今宵までははいつもと同じだった
1990年4月の半ば、花見のシーズンが終わって、
次に控える5月の大型連休に向けて、みんなの気持ちが移りつつあった。
そんな中、東京都内にある静かな住宅街には、気圧の谷が接近したのか
この日は午後から雨が降り始めていた。
その住宅地に囲まれた小さなタイ料理店「曼谷食堂(バンコク食堂)」では、
いつものように一人の日本人の男がテーブル席の前に片手で持つことができるほどの
小さなピンク熊のぬいぐるみを時折眺めながら静かに仕込み作業を行っていた。
男の名は、大畑健一27歳。
2つ年上の妻と3歳になる息子の3人暮らしであった。
「今宵はこのまま雨模様のようだなあ。店の前の桜も散ったし、この雨じゃちょっと気分が冴えないなあ」
ぶつぶつピンクの熊を眺めながら、独り言をつぶやいて作業をしている健一に声をかける女性がいた。
健一が振り向くと妻の千恵子であった。
「ああ、千恵子。スーパーのアルバイトお疲れ様。今夜もこの後はスナックなのか」
健一の呼びかけに千恵子は首を横に振る。
「ううん。今日は休みになったよ。お店の都合で「休みにしてほしい」とさっき電話があったわ。
健一は、ちょっと安心した様子で。「そうか、最近疲れているような気がしたからちょっと
心配していたんだ。今日はゆっくりしたらいいよ。店自体はちょうど定休日だし
仕込みもこのあたりで切り上げるよ」
店は、昨年の6月に開業。健一が一人で10坪程度の小さな店の運営を行っていた。
だが、開業以来思うように集客に繋がらず、悩みながらいろいろと試行錯誤を
繰り返している日々であった。
その為、とても店の営業だけでは生活費を賄う事が出来なかったので、
開業当初から妻・千恵子が昼間にスーパーのパートで働くことで、
どうにか生活のやりくりをしている状態であった。
しかし、開業して半年経っても、店の営業状態が良くなるわけでもなく、
逆に当初の運転資金が目減りし、徐々に資金繰りにも支障をきたし始めてきた。
どうにか生活を切り詰めてきているものの、昨年の暮れには、
ついに家賃などの毎月の固定費の支払いなどにも影響が出始めていた。
だが、かつて自らがタイに渡航して感じた想いが強くて夢と希望を胸に開業したこの店。
「タイ料理店を開店して、みんなにタイ料理を広めて必ず成功させたい」という
健一の想いをよく理解していた千恵子は、パート先で知り合った人の紹介で、
昼だけでなく、夜もスナックのバイトを年明けの1月から始めていたのであった。
「健一、心配ないって。確かに最初は慣れなかったけど。最近ようやくなれてきたのね。
毎日くる常連の根っからの「野球のスワローズファン」とかいう酒臭い親父の相手も
ようやく楽しくなってきたわね。たまに『鬱陶しい』と思うこともあるんだけど」
と千恵子は笑うが、健一から見れば、その千恵子の笑顔が無理しているように見えて仕方がない。
「そうだ、千恵子。今日の作業はここでやめるよ。
ちょっと早いけど今からゆっくり2人で、ご飯を食べながらお酒でも飲まないか?」
「いいわね。そういう時間最近なかったから。じゃあ、預かってもらってる泰男をつれて帰ってくる
ついでにちょっと着替えて戻ってくるわね」
健一の提案にうれしそうな千恵子は、先ほどの笑顔とは明らかに違っていたのだった。
キリのついたところで健一は、賄い用の料理を作る。
1時間ほどして、眠っている泰男を抱いた千恵子がちょっと着飾った格好で戻ってきた。
その中には健一が初めて千恵子にプレゼントしたピンクの髪飾りもつけてきた。
「泰男は、ぐっすり眠っているから、そこのソファーに寝かせておいたわ。
ちょっと早いけどはじめましょ」
客席のひとつにすでに料理とワイン。それから普段は窓においてある
ピンクの熊をテーブルの上に置いていた。
健一は、ワインの栓を抜いて千恵子に注ぐ。
「では、お疲れさん」「久しぶりねえこんな時間」と2人は目の前の料理を
ゆっくりと食べていく。「このピンクの熊とも長いわね」
「そうだねいつも俺たちのことを見守っているみたいだ」そういいながらピンクの熊を
二人同時に撫でるのだった。
食事が始まって1時間近くたったときにちょうど酔いも回ってきたところで
千恵子が意味深なことを話し始めた。
「健一、この話覚えているかなあ。あのソウルメイトの話」
「ああ、知っているよ。いつも聞いているから」健一は千恵子からこの手の話を
結婚する前から何度も聞いていたので、特に気にすることなく答え、ワイングラスを口に近づける。
しかし次の一言でよいが少し覚める。
「そう、じゃあ例えばどちらかが先に死んだとしても、いつも一緒だよね」
「え!突然何を言い出すんだ?滅相もない」
あわててワインをこぼしかける健一を見て笑う千恵子。
「ごめんなさい。ちょっと酔ったから変な事言ったかしら。だって私たちはもともと同じ魂だと
思うから」「ち・千恵子びっくりする事を言うから、何か病気でも見つかったのかと思ったよ。
だから、それはもちろんだよ。俺だって最初に会ったときから君を見て懐かしい感じがしたんだから。
でも、冗談でもそんな事いわないで。というより泰男がかわいそうじゃないか?片親しか
いない子供なんて」
あわてながらも冷静になって説教じみた話をする健一に千恵子の笑いは少し収まった。
「ありゃ。ごめんなさいね。でもその気持ちだけ確かめたくて。最近こうやってゆっくり2人で食事を
する機会なかったから。そう私たちには泰男がいる。彼の成長を見届けなくてはね」
といいながら、子供のような笑顔を健一に見せる千恵子であった。