88. 亜麻色のひととき
「え、なになに? ホムラ、そこにいたの? もしかして……窓から出て飛び出て同じところに戻ってきたの?」
「ああ。そうらしい、な……」
「ピ! ピピッ……ピピピー♪」
フェレシーラの問いかけに、俺は窓枠にずりずりと上半身をもたれかからせながら答える。
するとその直上を、ホムラがバサバサと翼をはためかせて飛び越えていった。
「わお。随分と簡単に飛ぶようになったわねー、この子。この分だと、結構な距離を散歩してきたんじゃない? あ、この場合、散歩って言うより散飛って言うのかしら」
「んだよその安直さは……せめてお空の散歩って言ってくれよ……」
「あー、たしかにそっちがしっくりくるか。んー、元気元気……おかえりなさい、ホムラ。お空の散歩、楽しかった? でも勝手に出ていっちゃ駄目よー? うりうり」
「ピ! ピピィ……ククゥ……」
あまりの展開に虚脱する俺の背後で、フェレシーラがホムラを抱きかかえてかいぐりかいぐりする。
なんか一瞬にして、張り巡らせた気合がどっかに飛んでったけど……
ホムラと戯れるフェレシーラの姿を見ていたら、なんか、どうでもよくなってきたな。
いや、どうでもいいってのは言葉の綾になるけど。
とにかく結果としてホムラが無事でよかった。
「そっか。窓開いてたか……そんな簡単なこと、見落としてたかぁ。かんっぜんにパニくってたな……」
窓を締め切らずに、簡単に寝入ったこと。
冒険者の人たちに対して、あらぬ疑いの目を向けたこと。
反省すべき点は、大いにあるが……
まずは最悪の事態に至っていなかったことを、素直に喜んでおくべきだろう。
「ったく……駄目だぞ、ホムラ。勝手に外に出ていったりしたら。めっ、だぞ?」
「ピ? ピピィ……」
「それ、もう私が言ったし。というか反省するのは貴方のほうでしょ……めっ!」
「ぐ……やめてくれよ、もう……マジで俺が悪かったからさ……あっ、こらっ。人の額をペシペシすんなよ、ペシペシって!」
「だーめ。戸締りも出来ないような子は、おしおきですー。おとなしくつかまってなさーい」
そこから一時の間、よくわからないノリでフェレシーラに追いかけ回されてしまい。
それが一段落してから、俺は夕陽の差し込む窓よりタライを道端へとコソッと差し出していた。
「でも、ほんと大事にならないでよかった……」
安堵の溜め息と共にタライの溢しつつ、俺は胸を撫で下ろす。
「それもだけど。窓開けっぱなしで寝ると風邪引いちゃうし、本当にやめなさいよ。あれって神術でも治せなかったりもするんだから」
「え? そうなのか? 俺はてっきり、風邪ぐらいなら簡単に治療できるもんだと思ってたんだけど……」
「残念ながらそれは見当違いってものね。基本的に、病に対する術法での治療は対処療法だから。種類によっては『殺菌』とかでも治る場合もあるけど、あれもかなり扱いが難しいし……風邪に対しては『体力付与』でフォローしつつ、本人の回復力任せになるのが基本よ。対処療法ってヤツね」
「うへ。それマジか……あ、いや。だから師匠も、俺が小さい頃に風邪引くと『絶対安静よ!』って言って大騒ぎしてたのか……なるほど」
「そういうこと。だからちょっとのことでも、決して侮らないで。特にホムラは人と同じ手段では効果がないかもしれないし……ほらほら。タライの水、流し切ったらさっさと厨房に返す返す」
「へーい……しかしまあ、今日はなんでこんなにバタバタなんだかな」
お小言モードに入りかけたフェレシーラから逃げるようにして、俺は空のタライを手に廊下へと繰り出す。
辺りは既に薄暗く、陽は沈みかけている。
人気のない通路を進むと、俺は宿の洗い場へとタライの返却を終えてきた。
「ただいまー……っと」
舞い戻った部屋の窓から、ガラス越しに落日を示す赤が瞼へと降り注ぐ。
その輝きに青は混じっておらず、ただただ赤い。
やはり、あの光景は夢の中の出来事だったのだろう。
今度こそ窓を閉め切っていることを確認して、俺は灰色のカーテンを静かに閉じた。
「それにしてもホムラはえらいわねー。ちゃんと元の場所に自分から戻ってこれるなんて。誰かさんとは大違いね」
「く……」
背後からの指摘を甘んじて受けつつ振り向くと、フェレシーラが椅子にかけてこちらを待ち構えていた。
まだ日が落ちたばかりだが、これから彼女にしっかりと今日一日の経緯を話しておく必要がある。
床で寝そべるホムラに気を払いつつ、俺は寝台の淵に腰を降ろした。
「さて。それじゃあそろそろ、貴方の口から説明を受けておきましょうか」
「あ、ああ、そうだな……」
まずはどこから話そうか、と口にしかけたところで。
俺はフェレシーラが瞳を伏せて、その亜麻色の髪を後ろ手に撫でつけていたことに気付いた。
その仕草に目を奪われている間に、ウェーブがかった髪が一纏めにされて持ち上げられた。
少女の細い指先が翻り、そこに琥珀色の髪留めが現れる。
それが音もなく舞い踊り……ほんのひと瞬きのうちに、亜麻色の尻尾を創り上げていた。
「? いきなりボーっとして、どうしたの?」
「あ、いや……髪、いつもみたいに伸ばしておかないんだな、って……お前がそうやってポニーテールにしてるのあんまり見ないからさ」
「ああ、そんなこと? 貴方が気付いてないだけで、多分前にもやってるわよ。まあ、目の前で結うのは初めてかもだけど……」
そこまで口にしてから、フェレシーラが小首を傾げてきた。
その動きに合わせて、亜麻色の尻尾がふわりと揺らめく。
「もしかして……普段のほうが好みだった? 私ってちょっとくせっ毛だからセットしようとしても巧く決まらないし……いつも適当に伸ばしているのだけど。どうせ激しく動いたら、結局は乱れちゃうし……」
「いや。そっちも好きだよ、俺」
何故だか珍しく言い訳がましい口振りとなってきたフェレシーラに、俺は素直な感想で返した。
フェレシーラといえば、ナチュラルなセミロングのイメージだが……
いまは略式の簡素な法衣に身を包んでいるので、髪型が違うこともあり、普段とはかなり印象が違っている。
神殿で身を清めてきたせいもあってか、全体的におとなしめな感じだ。
「へ、へぇ……そっちも、ね。なら、よかったけど……」
「うん。でも女の人って大変だよな。髪長いと洗うのも乾かすのも大変そうだし……お、そうだ。たしかいま、綺麗なヤツがあったよな……」
「え、なに? ちょっと……なにいきなり荷物ゴソゴソやり始めてるのよ。今日のこと、話してくれるんじゃなかったの?」
「いいから、ちょっと待ってろって――お、やっぱあったあった!」
妙にそわそわとした反応を見せるフェレシーラを椅子の上に押し留めつつ、俺は一番大きな荷袋の中に手を突っ込むと、そこから目的の品を探し当てていた。
「ほら、洗濯したてのタオルセットだ! 昨日洗って、馬車の中で干しておいたヤツ! お日様も風もおもいっきり当たってたから、乾き具合もバッチリだぞ!」
「た、たしかに綺麗に乾いてるけど……なんで突然、それが出てくるのよ」
「なんでって。そりゃお前の髪、乾かしてやるからに決まってるだろ? 昨日もこの町はジメジメしてるって言ってたし。それぐらいなら今日のこと話ながらでも、俺にだって出来るからさ」
「それは……う、嬉しいけど……」
唐突なその提案に、フェレシーラが戸惑いの面持ちを見せてきた。
そんな彼女を前に、俺は手にしたまっさらなタオルを「パン、パン!」と鳴らして得意満面の笑みを浮かべてみせる。
おそらくあちらにしてみれば、こちらのタオル捌きに不安があったのだろう。
少しの間、フェレシーラは躊躇う様子を見せてはいたが……
どうやらここは、断り切れないと観念してくれたらしい。
彼女は「ふぅ」と小さく息をつくと、にっこりと微笑み、首を縦に振ってきた。
「そうね。人には風邪に気を付けろって言っておいて、自分がかかりでもしたら目も当てられないわ。今回はお言葉に甘えて、お願いしちゃおうかしら」
「よしきた! それじゃ、早速乾かすぞ。お前はのんびり構えていてくれていいからな。あ、一応これでも、昔は師匠の髪も乾かしてたからさ。自分のときみたいに、ガシガシやったりしないでゆっくり丁寧にやるし……安心して、任せてくれ!」
「はいはい。それなら私から言うことはないと思うけど……お手柔らかに、お願いね」
俄然張り切るこちらの姿に、フェレシーラが苦笑しつつも髪留めを外して背を向ける。
俺はタオルを手に、椅子でくつろぐ少女の後ろに立った。
こうなってくると、俺もお湯で体を拭いておいて本当によかった。
汗臭いままで髪に触れて、せっかく風呂上がりの彼女に臭いが移ったら元も子もない。
あ、ホムラをお湯に入れた後に、しっかり手は洗いました。
ごめんなホムラ、べつにお前が臭うからってわけじゃないぞ。
一応だ、一応。
だからこっちを見て、「ピ……?」って首を傾げて来ないでくれ。
というかこいつ、こういうときは妙に鋭いよな……