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孤児院に向かう。今日からこれが俺の日課になる。
先輩の言う優さんは、ここのシスターだった人らしい。
今は使われなくなってしまったこの教会の土地を借り、孤児院を経営している。
協会の一階スペースにある居住空間、ここが孤児院として使われているらしい。
木製の大きな玄関を、恐る恐るノックをする。
「おじゃま、します…」
「好きに上がってくれていいから」と言った先輩の言葉を信じ、俺はメモに書かれた通り廊下を進む。
突き当りを曲がると、ふと視線を感じたような気がして後ろを振り向いた。
丁度俺の後ろに面したドアの向こうから、中年の女性がこちらを見つめている。
「あの……」
声をかけようとするが、彼女はそそくさと奥へと入って行ってしまった。
この人が、優さんか?
……大切な家族をあんな目に合わせた人間と会話なんて、したくないのだろう。
「やあ、よく来たね」
指示された部屋に入ると、先輩がベッドサイドのパイプ椅子に腰かけたままこちらを振り向いた。
「これからここがキミの仕事場だよ」
「僕は、バイトがあるからもう行かないとだけど……もうすぐ看護師が来る頃だから、詳しい話はそっちで聞いてね」
先輩は腕時計をちらりと見て、よいしょと立ち上がる。
傍に置いてあった鞄を荒々しく持ち上げる姿は、少し焦っているように見えた。
「ああ、2階の礼拝堂には近寄らないでね。あそこは優さんの部屋だから。優さんが嫌がる」
「1階の出入りは基本的に自由だから。暇だったら子どもたちとも遊んであげて」
さっき優さんらしき人に会ったことは言うべきなのだろうか。
一階でも彼女に会ってしまう可能性があるのなら、あまりこの部屋からは出ない方がいいかもしれない。
「じゃあくれぐれも、僕たちのヒロを――これ以上傷つけないでね」
よろしくね、とでも続くかと思った言葉は、途中で刺々しいものに変わる。
名残惜しそうに齋藤を見てから、先輩は足早に去って行った。
*****
「筋肉が落ちたり、固まってしまって動かなくなるんだ。だからこうやって――人の力で外から運動させる」
「これによって血の巡りもよくするんだ」
齋藤を寝かしたまま、腕や脚をベッド上で曲げ伸ばしさせる。
その動かし方、言葉の一つ一つを俺はメモ帳に記録していた。
「真鍋くんは勉強熱心で助かるよ」
訪問看護ステーションからやってきた伊豆健太郎という看護師は、20歳そこらの男だった。
手伝いにやってきている友人――という名目の俺に、嫌な顔一つせず丁寧に日常の世話の方法を教えてくれるいい人だ。
「友達思いだな」
「……。そんなこと、ないですよ。…伊豆さん、続き」
「ははは、照れ屋だなぁ」
「それでな、褥瘡…ってわかるか? 圧迫されて皮膚組織とかが死ぬ、いわゆる床ずれのことなんだけどな」
「これを予防するために、最低でも3時間に1回は体勢を変えてやらないといけない」
そこで――と、伊豆さんはベッドの上に無造作に置かれていた三角形のクッションを手に取った。
「これを背中に挟む。これで片側がベッドに接してない状態で安定するだろ? これを3時間ごとに左右入れ替えてやるんだ」
「身体を拭くのは…二日に一回でいいかな。これはオレと二人でやろう」
「いいか? 一人でやろうとするなよ。意識のない人間は重い。どんな事故に繋がるかわからないからな」
「わかりました」
さっき少し体を動かすのを手伝わせてもらったが、俺と対して体格の変わらない齋藤を一人で支えるのは難しかった。
服を脱がして身体を拭くなんて、絶対に無理だろう。
「あと、これ」
伊豆さんが齋藤の腕から延びる点滴を指さす。
「これはオレが取り換えにくるから、変に触らないように」
「はい」
人の力を借りなければ重要なことは何もできないのだと思うと、歯がゆく思う。
「何より大事なのは、声をかけながら…気持ちを込めて関わることだよ」
「意識がなくたって、声は聞こえてるし、触られてることも感じてる。きっとこの子も、それに応えてくれるから」
本当に、そうだったらいい。
俺にできることなら、何でもしようと思った。