でも一般的に知られた単語だったのだろうか。
「あの……異世界っていったい……?」
その質問に白スーツは少し驚いた顔をしたが、相変わらず冷静な口調を揺げない。
──かれこれ1時間は質問を続けただろうか。何度繰り返しても、新たな疑問が浮かんできてキリがない。
終わらない質問の嵐に、白スーツ(召喚士らしい)も段々とうんざりした表情になってきた。
「じゃあ……今ほかの国々はどうして……」
「……なんだか……直接見た方が分かってくれるような気がしてきました。小柴雄二さん、貴方を小説家として異世界に送ります。充実した異世界ライフを送れるよう、お祈り申し上げます」
素っ気なく返された返事だった。
僕が動揺するのと同時、黒で埋め尽くされていた室内は白く塗りつぶされる。
……眩しい。目が開けていられない。
「さっきも話した通り、どうせならバリバリ働いてくれる人をこの世界は求めています。貴方が転移するにしろ、卒業論文すら終わらせられないような軟弱な性では困りますからね。この世界の小説家として、課題を終わらせてください」
聴覚のみがはっきりと働く光の中、聞こえてきた言葉は助言とも罵倒ともとれないものだった。
白かった世界が、再度黒く厚塗りされる。ただ、さっきよりも少しだけ白が混ざっているようだ。一時間もあの場所にいたせいか、光の強さに敏感になっているのが分かる。
恐る恐る目を開くと、そこに白スーツの姿や、どこまでも続くような暗い空間はない。……狭っ苦しい部屋だった。部屋の面積の大部分を占めた本棚には、所狭しと様々なジャンルの本が並べられている。向かい側には大きめの机。
なんだろうかこれは、机の上に四角い機械が置いてある。クレーン車のように土台から伸びた柱には、万年筆がぶら下がっている。恐らく元いた世界にはなかったものだろう。形状から文字を著すものだとは推測できるが……。
さて、どう使ったものか。
疑問は潰えるところを知らないようだ。
「いやー、使い方が分からないんじゃあ書きようがないなぁー。うん、これは仕方がない」
誰もいない部屋の中でわざとらしく声を出し、床に寝転がった。