魔王の誕生
日ノ本皇国に突如出現した扉。それはその一個人にしか見えず、触れられず、通れない。
多くの者たちがそれに手をかた。
それは異世界へと続く扉だった。
異世界は夢や希望に満ち溢れているのか、それとも……
異世界・神々の廃墟の始祖大陸の中央に位置する王国ユトピア。北部には海が広がり、縦横に広大な領土を持ち、大陸でも一、二を争う勢力を誇っている。だが、南部から脅威が迫っていた。
ユトピアは東西と南の三か国に囲まれている。東部は戦に生き、戦で死ぬと言われる軍事集団、万狼乃里が、西部には豊かな自然と文化を誇り、和を重んじる陰陽国、南部には長らく王国と敵対関係にある帝国、パラディオン。
これら四か国は一定の緊張関係を保ちながら、その勢力の均衡を図りつつ、天下をその手に治めんと水面下で激しい争いを繰り広げていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ユトピアと万狼乃里の間に広がるイグニフ砂漠に三人の傭兵たちがある脅威から必死に逃げていた。
「走れ! ちんたらしてんじゃねえ、死にてぇのか!」
鷹の顔をした男は背中の両翼で空を飛び、声を張り上げた。大空を駆ける偉丈夫ジルベルト=カライオ、それが男の名だ。今は手に持った槍で敵を牽制しつつ殿を務めている。その乱暴な言動は仲間を誰一人として欠けさせないという強い意志からくるものだ。
その叱咤に支えられて足を前へと進ませるのは二人の獣人。一人は狐のような耳と尾を生やした小太りの男、白田環。その和風な名前は小太りの男が陰陽国の生まれであることを示している。もう一人も小太りの男と同じ様に、犬に似た特徴が体の一部に顕れている少女、ノーラ=カライオだ。種族は違えど、その名の通り、ジルベルトとは浅からぬ関係にある。
三人とも無事な所が見当たらないほど大小さまざまな傷が全身に刻まれていた。特にひどいのはジルベルトだ。左腕からは血が滴り、動かすこともできない。それでもこの場にいる誰よりも動き続けられるのは地力の差か。
諦めない、決して諦めるつもりはなかった。このペースで行けば、あと1時間もしない内に、ユトピア東端にある村、ヴュスルテへと辿り着く。何としてでも辿り着き、助力を願う。内心、仲間を救うためならば、村人を囮にしても構わないと思いながら、ジルベルトは指揮を執っていた。
空から見下ろしながら、敵の強大さを改めて感じていた。
――S+級モンスター地王竜。硬い岩を鎧に、柔らかい砂の衣を纏う大きな蛇のような竜である。地王竜に宿る莫大な魔力とその巨体から繰り出される攻撃は天災と呼ぶにふさわしい。大地を切り取る魔弾に、天地をひっくり返さんばかりの揺れを、体を地面に打ち付けるだけで起こしてみせた。
そんな天災を前に、彼らが生き残れているのは竜に遊ばれているのか、それとも巣に帰ったところを襲い多くの餌を得ようとしているのか、それは誰にもわからないが何とか生き延びていた。
そんな彼らの前に希望が見えた。
村とこちらに向かってくる数人の者たち。鷹の目は遠方を見通した。彼らを先頭に後続が続き、すでに防備が固められているようだ。
「あと少しだ。気を抜くんじゃねえぞ!」
そう言って、光明に手を伸ばした時だった。
――ギュルル、グアァァッ!
竜が咆哮し、砂から尾を出すと地面へと叩き付けた。これまでとは比べ物にならない揺れに砂塵が舞い上がる。唯一自由の利くジルベルトは仲間の無事を確認する。環は跳ね上がり、運よく竜の進行方向から外れた。しかし、ノーラは違った。叩き付けられた場所は村と竜との直線上。二股に分かれた紫色の長い舌がノーラに迫る。
「チッ! させっかよ!」
力を振り絞り、槍をふるう。空からの滑空攻撃は確かに舌を弾き返した。
だが、邪魔をされたのが気に食わなかったのか、大気が震えるほどの魔力が竜の口に収束する。
竜の舌は硬く、腕に痺れが残り、少女を抱えて飛ぶだけの余力は残されていなかった。
魔弾が放たれるまでのわずかな時間で少女に覆いかぶさり、身を盾にしてかばった。
最後の足掻きと、背後の竜を睨み付けた。
「クソがぁぁっ!」
不意に男の顔に影が落ちた。こんな場面で庇いにくる馬鹿が自分以外にいるのかと驚き、環かと目を見張るが違う。
その影は若い男のものだった。
死が迫る刹那、その男の背中が目に焼き付いた。
細長く些か頼りないが、男は誰よりも早く自分たちを助けに来たのだ。見上げた奴だと、冥土の土産話になるだろうと感慨を抱く。
男は徐に片手を胸の高さまで上げると、魔弾に触れた。
その瞬間、辺りは闇に落ちた。
魔弾は男の腕に触れるや否や、黒く染まり灰へと変わった。
「嘘だろ」
呻く様な声に反応してか、男がチラリとこちらに顔を向けた。横顔だけしか見えなかったが、戦場にいるとは思えないほど涼しい表情と綺麗な容姿をしていた。
黒髪黒目という陰陽国の和人ありがちな風貌ではあるが、他の人族とは隔絶した美貌の持ち主。一部の弛みもない輪郭に、シミやそばかすなのない白磁のような肌、すらりと伸びた鼻筋に、人の奥底まで見透かすかのような透明感のある大きな瞳。今は敵を前に眉間にしわを寄せた表情をしているが、ニコリと笑えば男女問わず十人中十人が振り向くであろうことが容易に想像できる。
膝下まである灰色のロングコートに、黒で統一されたシャツとパンツの出で立ちという飾り気のなさが、そのような扱いを望んでいないことがわかる。
そして、その瞳はただ敵だけを見据えていた。
「ベルナール、アヴェリー」
何の抑揚もない平淡な低い声は不思議と良く通る。声を掛けられた者たちが駆け寄り、男の指示を待った。
一人はこの王国の者である虎のような耳と尾の生えた筋骨隆々の大男。男と同じくらいの大きさの大剣を片腕で軽々と構えてみせた。もう一人も獣人ではあるが、少し毛色が違った。実際に燃え盛る炎の様に真っ赤な体毛に覆われてはいるが、こちらは豹のような女性。一部分だけが獣であるということではなく、大部分がそうであるため、今のような四足の状態では女性であることを判別するのも難しい。
「アヴェリーは彼らを連れて下がれ、決して邪魔にならないようにしろ。ベルナール、俺が援護する。突っ込め」
「は、かしこまりました」
紅の豹であるアヴェリーはそう言って、四足の状態から立ち上がり、胸に手を当て礼をすると、ノーラを背負い、ジルベルトを片手で支え脇に抱えた。
「んじゃ、行くとするか」
虎の獣人ベルナールは大剣を肩に担ぎ、気負った様子もなく大きく前へと踏み込んだ。
アヴェリーに抱えられたジルベルトはその腕の中で安堵し、一言だけ発した。
「あいつの名は?」
ジルベルトの視線は若い男に固定されていた。男の持つ圧倒的な武力に魅了されたのである。
「我が主の名前はソラ=カミヤ様だ。よく覚えておきなさい」
ああ、やはり女性なのだと、暢気な感想を抱きながら、どこか誇らしげで凛々しい声音を反駁した。ソラ=カミヤ、それはジルベルトにとって忘れられない名前になった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「離れたな」
小太りな狐の男も回収し、軽やかに村へと戻っていくアヴェリーを横目に確認するように口に出した。
「さて、始めるか」
その呟きを皮切りに、ソラからは莫大な魔力が流れ出す。それはつまり相応の魔法の行使の前兆であった。
目前の餌の異変を感じ取ってはちょろちょろと動き回る相手にばかり気を取られてられないと、一度大きく地面を揺らし、同じように魔力を練り上げ咆哮。それだけで魔法を顕現させた。
人間もモンスターも魔法の行使には等しく詠唱が必要だ。だが、一声でそれを為すモンスターと比べると人間のそれはあまりにも遅く矮小だ。だからこそ、焦りも怒りもなかった。この時までは。
「黒装・剣」
しかし、空もまたほぼノータイムで魔法を発動。
黒い剣が天を覆った。対する竜の作り出した岩の槍はその莫大な魔力に物を言わせ、大量に作り出したというのに数で勝ることはできない。
発射と同時に着弾。両者一歩譲らずに、黒剣と岩槍を交わらせる。
黒剣はその一部を岩槍に突き刺しながら、竜へと向かう。黒剣の破片が刺さった岩槍は黒い灰へと化した。
押されている。竜が更に魔力を注ぎこみ殲滅せんとした時だった。
竜の腹部の近くで砂塵が舞い上がる。
砂塵を舞わせた正体、それはベルナールであった。
ベルナールが発した赤い豪気が外気へと放出され、力が風を起こしたのだ。
魔法使いは魔法を使う。その元は魔力である。
戦士はどうだろう? 闘術を使うのだ。その源は体力と精神力である。つまり、一定の疲労と引き換えにその肉体からは考えられないほどの重く鋭い一撃を繰り出す。
そして、熟練の戦士は精神力を錬気、もしくは豪気へと変換する。それは相反する力。言うなれば、静と動。一流の戦士ともなれば、どちらの気も扱えるのだが、ベルナールは好んで豪気を使っていた。
その豪気がベルナールの体中から、溢れ出していた。そこまで成し得たのはソラが時間を稼いだからこそ。その溢れた豪気も無駄にはならない。
「剛覇一閃ッ!」
掛け声とともに大剣が真一文字に振るわれた。溢れた豪気に纏いながら、その刀身を徐々に赤くさせて、竜へと迫る。
隻腕であるというハンデを感じさせないその速度は竜をして、脅威を抱かせた。
割れて針のように細くなった黒剣を無視して、大剣の防御に全力を注いだ。
直撃部分に集まる砂。それと同時に岩の鎧が何層に重ねられ、さらに魔力を纏わせ強化を施す。
そして……
――ドンッ!
大量の砂塵と岩盤が幾枚も舞い上がった。
反射的に竜が体を鞭のようにしならせ、その巨体を敵へと振り下ろした。
「おお。っぶねぇ」
「大丈夫か?」
口に入った砂を苦々しい表情で吐き出すベルナールがソラの傍らに立っていた。
攻撃の反動を利用した回避が功を奏し、事なきを得たようだ。
「まあ、問題ねえな。で、どうよ?」
ソラならば、重く、硬く、巨大な竜に打ち勝つ術が見つけられると信じての発言。言葉にはならない信頼に口元を僅かに綻ばせ、ソラは言った。
「頸木は打ち込んだ。あとは決めるだけだ」
予定通りといわんばかりの自信に満ちた回答にベルナールは口を大きく開けて笑った。そして、腕を肩に回してバシバシと叩いた。
「それでこそ、ソラだ! じゃあ、頼むぜ」
「チッ。ああ、上手く合わせろよ」
叩かれた肩をさすりながら、不機嫌そうに言い放つと再び魔法を展開。
「行け!」
「応ッ!」
ベルナールを守るように黒剣が飛ぶ。ソラの手の動きに沿って右へ、左へと障害物をなぎ払った。
無尽の野を行くが如くにベルナールが一直線に近づく。
接近を警戒してか、大きく地面を揺らした。これで地に足をつけているものは動けないはずだった。
だが、その動きすらソラは読んでいた。
揺れる地面、倒れまいと堪えるベルナールの足元から黒い鎖が現れ、足を巻き取り無理やり宙へと浮かす。右へ、左へ、さらには上下に動くベルナールを岩槍が届くことはなくなった。
そして、ベルナールが再び豪気を溜め終え、上に振りかぶった時、竜の眼前に位置していた。
赤いオーラを纏った大剣が太陽を反射してきらりと輝く。歯をむき出しにして笑う姿は正に百獣の王と呼ぶに相応しい。
豪気が漏れるたびに、丸太ほど太い右腕が脈動する。限界まで力の溜められたそれは、業という名の鎖から解放される。
「滅神衝波ァッ!」
砂の衣は容易く剥ぎ取られ、岩の壁をぶち抜いていく。
一枚、二枚、三枚、四枚、そして……
「ウルゥアァッ!」
砂でも、岩でもない透明な壁が現れる。
「もらった!」
――キィィンッ!
甲高い音を鳴らして大剣を弾き返す。その衝撃たるや、岩の鎧が障子だったかのよう。
悔しげに顔を歪ませるも、そのすぐ後に笑った。
「俺だけで決めたかったが、しゃあねえ。決めろよ、ソラ」
足に巻きついた鎖が強引に戦闘区域からベルナールを離脱させた。
そして、獣王と代わり、黒い死神が眼前に躍り出た。
ベルナールと違い、ソラの纏う気は青い。それは錬気を示し、それを扱うに相応しく、表情には戦場での高揚感、興奮、その一切の類が浮かんでいない。
ソラの持つ得物、刀もその持ち主に合わせたかのように黒い。だが、その刀は血を求める魔剣に分類され、その欲望を隠そうともせず、赤く禍々しい光を放っている。
ソラの右手が眼前に突き出される。だが、ベルナールの一撃が尾を引き、竜はそれに焦点を合わせることすら間々ならない。
後ろに大きく引かれた左腕が入れ替わるように、突き出された。
「終わりだ」
【黒天紫突】。ソラの突き技のひとつであり、全てを貫くために生み出された。青い錬気と刀の赤く禍々しい気が混ざり合う。そして、紫色の気は劇薬、それも猛毒の類。貫かれたが最期。内側からその繊細で、的確に弱点に暴れまわられ、朽ちる。
風を切り裂き、光を奪いながら、地王竜の額へと剣先が触れる。何の抵抗もなくするりと入り、その隙間から青い血がどろりと流れ出した。
一矢報いようと竜がのたうち回る。だが、すでに瞳から光は奪われ、暗闇に囚われている。怒声を上げるが、それもまた細く小さくなる。声すらも失われた。段々と末端が冷たくなる。その感覚にあらがおうとする意志とは裏腹にその巨体を地面に投げ出した。
そして、静かに血の海に沈んだ。
動かなくなったのを確認して、刀を引き、地面に軽やかに着地した。
ベルナールの元に向かおうとしたが、突如として足がふらついた。地面に付いた左腕は黒く染まっていた。
「おい、ソラ。そりゃあ……」
「ああ、黒恵呪の進行が早まったようだ」
それは熱い砂漠の中で気温を下げたかのように、重く暗い言葉だった。