次の獲物は
薄いカーテンに仕切られ、柔らかい光が差すカフェにソラは紅茶を飲みながら同行者の到着を待っていた。足を組み、ティーカップを口元に運ぶ姿は様になる。絵画の登場人物のように美しい。
先程の苛立ちが嘘のように立ち消えていた。
耳に届く心地よいハープの音に、上品な甘さのレアチーズケーキ、甘い花の香り漂う紅茶、これら全てが起因し、何時間でも待てる。そんな気持ちにさえしていた。
このカフェ、アルプ・ルテは主人とその夫人が取り仕切る店である。大きな丸テーブルが3つに、二人用の小さな四角いテーブルが7つ置いてあることから、それなりの広さがあるのだが、今がお昼過ぎということもあり、店内の客は少なく静かだ。給仕は男女一人ずつ、皆身綺麗な格好で静かに配膳作業をしている。音にこだわり、つまり、夫人が弾くハープの音が何よりも売りなのだろう。事実、演奏会でも開けば金も取れるレベルであった。
今もまた一曲弾き終わり、人の少なさゆえに疎らではあるが確かな賞賛が拍手となった。ソラもまた自然と手を叩いていた。
曲と曲の切れ間を見計らったかのように、大柄の虎の獣人ベルナール、全身を赤い毛皮で覆われた豹の獣人アヴェリーが入ってきた。ベルナールはその巨体に見合わず身体を縮め込ませている。そんな異様な光景に他の客もまた二人に奇異の視線を送るが、曲が始まればそちらに耳を傾け、二人が衆目に晒されることはなくなった。
開口一番ベルナールが本題へと入ろうとする。
「よお、どうだったよ? 上手くいったか?」
間違ってもカフェでケーキなど食べないだろうと思われる隻腕の武骨な男、ベルナールがその声を響かせた。声を張る立場にいたためか、普段からその声は大きく五月蠅い。
「ここでは静かにしろ」
ソラは眉間を抑え、注意した。ハープの音で穏やかになった気持ちが再び苛立った。その苛立ちを我慢などはせずに足の指を踏みつけた。
「っぅ……」
机に突っ伏すという間抜けな姿を晒しているが、ベルナールもまたソラと同じく【剛剣】の異名を持ち、その名は以前所属していた騎士団『星の砂』団長の肩書とともに広く世界に知れ渡っている。その実力は指折りつきである。戦役から退いて久しいため、顔を知る者は少なくなったが、騎士団の紋が刻まれた鎧と背中の彼の背丈ほどある大剣を見れば、それと気付く者も多くなるだろう。
ベルナールとは反対側のソラの隣に音も無く腰を下ろしたのはパラディオン出身で今やソラの奴隷となっているアヴェリーである。その見た目から人目を引く。だが、その騎士然とした歩みと一部の緩みのない表情を見れば、自然とその視線は奇異のものよりも感心を含んだものへと変わる。腰に差した二振りの剣と恵まれた肉体から繰り出される攻撃は強力だ。
「只今、戻りました」
ベルナールとは反対側の空の隣の席に音も無く座るアヴェリーの姿にソラは感慨を抱かずにはいられなかった。出会った当初は、口を開けば食べ物、特に肉を要求し、その口からは肉汁を滴らせ、喋りも覚束なかった。
それが解消されたのが二月前。フルール村に住む元王国軍テランス騎士団軍団長ダルマ=アンセルム――ぴちぴちの77歳――が彼女に対して騎士とは如何なるものか、従者とは、といった心構えを始め、戦闘術や礼儀作法を厳しく叩き込んだおかげだろう。とは言え、以前のような純粋無垢な彼女の姿が出てくることが少なくなってしまったと、ソラは一抹の寂しさを感じていた。
「では、早速報告いたします」
「まあ、座れ。全員揃うまでこのままだ」
二度手間になることを嫌い、全員が揃っていない状況で情報の共有を控えさせた。もし、緊急を要するものであれば、誰かしら声を上げるだろう。それが無いということはそう言う事だ。
背筋を伸ばし、表面上は非常に落ち着いた面持ちで座るアヴェリーと異なり、ベルナールはメニューや内装、ハープへときょろきょろと視線を彷徨わせそわそわしている。人型の筋肉が歩いているようなこの男は、このような雰囲気の場所では肩身が狭そうにしている。
案の定それを口にした。
「しっかし、こういう所は落ち着かねえな。外で剣でも振ってた方がマシだぜ」
ベルナールは身振りを交えそう語った。その顔には照れ笑いが浮かんでおり、本気で店から出たがっているわけでもなさそうだ。
「ふん、アンタはそうだろうな。だが、ここのケーキと茶は美味い。試しに頼んでみろ。その筋肉の詰まった汗臭そうな考えも変わるかもな」
嫌味を豪快に笑い流すと、手を挙げた。
「違いねぇ。姉ちゃん、一つ頼むわ」
注文を聞きに近づかなくてもいい程のの声量。ソラはそれをハンドサインで一つではなく二つに訂正して、頼みなおした。
「何だ、お前まだ食うのか?」
心底意外そうに言い表した。
「違う、それは彼女の分だ」
視線だけでアヴェリーを指し示した。意外かもしれないがソラはアヴェリーには少々甘い。
それは今の彼女の様子を見ればわかる。じっとしているかと思えば、耳や尾は楽しげに揺れ、視線はメニューや他のテーブルに運ばれていくケーキに向けられたり、鼻の穴を大きくしたり、小さくしたりと匂いの収集にも余念がない。そんな彼女の様子は好ましく思われているようで、飛びつきたい衝動を必死にこらえようと頑張っている奴隷と周囲の眼差しは生暖かい。
「お、こりゃあ、うめえ。マスター、良い腕してるな!」
店主は恐縮ですと、頭を下げた。
それを見て、ここは酒場ではないと叱り付けたくなる衝動を堪えて、眉間を抑えた。どうしようもなく、頭が痛いのだ。
「むむ! これは、美味しい、美味しいです! お代わりを所望いたします!」
アヴェリーは皿を掲げると、自分に集まった視線にハッとなって気付くと、恥ずかしそうにその手を下ろし、口を噤んだ。だが、それは手遅れというものだ。周囲がさらに生温くなったのは気のせいではない。
大きくため息をつくと、黙って二本の指を立てた。保護者のような立ち位置はこの短時間で笑みを浮かべる店主と心を通わせるほどであった。そして、二度とベルナールとアヴェリーを連れてカフェには入らないと誓った瞬間でもあった。その誓いが守られるかどうかは定かではない。
ケーキに舌鼓を打つ二人を横目に紅茶を啜っていると、三人組が店の中へと入ってきた。
「奥さん、いつものを二つお願いしますぜ。兄貴はどうしやすか?」
その集団はソラたちを見つけるや否や、真っ直ぐに近づき同じ席に座った。
席に着く前に流れるように注文をしたのが、小太りで、脂で顔をテカらせている狐の獣人。
すぐに後ろにいる鷲顔の男に伺いを立てるのも忘れない、小物っぽいがどこか憎めないやつだ。名は白田環。陰陽国出身であり、かの有名な国の守護聖獣である白狐の血を継いでいる。環は掴みどころのない人物であり、この三人組の中で、ソラが最も評価しているのがこの人物であると言って良い。
「チッ、んな甘ったるいの食ってられるか! 飲み物だけでいい。」
それを苛立たしげに断るのが三人の中でリーダーを務める男ジルベルト=カライオだ。翼人であるためか、店に入る時、その背にある立派な翼を折りたたまなければならず、また、左翼が義翼であるため、余計に手間取り、窮屈そうにしていたのが印象的だ。この三人組のリーダーを務めていたジルベルトはソラに救われたことに対して並々ならぬ恩義を感じ、そして、その時振るわれた力に憧れたのだ。
ソラもまたその思い切りのいい判断、行動力を高く評価しており、それに加えて戦闘力がさらに向上すれば、今後自分の役に立つ人材であると確信している。
「環さん、ありがとうございます!」
自分の分も注文もしてもらったことに、ぺこりと頭を下げ、眼を輝かせているのが明るく綺麗な茶色の毛並みの犬耳と尻尾を持つ狼人の少女ノーラ=カライオだ。環と同じく、料理が待ちきれないといった様子を隠しきれていない。それはノーラの幼さを考えると年相応に可愛らしい。彼女もまた、ソラに対して強い感情を抱いていた。それは憧憬、畏怖、尊敬、それとも、恋慕か。今の彼女では知る由もない。
「大兄、遅くなった。すまねえ」
自らの失態を戒めるように眉間にしわを寄せているが、どう見ても睨んでいるようにしか見えないのは、種族の違いだろう。逆にジルベルトやアヴェリーといった獣に近い者たちからすれば、ソラたちは顔に感情を出しすぎると思われがちだ。常日頃、無表情でいるソラでようやく自分を律することができているなと、感じられるのだ。
「別にいい。早く座れ」
「おう! 姉御、隣座るぜ」
この国ではアヴェリーが何かと不遇な扱いを受けていることを知っていても、彼女に対しても断りを入れることから、態度、言葉遣いは悪くとも、上下関係は律儀である。そして、ソラが大兄と呼ばれているのは、自身が兄貴と呼ばれているから、その便宜上の問題だろう。残ったベルナールは旦那と呼ばれている。だが、考えるよりも動いたほうが良いというように、似た者同士である彼らは軽口を叩く仲になっていた。お互いに親しみを感じる、または慣れてきたとい言い換えても良いが、そのような関係でもソラに対しては誰もが敬意を払っている。それは絶対的最上位にソラが位置していることを示し、唯一冗談を言うベルナールもまたソラに判断を仰ぐのがそれを確かなものへとしていた。
しばらくして、紅茶とケーキがテーブルの上に置かれると、それを待ち望んでいた二人が飛びついた。美味しそうに頬張る様子を羨ましそうにしているアヴェリーを見て、ソラは嘆息した。
「大兄が待ってんだ。さっさとしろ!」
がつがつと食べる二人に対して、自分の尊敬する人物が待っているのだと認識させるべく一喝。悲しいのは、その大声にその人物が眉を顰めていることに気づいていないことだろう。
「わふぁりやしたぁ!」
「てめえは汚ねえんだよ!」
兄貴分であるジルベルトの要求に最大限応えつつ、それを無視してはいけないと言葉を返した環の弟分としての姿勢は見上げたものである。だが、口の中の様子を見せつけられた形になったジルベルトが怒鳴るのも仕方がない。その傍で食べるノーラはケーキに必死で耳にすら入っていない。この喧騒の中でこれほど集中できるのは大したものである。もっともその集中力は時と場合により、良し悪しだ。
結果として、ジルベルトの短い導火線に火を点けた。
バンッと机を叩いて立ち上がる。
「おい、聞いてんのか!」
そこまでされて、初めて気づいたのだろう。
ノーラはビクッと身体を震わせた後、頬をこれでもかと膨らませ、口の周りにケーキを着けた顔を何度も大きく縦に動かした。
ジルベルトはその様子に小さく舌打ちをして、腕を組み椅子にもたれかかった。
苛立たしげにしているように見えるがノーラの姿を見た瞬間若干目が垂れ下がるのをソラは見逃していない。
名前で分かる通り、血の繋がりはなくともノーラはジルベルトの義妹であり、妹には甘い。当然、それを指摘すれば、躍起になって否定し、ノーラにも被害が及ぶであろうことは簡単に予測できる。男のメンツは大切なのだ。
このようなやり取りは全員が一緒に食事をとると、よくある光景である。ソラは以前と比べ、賑やかになった食卓に思いをはせた。
ベルナールと出会い、アヴェリーとともに旅をして、彼ら三人組が仲間になって、あの頃、日ノ本皇国での一家四人での生活と比べてとても賑やかになった。こちらの方が何倍も温かみがあり、生活感、現実感が感じられた。ソラ自身気づいてはいないが、この世界で築き上げた絆であった。
しかし、賑やかさを五月蠅いと感じるのは、紙一重の差しかなく、苛立ちを覚えないかと言われれば、覚えるのであった。
腹の底で沸き立つ怒りを吐き出すように、ジルベルトの背を鞘で引っ叩いた。
「お前も五月蝿い」
背筋が伸びたジルベルトを横目に、二人が皿まで舐め尽くして食べ終わるまで数分、ようやくこの場に集まった目的へと取り掛かるのであった。
「さて、各々進展を聞かせてくれ」
カフェには似つかわしくない空気が流れる。打って変わって、軽口や私語が飛び交うことなく、粛々とソラの言葉に従っている。基本的に賑やかなメンバーが集まってはいるが、分別はきちんと弁えており、即座に切り替えられることができた。
「じゃあ、あっしらからいきやしょうかね」
そう両手を擦り合わせながら、話し出す姿は正に小物。それらし過ぎている、そんな感じを受けなくもないが、そこに指摘するものはいない。環がどのような人物であれ、有能であることは否定しようがなく、不利益を被っているわけではないのだ。
「大兄の言う通りにあっしらの装備を整えやした。もちろん、下手にケチりやしてやせんぜ。
また、旅支度も交易に仕えそうな物も仕入れやした。不測の事態にも対応可能ですぜ。あっしらからの報告は以上で終わりやす」
ジルベルトたちの役目は下準備であるため、報告できることも少ない。また、鐶の説明も簡潔であるということも大きく、さりげなくソラの前に置かれた陽紙にはその詳細と金額が事細かに記されており、再度問い返し確認する必要もない。
今回の話し合いはソラとベルナールたちが行った調査の報告が主だ。
ソラの視線がベルナールに移った。
それを受け、頷き口を開く。
「じゃ、俺らから。
この街の警備責任者にアヴェリーのことを通しといたぜ。後は、最近の小競り合いの詳細を聞いたくらいだな」
「そうか、なら俺の情報と照らし合わせてみるか」
ソラたちの街に入ってからの行動パターンとして、いの一番に国の要職に就いていたベルナールのコネを使って、アヴェリーが街で問題が起きないようにするのがデフォルトになっている。今回は戦争地域に最も近い街ということで戦況も確認している。言ってしまえば、ベルナールが持ってきた情報の方が信憑性が高く、量も多いだろう。そのため、ソラが何か調べる必要は特にないのだが、もしかしたらということもあり、やらないよりはと行動していた。だが、今回の一件を受けて、今後はベルナールたちに一任した方が良いと考えていた。
照らし合わせてみると、ソラもベルナールも、大した違いはなかった。この辺りならば、そこまで情報の伝達速度に差はないようだった。しかし、将兵の個人名が判明したり、戦場で採択された戦術や魔術が知ることができたりと、今後に役立ちそうな情報は仕入れられた。
まず、教会から勇者認定された者は須藤剣一という名の少年らしい。彼は炎の剣の使い手だそうだ。ソラと同じ響きの名前に関心が惹かれたが続きを促す。
ソラたちが関わるであろう戦争参加に関するギルドへの援軍要請は早くて四日後、遅くても一週間後には出されるそうだ。
「後、お前の言ってた治療師ってのは女らしいぜ。聞いた話じゃ、技量もさることながら、とてつもねえ美人らしい」
「へえ」
にやけた顔でソラの反応を見ていたベルナールがいつも通りの淡白な対応に不満気だ。いい歳したおっさんが口をとがらせて抗議した。
「へえ、って男なら一番気になるだろう?」
「別に」
またしても軽くあしらうと「これだから美男は」、と僻んだ。
あまりの僻みようにそれならばと、女性についての想起した。
ソラにとって女性とは何か?
ただ騒ぐだけで、煩わしく、一人では行動出来ないという悪い印象しか抱いていない。
「女か……」
その容姿から想像がつくように、女性に困ったことはない。あったとしても、集られて煩いということだろう。
初めて交際という形を取ったのは、小学6年生の頃だろうか。それからだ、彼の横にいる者がいなくなるとどこからそれを聞きつけたのかと、すぐに群がられた。
ここから分かるように交際期間はあまり長続きしなかった。それは女性同士の牽制や潰し合いに耐え切れなくなるということもある。だが、ソラ自身交際を始めても淡白な対応しかしないというのが大きかった。ソラはいつも無愛想なわけではなく、人好きのする笑みを顔に貼り付けるたり、冗談を言ったり、人を敬ったりすることは人並み以上に出来る。
そして、いざ付き合うと、その愛想笑いが消え、雑な扱いに変わる。柔らかかった物腰がつっけんどんな態度へと変貌する。親しくなればなるほど、仲が良いほど、気を使わなくなるのが、彼の特徴であり、それは紛れもなく素の姿に他ならない。それを自分が特別だからと勘違いして――いや、あながち間違いでもないのだが――喜ぶ女性がほとんどだ。しかし、その淡白で、自分からは決して女性を求めないという態度は不安と不満を抱かせる。来るものを拒まず、去るものを追わずといった姿勢は想像していた甘い恋愛とはかけ離れていた。そういった事実が噂としていくら流れようとも、女性がそばにいないという期間はあまりにも短いのだから、その人気は推して測るべきと言える。
思い返せば自分から誰かに特別な感情を抱く、恋に落ちるといった経験がなかったことに気づく。
交際をした女性たちに魅力がなかったかと言われれば、そうであるとも言えるし、そうでないとも言えた。
それら女性たちは外見は見た目麗しく、綺麗な女性もいれば、明るく元気で可愛いという言葉が似合う女性もいた。もちろん、内面は……そこまで考えたところで言葉が続かなくなった。
内面を、相手の心の内側に踏み込んだことがなかったのだ。興味がないというよりも、それを知るのが怖かったのだ。それは決して表には出さない彼の弱さ。
それゆえに自分の心にも踏み込ませない。
その点で言えば、ベルナールたちは特例中の特例と言っても良い。いくら拒否しようとしても遠慮なく踏み込んでくるのだ。下手な遠慮が命を落とすことに繋がりかねないというこの世界ゆえの危険性もある。それを考慮しても、ベルナールたちの厚かましさはソラに対する対応としては最も正しい行動だ。
それともソラ自身の変化の兆しでもあるのか。その考えを鼻で笑って切り捨てた。
(こいつらが厚かましすぎるんだよ)
内心の思いとは裏腹に、このことに対して嫌悪感をあまり抱いていない。
脱線した思考をもう一度元に戻す。自然と鋭くすべすべとした顎をさすり、思い出す。
視線は宙へと向けられ、何も捉えていない。こんなことに真剣になるのもバカバカしく感じながらも普段は女性関係に対して思考を巡らせることないのだ。ここで少し考えておいても損はない。
本当に好意を抱いた女性はいなかったのか?
その自答に対し、なかなか答えが出せずにいた。記憶を掘り起こし、幼少期まで遡る。常人と桁違いの記憶力はそれを可能にした。
今回は出会った女性に関しての発掘作業のため、約20年間があっという間に過ぎ去った。
そして、直近の2年間に差し掛かった時、不意に笑顔の似合う女性が脳裏を過る。
その女性は成宮優衣という名の女性だ。彼の記憶の中ではその太陽のような笑顔と、誰もが付いて行きたくなるような凛々しくも、女性らしさを失わない柔らかい口調、そして、ソラの横に並んでも見劣りしない容姿に、整ったプロポーションの良い身体つき。思い出せば、眩しすぎるその瞳からは顔を背けてばかりだった。
そして、臆病で独り善がりなソラに警戒させることなくいつの間にか側にいる立ち振る舞い。ソラをして、彼女を拒絶しきることは出来ず、こちらの世界に来るまでは最も関わりの深かった人物であった。
彼女のペースに乗せられて言うがままに動くこともあった。それをソラのプライドが許さない。
(チッ、なぜ今あいつを思い出す)
それは苛立ちへと変わり、その腹いせにまだうじうじと僻んでいるベルナールの頭を引っ叩いた。
解答が出たとは言えないが思考を打ち切ると、今後の動きについて考えを巡らせる。
他のメンバーは大体の情報が出揃ったことで雑談に興じ、ソラの指示を待っている。
ソラ自身緊急を要する情報がなかったため、あらかじめ考えておいた案を実行に移す。
「では、これで終わりでいいな?」
皆が頷くのを確認するとニヤリと笑った。
「じゃあ、ギルドに移動するぞ」
「ん? もう要請が来るかもしれねえってのに、何をするんだ?」
ベルナールが首を傾げる。ソラはジルベルトたち三人に顔を向けて、顎をくいっと上げる。
「こいつらの力を測るのに、おあつらえ向きの依頼があったんでな。ついでに鍛えてやろう」
ソラはくっくっく、と喉を奥を鳴らして悪戯を思いついた子供のように笑った。
その言葉に不穏な気配を感じながら、勢いよく立ち上がったのはジルベルトだ。ソラが鍛えてくれるというのだ。その言葉自体には嘘は感じない。そのため、顔は喜色に満ちていた。
「おう! どこへでもお供します!」
自身の実力を上げられるとあっていつになくやる気になっている。
「ちなみに今までで倒したことのあるモンスターの最高ランクはいくつだ?」
「俺ら三人でB+ランクが限界でした」
瞬時にそれに適当な依頼を探し出す。記憶の中でそれにドンピシャな依頼があったのだろう。ソラはますます笑みを深くした。
「なるほどな」
後に知る。ソラがつける鍛錬に優しさなど微塵も含まれていないということを。
ソラたちがギルドの前まで着くと、普段通り、傭兵たちでごった返していた。この世界にはいわゆる冒険者という役割を傭兵が担っている。彼らはモンスターだけでなく、人を相手にすることもある。様々な経験を積んだ彼らは鍛え上げられた肉体はもちろん目には一種の鋭利さが宿っていた。そんな彼らがソラの姿を目にした途端、口を噤み、人の群れが散り散りになり、道を開けた。
この変わりように流石のベルナールも不審感を抱いた。有象無象の視線の先にいるソラに事情を問いただす。
「ソラ、お前何かやらかしたか?」
傭兵たちとの多少のいざこざを率直に話す。
それで合点がいったベルナールは頭を抱えた。その後ろに佇むアヴェリーは胸を張り、他の傭兵たちを睥睨し、誇らしげだ。
「ったく、さてはお前その指輪隠してやがったな。外に出てるから大丈夫だと思っていたが、事が起きてから出しやがったな」
一人納得してため息。そして、室内の様子と騒動を起こした事実を突きつけられても反省した様子のないソラを見て再びため息。その姿はより、実際よりも一回りは老けているかのようにみせた。
とは言え、ソラはそれを気にすることなく、ギルドの壁に取り付けられたボードを見て、依頼の確認を行う。
お目当ての依頼を見つけるとそれを剥がし、受付へと向かった。これで手続き後に手数料を払えば、完了である。
軽い足取りでカウンターへと近づき、台の上に紙を置いた。いつもならば、笑顔で元気よく対応をしてくれる受付嬢は、それに目もくれずただ只管震えていた。その様子で全てを察した。先程の騒動の時に居合わせず、シフト交代か何かで業務に入った。そして、尾びれ背びれが付いた噂を聞いた。
ギルドの幹部クラスでさえ、ソラの正体を知れば、震え上がるのだ。一介の職員であるところの彼女がこうなってしまうのも仕方ない。
しかし、これでは話にならない。今更ではあるが態度を取り繕い、機嫌を伺った。
「怖がらせてしまい申し訳ありません。
依頼の受注に参ったのですが、驚きました。こんなにも可愛らしい方がいるとは。その花柄のヘアピンとてもよく似合っていますね。しかし、貴方の笑顔にこそ相応しいですよ」
すっと添えられた手が優しく彼女に顔を持ち上げた。そして、目線を合わせて笑顔を浮かべる。その彼女の頬は朱に染まっていた。畳み掛けるように頭を優しく撫でて敵対の意思がないことを全身で示す。ここまでの気障な動作が絵になってしまうのもソラゆえだ。
後ろで「嘘くせえ」、とぼやくベルナールの脛を素早く蹴り黙らせた。
ソラが体を張った甲斐はあったようで、耳まで真っ赤にさせた受付嬢の震えは止まっている。
「はっ、も、申し訳ありません! い、依頼の受付ですね! 少々お待ちください」
確かにソラの言う通り、彼女の笑顔はこのむさ苦しいギルドに清涼剤のように咲き誇った。そして、離れていくソラの手を名残惜しそうに見つめながらカウンターの奥に引っ込み、五分も経たないうちに書類の束をもって戻ってきた。普段ならば遅ければ20分以上かかることもある。それを考えると、この受付嬢がとても有能なのか、それとも他の要因があったのか。息を切らせてまで、急いでまとめてきた彼女の姿を見ればどちらなのか一目瞭然だ。
「ええと、では、確認をさせていただきます。
依頼分類は討伐。討伐対象はランクA+の【武装竜鱗人】」
「A+だと!」
思わずと言った調子で声を荒げたジルベルトの脇腹ソラは素早く拳を打ち込んだ。
案の定、受付嬢は突然の大声に縮こまってしまった。
手間がかかるなと、内心ため息をつきながらも笑いかけ、頭を撫でた。
だが、ジルベルトが驚くのも無理もない。
ギルドのサービスの一環として、討伐済、もしくは交戦経験のあるモンスターに限り、ランクでその強さを示している。もちろん、それは当事者による証言やその素材、また、ギルドの調査機関からの報告から設定する以上、人為的で主観的なものになりやすく、絶対の基準であるとは言い難いがこのサービスが開始されてからというものの、討伐依頼での死亡率は四割ほど下がっている。
また、そのランクはF〜Cまでの四段階に加え、B以上はさらに細分化されプラスマイナスの三段階でSSS+まであるため、計十九段階に分けられている。通常、Bランクまでは徐々にその危険性が増していくのだが、A以上はその上り幅が飛躍的に増加する。
故にこのような反応は一般的なものだ。
しかし、S+ランクモンスターの討伐経験者であるソラは自分が付いて行くのだから何かあれば何とかできるだろうという自信があった。
「心配するな。死んだらきちんと骨は拾ってやる」
「大兄、それどういうことですかいぃ!」
ソラはジルベルト渾身の叫びを無視しながら、受付嬢に続きを促した。
「た、大変失礼いたしました。それでは、続けさせて頂きます。
依頼主はアルマン様。報酬は51オル62アル。成功要件は証明部位の持ち帰りを以って行います。また、依頼受領日より20日を過ぎてしまうと失敗となりますのでご注意ください。
最後に、契約手数料が500アルとなっておりますので、その支払いを以って契約ということになります」
いくつかハプニングはあったものの、無事手続きが終わり、収納袋からその金額を手渡した。提示された金額よりも一枚銀貨は心ばかりのものだ。
それに気づいて口を開こうとする受付嬢を笑顔で制し、その懐に仕舞わせる。ウェイターにチップとして余分に出すのである。余計な迷惑をかけた詫びとして、そして、願わくばおかしな噂の撲滅と面倒事の処理を任せたい、そんな打算が込められた銀貨だった。
未だに不満そうな顔をしたジルベルトに向き直る。その表情は仲間を心配するリーダーそのものである。あの冗談では流されてくれないようだ。
やはり、長いこと三人で傭兵稼業をやってきている経験は伊達ではない。こんな世界でバカのままでは生き残れない。どうにかして、説得し、やる気させなければならない。
肩に手を置いて語りかけた。
「ジルベルト、俺は短い期間ではあるが、お前たちを見てきた。
そして、確信した。お前たちならば出来ると。
信じろ、俺の判断を、そして、自身の力を」
静かで、それでいてはっきりとして、力のこもった言葉に心が揺れる。
あと一押しとばかりに、ジルベルトだけでなく、環やノーラとも目を合わせた。
「環、俺は見ている。他人に小物だ、卑怯だ、と言われようとも信念をもって行動している。誰に何と呼ばれようとも、俺だけは本当の姿を評価しよう。
ノーラ、まだ難しいことは分からないかもしれない。ただ生きようと必死だけなのかもしれない。だがな、お前の存在はこいつらの、いや、俺にとっても必要な存在であり、光だ。そんなお前ならば、出来るだろう。そして、先を照らすことが出来る」
二人は自分にかけられた思いがけない高い評価に、そして、ソラがこんなにも情熱的に話したことにただただ目を丸くした。
その後ろでベルナールとアヴェリーは首肯している。特にアヴェリーは過去、自分にかけられた言葉を思い出し、感極まっていた。
異様な熱気を帯びたソラがふと表情を和らげた。
「お前たちの能力は疑う余地もない。この程度の相手ならば、倒せるだろう。
あとは俺に見せてくれないか?
その勇姿を」
「はい!」
気づけば、ベルナール以外の全員が声を揃えて返事をしていた。
予想以上の効果に苦笑するが、前言を撤回するつもりはなかった。多少盛った部分はあるが、事実であるし、将来的には全てが現実となると確信していた。ソラ自身、この絆はもう疑う余地のないものとなっていた。
「よし、行くぞ!」
拳を突き上げ、叫ぶ集団が出て行くのを静かに見送った。
残ったのは頬を赤くさせた受付嬢と呆気にとられる者、思わず同じ方向に歩き出そうとする者ばかりだった。
ソラの演説は思わぬ所へと波及していくのだが、それを知るのはもっと後の話。