20
目が、覚める。
屋上から見える空はバリバリと音を立てて砕け、耳をつんざくその音に手を伸ばす。
ヂリンッ
蝉の悲鳴ような音を立ててそれは床にたたき落とされた。
空の割れ目から光が漏れ重いまぶたを押し上げると、ベッドの上、自分の腕が伸びているのが見える。
(ああ、汚い手だな)
俺は中学生に戻れてなんかないのだという現実を思い出した。
ああ、幸せな夢が夢のまま霧のように散っていく。
(行かないでくれ)
幸福に縋るように目を閉じ夢に思考を巡らせる。
そうすると、ただほんの少し思考の蔦に引っかかった夢の一部が俺に違和感を伝えてきた。
「……俺は…尋人のことが好きだったのか?」
恋愛的な意味で? まさか。
『好き』ではあった。『好きだ』とも言った気がする。
でもそれってそういう意味か?
結局俺は就職も進学もしなかった。かろうじてバイトは惰性で続けている。
あとは先輩から通帳に振り込まれてきたバイト代でなんとか食いつないでるぷーたろう。本当にろくでもない。
結局あの家族は俺の貯金に一切手を付けてくれてなんかなかった。
……今となってはもう、どうでもいいことだ。
終わらせてしまえばいい。そう思う。
なのに……俺はいつものように、この地獄を終わらせることができない。
あの時、あの瞬間から。ずっと優さんの言葉に縛られている。
『あなたの人生を大切に生きて』
俺は今俺の人生を大切に出来ているか?
少なくとも自分から死ぬことは選んでいない。優さんが見ているようで、とても選べなかった。
だが今日もまたろくでもない男のろくでもない生活が始まると思うと気が滅入る。
どういう風に道を進めば自分の人生を大切にしているということになるんだ?
もう、考えたくない。
二度寝のためにさして柔らかくも無い枕に顔を埋めた。
ピンポンピンポンピンポーン
「いつまで腐ってるつもりだよ一弥ぁ」
けたたましい呼び鈴と共に、ボロアパート全体に響き渡るような低音が騒音をまき散らす。
「うるさい……近所迷惑……」
寝起きにこのテンションを受け止めるのは酷く苦痛だ。枕に顔を押し付け布団を頭を覆うほどかぶせる。
「ぷーたろうのお前のためにこの健太郎様が仕事を取り付けてきてやったぞー」
「……ぷーじゃない。ちゃんとバイトしてる…」
拒否を体全体で示すように布団の中で体を縮めたその時だった。
ダン とこれまた酷い音が鳴る。健太郎が鍵のかかっていない玄関を開け放った音だろう。
「定職ついてないやつはぷーで十分だ」
決して大きな声を出していたわけではない、ましてや布団にさえぎられた俺の声をしっかりと聴きとっていたらしい。聴力に驚くべきなのか、それとも壁の薄さを嘆くべきなのか。
「……」
とにかく健太郎が全国のフリーターを敵に回す発言をしたのは聞き捨てならなかった。とはいえ反論のしようもないのだが。
我が物顔で座布団を取り出した健太郎は何の躊躇も感じさせず俺の枕元に座った。自然と見下ろされる形になり、いささか不快だ。
きっとわざとしているのだろう。
「二度寝の準備は既に整っている。あとはこのくそ近所迷惑な男が立ち去れば完璧なんだがな」
口をついて出た罵倒をまるでものともせず、健太郎は至って平然としている。
思い通りに動かされるようで少しばかり不愉快だが、しぶしぶと起き上がり胡坐をかいた。行儀は悪いがそれを気にする仲でもないだろう。
「で、仕事なんだがな」
こちらの一連の動きを見ながらニコニコとしていた健太郎は、俺がたたずまいを正し終えたのを察すると耐えきれないように勢いよく切り出した。
「なんとなんと看護助手だ!」
「……看護…」
「どうだ? 一弥の特技を活かしつつ資格も特に必要ない夢の職業だ。今なら優しい看護師の先輩付きだぞ」
「……」
いつかそういった話を持ってくるんじゃあないかとは思っていた。だが冗談ではない。
「俺は尋人以外のやつの世話なんか御免だって言ったはずだ」
違う、これは建前だ。
あの日々を思い出すようなことはしたくない。
辛かった。
楽しかった。
目的があった。
希望があった。
生きている実感があった。あの日々を。 ――――それが本音だ。
うつむき かぶりを振った俺に、健太郎はどう思っただろう。
俺の本当の気持ちを見透かしているではないのか。不安になる。
「何だよ随分熱烈な告白じゃないか」
「………は?」
健太郎は笑顔を少しも崩していなかった。
その言葉は、本心からのものだろうか。 いや、たちの悪い冗談だろう。
混乱する頭とは別に、口が動く。
「……告白だ?やめろよ男同士で。気持ち悪い」
思わず出た言葉だった。今朝の夢を見透かされているような、頭の奥底が擽られるような気持ち悪さと焦りが出させた言葉だった。
「……」
健太郎が表情を崩した。軽蔑、したような目で。こちらを探るように見てくる。
やめろよ、なんでそんな目で俺を見るんだ。
しばらく、いや、特筆するほどでもない短い時間だった。俺をジ と見ていた健太郎の視線が外される。
いつの間にか冷えて強張っていた肩の筋肉がストンと落ちた。
そんな俺の前で深い息の音が漏れる。発信源は一人しかいない。
「……お前さ、齋藤くんのこと何にも見えてなかったんだな」
「見てた!……ずっと。健太郎こそ、何見てたんだよ」
聞こえた言葉に思わずカッとなった。あの時間が、自分の努力が否定されたようで。
「…見てた、なぁ。……お前はずっといなくなった『尋人』を見てたただろ?」
「……そんなこと」
ない、とは言えなかった。
尋人と齋藤。それを別と見るなら。確かに俺はあの後の齋藤に関心を持てているとは決して言えないだろう。
だって――違う。齋藤は尋人とは違う。あのかっこよかった尋人と、なよなよしてただ文句をいうだけだった齋藤をどうして同じに見れるというんだ。
「故人のことをあーだこーだ言いふらすのは良くないとは思うけどさあ……このままじゃ齋藤くんがあんまりに不憫だ」
「オレの友人のせいで浮かばれないとかオレも目覚めが悪いしな、うん」
健太郎はひとしきりしゃべるとうん、と頷き俺の目をじっと見つめてきた。
睨むように。しかたないな、と笑うように。
俺には兄弟がいないから分からないが、弟を叱る兄ってのはこんな顔をするのかもしれない。
「齋藤くんはなぁ、努力してたんだぞ。どうやったらお前に見て貰えるか、どうやったら記憶のないときの自分に近づけるのか」
「記憶のなかったときの自分のことを、皆に聞いて回ってたんだ」
知らなかった。
そんなこと誰も言わなかった。先輩も、子供達も、……齋藤も。
「オレも気になってな、何でそんなに必死なのかって聞いてみたんだよ」
「聞きたいか?」
「……聞きたくない」
いやだ
いうな
知りたくない
「好きだったんだと」
「苛めに荷担しなかった一弥が、何年も見捨てず世話してくれた一弥が。好きになったんだと」
「どっちの意味での好きなのか、本人にも分かってないみたいだったが……オレにはあれは恋してる人の目に見えたなあ」
俺にとって尋人は特別で、きっと尋人にとっても俺は特別だった。
齋藤は?齋藤は俺にとって……邪魔者。俺はただひたすら尋人に帰ってきてほしかった。俺の、友人に。
「そ、んな」
馬鹿なこと。と一蹴できたらいいのに。
「待ってくれ。俺も齋藤も男だぞ?なんでそうなる」
認めたくない頭の熱を持ったところが口を乱暴に動かす。
「そりゃあお前……自分が齋藤くんの身になって考えてみろよ。苛められて自殺未遂した状態で?家族以外で唯一自分に親切にしてくれた人だぞ。しかも利益0。何年も何年も毎日だ」
「しかたないんじゃねえの?」
「そんな、こと……」
そんなこと、知ったこっちゃない。努力の方面間違えてるだろ。なんだよ。
こんなの知ってどうしろってんだ。……知りたく、なかった。
違う。……ずっと気付かないふりをしてたんだ。齋藤から向けられる好意に。
確信なんて持っちゃいけなかった。
酷いことをした。好意を向けてる相手に冷たくされるのはどんな心地だっただろう。自分の幻影を追い続けるのを見て何を思っただろう。
応えられない。否とも然りとも。
《後から知る恋心ほど重くてやり場のないものはない》
どこかで聞いたような一節が脳をよぎる。ふり払うように頭を揺らすが、それは粘く纏わりついて離れなかった。
…
………
いや、
……でも、待ってくれ。
“後から知る”恋心じゃなければ?
「なぁ、健太郎」
逸る心が声を押し出す。
「ん?」
「もしも、…もしも、だ。失敗を無かったことに――いや、失敗を踏まえてやり直せるとしたら」
「自分も、他の人も幸せになれる道があるとしたら」
「それを選ぶことって間違いだと思うか?」
脳に浮かんだ言葉がポロポロと漏れる。決壊したダムを思わせる感覚。
良い考えを、素晴らしい思い付きを、今すぐ人に聞いてもらいたい。子供のようなそれだった。
明らかにそれまでと勢いを変えた口調にか、挙動にか、健太郎から訝し気な目が送られる。
「……お前がどういう意味でそんなことを聞いてるのかは分からないけどさ、死んだ人はどう頑張って帰ってこないんだぞ」
「…やり直すってなんだよ。人生をか?」
口を開いて出たのは俺の予想に反し否定の言葉だった。考えてみれば当たり前だ。
健太郎は知らないのだから。
イエスともノーとも言わずただ目線のみ合わせる俺に焦れてか、たっぷりの沈黙の後健太郎は小さくため息をついた。
「なんか、さ。勿論全部忘れて、あったはずの縁っていうか…こう言うとクサいけど『絆』っての? それを全部捨てて新しい道を進むのもまぁ、一弥の自由さ」
「過去に囚われずに前を見るってのはいいと思う」
戸惑うように出されたその一連の言葉の後、ふ と笑う。ついさっき兄のようだと思ったあの顔だ。
馬鹿なことを言ったとしても「仕方ないな」と、それで許されている。そんな安心感を感じさせるこの絆は確かに大事にすべきものなのかもしれない。
「でもな、お前がずっと分からないって言ってる『自分の人生を大事にする』って、そういうんじゃないと思うんだ」
「人との繋がりは自分を強くする。人を大事にすることはそのまま自分を大事にすることに繋がるんだ。オレはそう思ってるよ」
「失くした信頼だって努力次第で戻ってくる。きっと。あの人たちも分かってくれるさ」
「だから一緒に頑張ろう、な?」
目の前は見慣れた健太郎の節くれだった手。俺はそれが暖かいことを知っている。
他人の事を心底想って、助けるための手だ。
……健太郎はきっとこの生の中で最良の道を示してくれている。
でもな、違うんだ。そうじゃないんだ。
それじゃあ尋人は幸せになれない。優さんも先輩も、俺も。
健太郎にだってこうやって迷惑をかける。
絆を失う?どうせ俺がこの生で作り上げた縁は負のものだ。惜しくなんかない。
作り直すんだ。もっと、もっとよい絆に。
「……ありがとう」
俺は笑って差し出された手を取った。
俺にはそれができるんだから。