90. 石の行方
「私ね。初めて神殿で黒獅子の人に稽古をつけてもらったときに、すっごく褒めてもらってたの」
夕暮れ時をとっくにすぎた宿の一室にて、フェレシーラが懐かしげに告げてきた。
カーテンで遮られた窓の向こうでは消えゆく茜の空が、その残滓を微かに放つに留まっている。
「そのときその人にね。なんか笑っちゃうくらい大袈裟に『これは凄い。刃物の類はからっきしだが、鈍器を振るわせたら俺でも敵わん。天才だ』なんて、持ち上げられちゃって。それで訓練するのが楽しくなっちゃって」
訓練が楽しい。
そんな台詞をまたも挟みつつ、彼女は続けてきた。
「それでそのあと、先生の一番弟子とも模擬戦をやることになったのだけど……これが流石は一番弟子、って感じの子だったの。接近戦の冴えもさることながら、神術と術具の扱いが巧みの一言では言い表せないレベルでびっくりしちゃって。そこからは神術にも興味が湧いて、教会の人にも鍛えてもらったの。それでね……」
きっと当時のことを思い返していたのだろう。
フェレシーラはそこで言葉を区切りって大きく息を吸い込むと、落日を果たした空をみやりながら呟いてきた。
「それで……これなら私にも、なにか出来るって。ここにいれば、皆の力になれるんだって。そう思ったのが、始まりだったのかもしれない……」
しんみりとした口調となり、フェレシーラが石の床へと視線を落とす。
幼い頃の思い出というものは、案外こんな感じで、何かの弾みで一気に蘇ってくるものなのかもしれない。
教団での過去を語り終えた少女をみつめながら、俺はそんなことを考えていた。
「ふぅ……まったく。かなわないな、お前には。好きこそものの上手なれ、なんて言うけどさ。そこまでとんとん拍子でいくヤツも、そうそういないと思うぞ?」
「む……なによその呆れたような言いようは。それじゃまるで、私がなんの苦労もせずに白羽根になったみたいじゃない」
「なら聞くけどさ。なんか具体的に苦労したり、壁にぶち当たったりしたのか? いまの話を聞いてた分には、ぜんっぜんそんな雰囲気じゃなかったし……前に話してた感じだと、結構早いうちから従士として活動してたんだろ?」
微妙に頬を膨らませてきたフェレシーラに、俺は率直な疑問を口にする。
すると彼女は椅子の上より背を逸らして、こちらを仰ぎ見てきた。
「たしかに、そう言われてみると……うん。ちょっと待ってね。まだなにか思い出せるかもだし……」
「いや、いい。よーくわかった。お前がNo.1だよ」
妙に納得した口振りとなったフェレシーラに、俺は苦笑するより他にない。
ついでとばかりにこちらの眼下にやってきた可愛らしいおでこの根本に櫛を通してやると、青い瞳が心地よさげに細められてきた。
その何気ない仕草に、己の仕事ぶりへの手応えを感じつつも。
最後の一枚となっていた乾きたてのタオルを手に、俺は先程の言葉を思い返してしまう。
訓練が楽しい。
そう口にしてきた彼女の感覚は、多分、そこまでおかしくもないのだろう。
しかし、残念ながら俺にその感覚はない。
どんな作業であれ、そこに手応えや望む見返りがあれば楽しめる。
やりがいというものを味わい、次に繋げて行ける。
それはたったいまフェレシーラが聞かせてくれた話にも、ふわふわに仕上がった亜麻色の髪を眺めている俺に対しても、通じるものだろう。
だが、俺にとって『訓練』というものは……
こと魔術の修練に関しては、そうした類のものではなかった。
偉大な師の元で幾らその理論を学べど、実践することが叶わない。
どれだけの時と熱を注ぎ込もうと、己の力だけでは小指ほどの明かりも灯せない。
どんなに月日を重ねようとも、昼夜を繰り返そうとも、成長というものを実感できない。
故に俺にとっての『訓練』とはただの悪足掻きにも等しく。
何の成果も見せることの出来ないあの人に向けた、その場凌ぎの釈明行為に過ぎない代物でしかなかった。
訓練は、決して楽しくなんてない。
霊銀盤を仕込んだ手甲の力で――不定術法式を用いて、一応は魔術を使えるようになったいまでも、それはさして変わることのない認識だ。
当然、あれから毎日暇を見つけては魔術の修練に勤しみ、なんとか形にしようと試みてはいる。
しかしそれも、思うような成果には繋がっていないのが現実だ。
でも……
「でも……よかったな、フェレシーラ。神殿従士になれた理由が思い出せて」
「そうね。自分ではあまり考えてみたこともなかったけど……こういうのって、結構大切なことなのかしら?」
「そうだぞ。よし……これで髪のほうもバッチリだ。もう安心して、ポニテに戻していいぞ!」
「はいはい。そんなに気にいってくれたのなんて、ちょっと驚きね」
自信満々のその宣言に、今度はフェレシーラが苦笑を浮かべて髪留めを手にしてきた。
辺りが暗さを増してきたこともあり、俺はテーブルの上の水晶灯を起動する。
青白い輝きが場に満ちる中、少女の髪が小麦の穂のように揺れ動いた。
「ありがとうね、フラム。最近は理由とか目標とか考えずに、淡々と仕事していたから……いまの話で、少しスッキリしたかも」
「そっか。そりゃお役に立ててどういたしまして、だ。こんなんで気晴らしになるんなら、またちょこちょこやってやるよ」
先程よりも幾分は晴れやかとなってくれたフェレシーラを前に、俺は湿っぽさを肩代わりしてくれたタオルを重ね集める。
知らず知らずのうちに、口をついて出てはいたが……
フェレシーラに向けた「よかった」という言葉は、本心からのものだった。
正直なところ、訓練を楽しいと思える彼女の姿勢を、やっかむ気持ちがないわけではない。
だがそんなことよりも……
俺はフェレシーラの過去を多少なりとでも知れたことのほうが、よほど嬉しかった。
あまり立ち入ったことを聞くのも、デリカシーってヤツがないようで気が引けたので、今回の話題は丁度よかったと言えるだろう。
そんな微かな充足感を胸に、寝台の淵へと腰を降ろすと――
「今日のことは、私の判断ミスよ」
そこにフェレシーラが、ポツリと呟いてきた。
どうやら、彼女にとってまだ裏路地での話は終わっていなかったらしい。
「いや、だからさ……あれはミスとか、そういうのじゃないだろ」
「ありがとう、そう言ってくれて。でもあれは私のミスなの。あの程度なら、簡単に防げたたはずだもの。そうしていれば、貴方に無駄な苦労をかけることもなかったから」
「……そっか」
重ねて責任の在処を示してきた彼女の言葉に、俺は耳を傾けることにした。
「神殿従士が色んな人たちに憎まれているのはわかっていたのにね。何故かしら……私、いつの間にか、そんな当たり前のことまで忘れてしまっていたみたい」
再び己の過去を振り返るフェレシーラの口元に、自嘲気味な笑みが浮かび、そして消えてゆく。
「こんなことは、いままでなかったのにね。いつだって自分の身は自分で守ってきたし、それが当たり前だったのに……あの子が石を握りしめたのを目にした瞬間に、何故だかぜんぶ、忘れてしまって……」
フェレシーラにとって、あのときのことは終わっていなかった。
いや、違う。
俺にとっても、欠片も終わってなどはいなかったのだ。
終わった気になって、適当にやり過ごしていただけだ。
だからまだ話には続きがあるし、なければいけない。
それを自覚しながら、俺は待ち続けた。