聖女奪還作戦
全速力で駆けること5時間。ついに、パラディオ軍の拠点の一つが見えてきた。
土塁が積まれ、高い壁により囲まれた堅牢な要塞だ。周囲からは多くの魔力源が感じ取れる。罠も仕掛けられているとみていいだろう。
だが、天駆けるソラには何の意味もなさない。とは言え、要塞に侵入する前に、一度休憩を挟む必要があった。体力的にでも、精神的な意味で必要なわけではない。その部分はまだまだ余力があった。
パラディオン軍後方からの奇襲とその後のアイザックとの対峙、ここまでの移動と魔力を使いすぎたのだ。莫大な魔力量を誇るソラから言えば、言うほど多くの量を消費してはいない。ソラの患う病、黒恵呪の進行が著しいのだ。今回は量より質を優先して行使したせいか、進行が速い。
一度足を止めて、治療をする必要があった。唯一光属性を扱えないおかげで、専用の魔道具に頼るほかなかったが、無いよりは幾分か良い。
柔らかな白い光を放つ十字架に、丸い宝石、さらに聖遺物と称される白い布きれを患部に押し当てると、すぐに黒く染まり、役目を果たしたそれらは崩れていく。
黒く染まった部分を直視してため息が漏れた。
左胸から広がった黒い痣は治療後であるというのに、左胸とその裏側肩甲骨の辺り、さらには左腕の肘まで侵食していた。全体から見ても、まだ一部分であるが、これ以上広がれば、その傷跡は目立ってくるだろう。そして、ある一定以上まで侵食が進むと、その進行速度は加速度的に増していくとされている。
魔力を使うのは控えた方が良い、そう思いつつも、成宮を取り戻すためならば、その行使に躊躇うつもりはなかった。
木陰から姿を現すと、別の陰に隠れて移動する。この辺りから哨戒行為をしている敵兵の数が急激に増えている。
歩哨は必ず二人一組以上で行動しており、迅速に始末するか、両方に見つからないように潜入せねばならない。
それに敵の視界にさえ入らなければ良いという問題でもない。
パラディオン軍は獣人として、獣の部分の特性が顕著な人種である。それゆえに、匂いや音にも気を付けなければならない。つまり、この時点で風魔法で常に身体を覆うように膜を作らなければならず、魔力の行使を強いられていた。
一瞬一瞬の隙を突いて、着実に近づいていくが、ソラの前には高い壁が立ちはだかる。だが、躊躇うことは許されない。
瞬陣を使用して、誰の目にも止まらぬ速度で潜入を果たした。物陰に身を隠すのと、兵士が談笑しながら通り過ぎていくのは同時だった。
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、今度は歩哨が近づいてくる。とは言え、拠点であり、ユトピア軍からは離れた場所に位置していることから、彼らの態度に真剣さは感じられない。
魔法で他の要素を排除しているため、視界にさえ入らないようにやり過ごす。
そうこうしている内に、要塞の外周を突破した。ここで一度小休止を取った。匂いを気にしなくていい、食糧庫に身を隠したのだ。
この要塞の構造として、周囲を取り囲む外壁には高所砲台兼哨兵としての魔導士が陣取り睨みを利かせている。要塞内は歩哨が巡回しており、さらに、その任に就いていなくとも、敵兵士が多く屯する場所では心休まる場所というのは少ない。
(やはり、油断があるのだろうな。質は高くないのが救いか)
そう結論付けると、収納袋から水を取り出して、渇いたのどを潤した。
パラディオン人は魔法を扱う素養は低いが、代わりに魔力に対する察知能力は高く、魔力の隠ぺいもしなければならず、流石のソラでも疲労の色が見え始めていた。
腰を落ち着けてしまったことで、更なる休息を身体が求めるが意志の力で抑え込む。
時間にしてきっかり10分。休憩を打ち切り立ち上がった。
そして、一つの賭けに出た。
ソラは地王竜を倒して、魔王の称号を得たわけだが、その際に地王竜の力を吸収している。それは土属性魔法の強化や質量・密度の操作だけではない、地王竜の眷属、地竜の使役能力も引き継いでいた。
ソラが発した竜にだけ聞こえる特殊な音波と魔力が大気を奔った。
(布石は打った)
ソラは一気に要塞の中央部を目指して、駆け抜けた。
敵の喉を掻っ切り、隣の兵士の胸を刀で突く。さらに、闇魔法を流し込み、血の一滴すら残さず消し去ると、奥へと進む。
優衣の魔力にだんだんと近づいていく。彼女が連れて去られただけあって、中央には多くの負傷兵が横になっている医療施設が存在していた。
無情にも、治療をしている医師や、ソラを視界に入れそうな患者の命を奪い去る。
ただ無心で走り抜けた。
賭けの成功を知らせる合図を知る。要塞の至る所で悲鳴が上がったのだ。
それは地竜の出現を知らせ、多くの兵士が武器を持って、現場へと向かっていった。
そして、ついに見つける。
優衣は無理やり連れてこられたのだというのに、太陽のような笑みをたたえて、懸命に治療にあたっていた。彼女が治療していたのは金色の若獅子。幸いにも獅子は安らかな顔で眠っていた。
故に、優衣を見張る兵士と医師だけを斬り捨てた。
血塗られた刀を仕舞うと、優衣の目の前で膝を着く。黒い手袋を着けた右手をゆっくりと差し出した。
「遅くなった」
優衣は目元に浮かんだ涙を拭うと笑顔でうなずいた。
「待ってた。来てくれるって信じてたよ」
ソラはそっと抱き寄せた。優衣の身体は小刻みに震えていた。心細かったのだろう、助けてと叫び逃げたかったのだろう。耐えきった優衣のは身体は細く小さかった。
聖女は魔王に寄り添いながら立ち上がった。
混乱の渦中にある外壁を険しい表情で見つめる魔王の横顔は愁いを帯びているように見える。一瞬で、躊躇なく人を殺した魔王は強く、恐ろしい何かへと変貌を遂げているかと思えば、何も変わっていなかった。
その事実を感じ取るとクスリと笑みを零した。それを見たソラはいつものように嫌味を言うのだ。
「この状況でよく笑えるな。相変わらず能天気だ」
「む、空君こそ相変わらず不愛想だよ! こんな時くらい気を遣ってくれたっていいんじゃない?」
不満を言い合う二人の表情は言葉とは裏腹に柔らかく、微笑んでいる。互いの無事を喜び合っているのだ。
「気を遣って、急いで来てやっただろう? これ以上、どう遣えと?」
「それは嬉しい。嬉しいんだけど、そうじゃない! もっとこう、やりようがあるでしょ!」
軽くあしらわれ地団太を踏む優衣を見て、自身の思いに気づいた。今は微かな思いだとしても、捨てたくはない大切な感情だ。
さらに、強く抱き寄せた。
「え? ちょ、ちょっと! 嫌じゃない、嫌じゃないけど、もうちょっとムードが。って、きゃああぁぁぁっ」
優衣の声を無視して、宙に舞い上がる。さながら、ジェットコースターのような速度で駆け上った。
吹き付けていた強い風が不意に止む。優衣を気遣ったソラが魔法で無くしたのだ。
次第に、周りを見渡すという余裕が優衣に生まれる。
暴れ回る地竜が要塞を砕き、多くの兵士をなぎ倒している。その中には治療したばかりの者も混じっているかもしれない。そう思うと胸が苦しい。
「あの竜たちは俺が呼んだ」
淡々と出来るだけ感情を込めずに、事実だけを伝えられた。ハッとしてソラを見上げると、細められた瞳はその現場を直視ししていた。自分がやったことを消して忘れないように、その業を背負うために。
「私も空君が感じる重荷を一緒に背負うよ。そうじゃないと、寂しいよ」
「そうか」
風切音だけが、二人の間に流れる。だが、そんな沈黙でさえも心地よく感じた。
物怖じ一つしない優衣に惹かれている。そう確信して問題ない。しかし、それを伝えることは出来ない。初めて心奪われた存在に拒絶されたくない。臆病なソラが顔を覗かせていた。
このまま逃避行が成功するかに思われたが、ソラたちを追うように、鋭く重い殺気を放つ存在を5つ感じた。
「追ってきたか」
そのうちの一つはアイザックのものだと分かった。後ろ振り向かず、高度を維持しながら、引き離しにかかる。
空に放たれた魔法の数々が、ソラを捉えんと迫る。
下に目を向ければ、地面を抉り、木々をなぎ倒しながら回り込もうと猛追するアイザックが走っていた。それだけではない、後ろから放たれた高速の矢が頬をかすめた。ソラと同じく飛んでいる。
矢に気を取られたその一瞬、ソラたちを黒い影が覆った。
「チッ、捕まれ! 降りるぞ」
太陽が見えなくなるほどの物量で降り注ぐ黒炎の雨。流石のソラでもこれらを躱しきれるほど自在に飛べるわけではない。
腕の中にいる優衣を強く抱きしめる。振り落とさないし、傷一つ負わせない。そんな決意とともに急降下した。
頭から真っ逆さまに落ちるソラはアイザックを目指した。アイザックからは多大な魔力の反応を感じていた。彼がこの現象を引き起こしていることは明白だった。
二人の距離はみるみる縮まっていく。魔剣、黒天を抜くのとアイザックが抜刀したのは同時だった。
急降下によって得た力を余すことなく全て刀からアイザックへと伝えた。
触れ合っただけで、アイザックの剣が砕け散り、それだけでなく彼自身もまた吹きとんだ。
後続からの追ってとは多少距離があるが、追い付かれるのは時間の問題だった。
「仕方ない」
優衣を胸に抱いたまま、土煙の中で起き上がるアイザックに斬りかかる。予備の剣を抜いた、アイザックがソラを迎撃した。
二人の力は拮抗していた。以前対峙した時、ソラによって片腕を無くしている状態であってやっと互角に持ち込めるのが、この獄狼、アイザックという男だった。
鍔迫り合いで至近距離の睨み合いでの最中、アイザックは鋭く大きな歯を剥き出しにして嗤った。
「あの時とは逆だな。どうだ、足手まといを背負いながら闘う気分は?」
ソラは不快そうに顔を歪ませると、刀を握る手に力を込めた。
「ふん、御託を並べる暇なんてあるのか?」
急激な力の加減により、アイザックの体勢を僅かに崩すと、蹴りを放った。
だが、体術では人間よりも獣人の方が数段優れている。片膝を上げて、難なくガードすると、そのまま押し返した。
距離を取ったソラに追いすがるアイザック。彼の切っ先はソラだけではない。ソラが抱える優衣にも向けられている。だからこそ、ややアイザックが押していた。
だが、瞬陣状態のソラの速度についていくためには、それ相応の代償が必要である。アイザックの身体は沸騰しそうなほど熱い。命を燃やすに等しい行為だ。アイザックの代名詞とも呼べる、黒い炎、獄炎で内側から燃やし、身体能力の大幅な強化を行っていた。言うなれば、筋力を強化する鬼動術の上位互換である。だが、この系統の術は短時間の使用が推奨されている。それは身体への負担が大きすぎるからだ。だからこそ、ソラは瞬陣で軽身術と鬼動術を絶えず切り替えているのだ。
このまま戦闘が長引けば、ソラに軍配が上がる。だが、それは個人戦で見ればだ。あと少しで、パラディオ軍でも有数の実力者たちが追い付く。そうなれば。いくらソラといえども分が悪い。
アイザックの思惑通り、短期決戦を挑む他なかった。
優衣への執拗な攻撃を防ぐため、手数を重視した反撃を強いられていた。しびれを切らしたソラが新たな切り札を魅せた。
黒天から溢れていた赤い豪気が黒く染まる。ソラの闇魔法がその刀身を覆ったのだ。
「消えろ、剣逝」
様々な属性魔法を組み合わせるソラにしては珍しく、闇魔法の特性のみを極限まで引き上げた一撃だ。
闇魔法の特性は侵蝕。その効果は猛毒の類だ。
防御不可の死の一撃。
黒い死神の手がアイザックに伸ばされた。
高密度の魔力が込められた刀身に全身の毛が逆立った。半ば本能的に、剣を引くと大きく後退して距離を取った。
「外したか」
一つの属性を込めているだけであり、その属性が闇ということもあり、魔力の消費、威力の面からみてもこの技は優秀だ。維持するのは容易であり、高火力を誇る。難点は、付与できる武器が限られるという点と、攻撃範囲が狭いということか。
離れた距離を埋めるように前に出る。
アイザックは逃げる。あの刀に触れるのは危険だと警鐘が鳴り続けているのだ。
距離が着々と狭まる中、ソラはアイザックにより誘われていた。
ソラの足を止めるように、優衣を狙った矢が背後から放たれた。
それを超人的な感覚で、振り返りもせずに躱すと、舌打ち。後続の敵兵たちが追い付いていたことに気づく。
ピタリと歩みを止めて、相手の出方を窺うソラ。そんなソラを警戒して、動けずにいるアイザックたち。膠着状態に推移しつつあった。何かのきっかけで爆発しそうな爆弾のような緊張感をもって、互いに隙を探り合っていた。
沈黙の中、優衣は思考した。
(空君に手を貸すのは邪魔になりそうね)
冷静に戦力を測る。そして、悔しいが自分がソラの足を引っ張っていることに気づいていた。今できるのは、少しでもソラが有利になるように思考を巡らせることだけだった。
(後から、追い付いてきた人たちは、このアイザックって人より弱いと思う。
最善策は私が空君の邪魔にならないように離れることだけど、それを見逃してくれるはずもない。
あーあ、ダメ。せっかく会えたのにいきなり足を引っ張っちゃうなんてね)
ただ不思議と安心感があった。それはソラに包まれているからだろうか。人一人抱えてなお遜色ない動きを目にしているからだろうか。どちらにしろ、ソラならばどうにかして、重荷を背負った状態でも撃退できると、信じていた。
だが、それを優衣は望まない。
(負んぶに抱っこっていうのもねえ。この人とは対等でいたい。同じ目線で見ないと、理解できないだろうから。
だから、私は私の出来る精一杯のことをする)
優衣は身を捩って、地面に降り立った。それはさながら天女が降臨したかのように、白い衣をはためかせる。
胸を張り、凛とした表情で声を発した。
「後ろは護る! だから、空君は――」
優衣の動きが膠着状態の終わりを告げた。
言葉の途中ですでに全員が動き始めていた。
一瞬のうちに、陣形を整える敵に優衣は驚いたものの、焦りはしない。自分の実力を考えた上でこの戦いに勝利をもたらすことができると確信していた。
優衣の持てる手段は二つ、光魔法による治療と盾。それだけだ。だからこそ、分かりやすく作戦も立てやすい。
まずは状況の確認。優衣が受け持った敵はアイザック以外の4人。前から剣、剣、素手、弓だ。
前衛を追い越して、弓を持った豹頭の男が矢を放った。目にも止まらぬ速度で迫るそれに驚愕する。いや、それ以上にこれを容易く躱してみせたソラにだろうか。
(これを見ずに躱すとか、本当に空君は次元が違うわねっ!)
見えない。だが、その狙いは予測できる。それは、つまり、軌道の予知を可能にする。
矢が通るであろう場所に斜めを向いた光の盾を出現させて、攻撃をずらす。それだけではない、それと同時に四人全員を囲むように光の壁を創り出した。
「捕まえた」
汗を拭いながら、笑う聖女は闘争の最中であっても華があった。
だが、そうやって気を抜いていられるのも束の間。その全ての壁に罅が入った。アイザック率いる小隊の攻撃を防ぐことのできた光の盾であったが、あの時と比べると優衣の魔力は少なく、そして、一人一人に力が分散されているため、その強度は格段に落ちる。
しかし、彼女の顔に焦りの色は見られない。
(そりゃそうよね。でも、これで十分)
最初の一矢を躱し、敵を拘束できていた時はあまりにも短く、時間にして、数十秒といったところ。
だが、ソラならば、それでもお釣りが返すことができた。
迫る敵に対して、微笑みを浮かべて立ち尽くす優衣は、さながら死を覚悟したうら若き乙女に見えただろう。事実、彼女自身走馬灯のようにゆっくりとした時間の流れの中に身を置いていた。
そして、優衣の安心感の元、ソラの右腕が横目に映った。
「ほらね、間に合ったでしょ?」
その言葉にソラは苦笑を浮かべた。
「まったく、冷や冷やさせる」
迫りくる敵全てを弾き飛ばした。