第2話 星の声
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『———モウスグ、カエレルヨ。マタイッショニ、セカイヲスクオウヨ?』
『あなたはだれ?』
『ボクノコト、ワスレタノ?』
『……………』
『オモイダサセテ、アゲヨウカ?』
***
ピピピッ、ピピピッ
何度か鳴った置時計を止めて瑠奈は起き上がった。
近頃、よく眠れていない気がする。ひどく体が重く、頭も少し痛い。目を覚まそうとカーテンを開けたが、夏の陽射しに視界が塞がれた。外の暑そうな青空を横目に瑠奈は重たい腰を上げて制服に着替える。長い髪をポニーテールに結び、白い肌に日焼け止めクリームを塗った。明後日だと思っていた部活動が、時間が経ち今日になった。
「時間ってあっという間だわ」
階段を降り、リビングへ向かうと料理をしていた母と目が合った。
「あら、制服なんて着て、今日は部活動でもあるのかしら」聞いていないわよと母は私を睨みきかせる。
「お昼、どうするの。お母さん、お弁当なんて作っていないわよ?」
「コンビニで買うから大丈夫だよ」というと母はさらに不機嫌になった。
コンビニの方が高いのに、昔はコンビニなんて無くて自分でお弁当を作って部活動に行ったものよ、などなど、母の小言を耳で聞き流しながら、瑠奈は急いで朝ごはんを食べ終える。
「行ってきます」
まだ何か話したい母をよそにパタリと戸を閉め、瑠奈は足早に学校へと向かった。
朝の電車は通勤する人でいっぱいだった。夏のせいか、電車の中は蒸し暑く少し汗ばんだ匂いが鼻についた。途中の駅でさらに人が増え、瑠奈はどんどん出入口から離れ押し込まれていく。駅の扉が閉まる頃には背の高いサラリーマン風の男性たちが瑠奈の周りを囲んだ。
―鵜坂、鵜坂前到着です。なお、お降りの際は―
(降りないと!)
「すみません、降ります」
声を出したが、身動きがとれない。もう少し大きい声で言わないと、聞こえないかも。その時、
「すみません、降りるので!」
男性の声が突然後ろで聞こえた。周囲の大人たちがその声を聞いて道を開ける。
「良かった、降りれた」
瑠奈はふうと息をした。朝の電車通学はいつになっても慣れないものね、そう考えていると「おはよう」と呼ぶ声がして振り返った。見ると、さわやかな笑顔で微笑む蒼井先輩がいた。
「おはようございます」
(もしかして、さっきの男の人の声、先輩だったとか)
おどおどとしてしまった所、見られていたらと考えると少し恥ずかしい。
「ちょっと顔赤くない?大丈夫?」
「大丈夫です」即答すると蒼井はふっと笑った。
「一緒に学校行こう」
笑顔で誘う蒼井に瑠奈はこくりと頷いた。
雲一つない空に乾いたアスファルト、学校へ続く歩道を先輩と二人きりで歩く。胸の奥がトクントクンと鳴り始める。
「良かったら、名前で呼んでもいい?」
蒼井はこちらを見ていう。
(名前って苗字のこと?……ではなさそうだよね。)でも下の名前で呼んだら、それはもう恋人のような気がするけど、色々な不安が頭をよぎったが、
「だ、だいじょうぶです」
「それはOKってことだよね」
蒼井は嬉しそうに笑う。
「ダメって言われるかと思ったのに、良かった」という蒼井に思わず「すごく嬉しそう」と呟やくと
「好きな人の名前くらい呼びたいよ。だからすごく嬉しいんだ。」
蒼井は瑠奈を見つめて言った。
『好きな人』という言葉に瑠奈の心臓はドクドクと鼓動した。
蒼井先輩はいつもまっすぐで嘘偽りなく気持ちを伝えてくれる。それなのに私はまだこれが『好き』なのかさえ分からなくて、返事もできていないまま。それでも、蒼井先輩はこうやって私に話しかけてきてくれて、笑ってくれて、優しく気を使ってくれる。きっと人はこれを「良い人」って言うんだ。
「瑠奈は恋人というか、付き合ったこととかある?」
瑠奈は首を横に振った。
「彼氏とか一度もできたことないです……」
「そっか、良かった」
蒼井は顔をほころばせた。
「そういう先輩は彼女とかいたんですか?」
(人気者だから絶対、いたはず!)
「……いないよ」
え?いないの?
瑠奈の予想は外れた。先輩は意外とピュアなのかもしれない。
しばらく歩き、学校の校門に近づくと、部活動で登校する生徒の姿が見えた。
(そろそろ先輩から離れようかな、恋人とか思われたら面倒なことになるかもしれないし…)
「じゃあ、私はこれで」というと蒼井は少し不機嫌な顔をした。
「どこに行くの?部室はあっちだよ」
差された指先、玄関前に女子生徒の大群が見えた。
(あの女子集団、絶対、蒼井先輩待ちのファンだ)
行きたくない。本能が逃げを選択している。
「あ、えっと裏玄関に内履き忘れてきて」
ははっと笑うと蒼井の静止を遮って学校の裏へ走った。
「逃げられた」
蒼井は一人呟いた。
振り返らないように全速力で走って学校の裏側の角を曲がった瞬間、
「ぅわあ!」
ドンッと瑠奈は誰かとぶつかってしまう。
「痛たたって、瑠奈!?」
はたと見ると親友の明里が驚いた表情でこちらを見ていた。
「明里!?」
ごめん、前よく見てなかった。謝ると明里は大丈夫だよと言って頭を撫でた。
「明里、今日部活?」
「うん。そうだよ、夏休み明けに校内新聞出さないといけなくて、今日は色々な部活に取材しに行くんだ~」
「そっかぁ、大変だね。」
というと明里はそうでもないよと笑った。
「あとで演劇部にも取材に行くから、楽しみにしててね」
「わかった」と返事をすると明里はバイバイと言って校内へ戻っていった。
裏玄関で靴を脱ぎ、人目を気にしながら表玄関で内履きに履き替えた。
途中、先生に見つかり、靴下姿の私を見て「いじめられているのか?」と聞かれたときは冷や汗をかいたが「靴下に見える靴です」と言って上手く誤魔化した。
そうして、かいた冷や汗をタオルで拭きながら部室に入ると、すでに放送部が取材の準備を始めていた。
「おはようございます」
近くにいた演劇部美術係長・3年生、土井 春花、通称「春先輩」に話しかけると
「瑠奈あれ見て、放送部が取材すんだとよ」
「聞きました」
「一番最初がうちの部活とか、絶対、蒼井目的だよな。放送部に蒼井のこと好きな奴でもいんのか?」
短パン、半そでに腕を組みながら、あぐらをかく春先輩。
(蒼井先輩のこと呼び捨てできるのは春先輩くらいかも)
次々に放送部員たちは背景布や照明機材などを配置していく。いつもより大掛かりそうな動きに、やはり蒼井先輩の取材がメインなのかなと考えてしまう。
「あ、瑠奈!」
振り返ると明里がニコリと笑って瑠奈の元にやってきた。
「今から取材?」と聞くとうんと明里は頷く
「準備終わってこれから部長の写真撮影。そのあと、片付けと部員たちの取材をしている間に、私と蒼井先輩の二人きりでインタビューするんだ」
(あれ、今「二人きり」って言った?)
胸の奥に何かがつっかえた感じがした。でも、気のせいかもと思い、そっかと相槌をする。
「写真撮影はじめまーす!」
放送部員の声に部長が動いた。明里は写真の補助のため蒼井のもとへ向かう。
『がんばってー』という後輩女子たちの黄色い声援に蒼井はにこりと返した。
(ただの写真撮影なのに…)
瑠奈は蒼井を見つめた。蒼井先輩は自分がモテてるとか思わないんだろうか…ふと疑問に思う。女子に囲まれて目移りとかしないのだろうか…
(って私、彼女でもないのに何思ってるの)
バカバカと想像で自分の頭を叩いた。
しばらくして写真撮影が終わった。
「次は演劇部員一人一人に取材しますので、この部屋でお待ちくださーい」
放送部員の掛け声に部室はザワザワとした。そんな中、瑠奈の瞳は蒼井を追いかけた。「さすがに二人きりとかはないよね」しかし、そんな思いとは裏腹に、明里と蒼井は二人で部室を出て行ってしまった。
(本当に行っちゃた)
普段彼を追いかけている蒼井ファンの女子たちも、部屋で待機という指示で動かない。「二人きり」になっちゃう。なぜか焦りのような感覚が瑠奈を押した。
「お手洗い行ってきます」と春先輩に伝え教室を飛び出した。
(様子を見に行くだけ)そう自分に言い聞かせる。
部室前の廊下を抜けた角に普段使われていない物置き部屋がある。日の当たらない場所だからか少し暗くてどこか不気味だった。
(ここに入っていくのを見たけど、なんでこんな場所で?)
『シリタイ?』
突然、耳の奥で声がしたが、またすぐに辺りは静まり返った。
(気のせいか…)
「———————ッ!」
物置部屋から何か言い争っている人の声が聞こえる。インタビューのような感じではなさそうだけど。瑠奈は気になり耳をあてた。
「サンっていっつもそう。私の気持ちなんてどうでもいいんでしょう?」
「マールス、それは違う。」
「ならなんで戻るなんて言葉言えるの?ルナが可哀そうよ。それなら、いっそのこと好きだなんて言って欲しくなかった。」
「…………」
「前世の記憶取り戻したと思ったら、これだなんて。ルナになんて言えばいいか。」
(ルナって私のこと言ってるの?)
『ヘヤニ、ハイレッ』
次は気のせいではなかった。確かに子供のような声が耳の奥でした。と同時に勝手に体が部屋に入ってしまう。
『瑠奈!?』
二人が私の名前を呼んだ。
「なぜここに?」蒼井が驚愕した顔で言うと明里も「なんで」と目を見開く。
「話、聞いてしまってごめん。でも、部屋に入ったのは」何かに押されたと言いかけて、自分の胸が突然光った。そして、光は瑠奈から出て宙を舞う。キャッキャと子供のような声で光の玉は笑った。
「星!?」明里は光を見て言い放つ。
「星?」
それは一体、何と聞きたい気持ちと、これはどういう状況なのかと聞きたい気持ちが混みあった。
「ミンナ、アツマッタ。イッショニ、カエロウ。セカイヲスクイニ」
星と呼ばれる光はまたもキャッキャと笑う。
「だめ。行かない。星の言うことなんてもう聞きたくない」
「マールスハダマッテ」
ドンッとした音と同時に、明里はものすごい勢いで棚に吹き飛ばされる。
「星、やめろ!」蒼井の怒鳴りに星はくるくると宙を舞って嘲笑った。
「明里に何したのっ!」
「ナンデ、キオクガモドラナイノカハ、ワカラナイケド、モドリタクナイノナラ、シカタガナイネ」
バチンッ
耳元ではじけた音がした。とたん、視界が漆黒に変わり、ストンと体が宙に浮いた感覚がした。正確には床だったものが無くなりそのまま真下に落とされた。
落ちたと感じる頃には、自分が逆さまになっていることに気づく。はっと見ると、そこには宇宙が広がっていた。無数の星々の中、3人は下へ下へと星々の中へ落ちていく。とてつもない重力に押しつぶされそうな感覚に意識が奪われそうになる。ぐっと意識が飛ぶのをこらえながら横を見た。目を瞑り力なく落ちる蒼井先輩と、歯を食いしばり目を開けている明里の姿。明里は瑠奈を見ると悲しいそうな表情を浮かべた。
「————には気を付けて。」
明里は口を開けて何かを伝えようとした。
(なんて言っているの?聞こえない)
だんだんと意識が朦朧として視野が黒く狭まっていく。地球に似た星が目の前に映ったのを見届けて、瑠奈はふっと目を瞑った。
「—エルフには気を付けて。」最後にそう聞こえた気がした。