86. 微睡の羽ばたき
ギルドから宿への帰り道は、静かなものだった。
「今日は色々とあって疲れたとおもうから。早めに宿に戻って、明日の出発に備えておきましょう」
鈍色へと変じ始めた空の下。
人もまばらとなった大通りを並び歩いていると、フェレシーラが先に口を開いてきた。
俺はその提案に頷きながらも、返すべき言葉を探してしまう。
結局は自分から合流できなかった引け目もあり、俺は彼女に声をかけられずにいた。
しかし、意外なまでにフェレシーラの口調はやわらかなものだった。
時折吹き抜けてくる涼風に、心地よさげに目を細めているその姿を見る限り……不機嫌そうな様子は微塵も見受けられない。
「無理して一時に話そうとしなくても大丈夫よ。一度ゆっくりと休憩を挟んでからで、いいから」
こちらの胸中を見抜いたように、フェレシーラが笑いかけてきた。
たしかにいまの俺の状態で道すがら話したところで、纏まりきらないことは明白だが……
「あのさ、フェレシーラ」
「んー? なーに、フラム」
両手を後ろ手にしてのわざとらしい返事に、俺は思わず鼻白んでしまう。
これから行う質問に対する返答が、殆どわかってしまったからだ。
だが、だからと言ってつまらぬ意地を張っていても仕方ない。
あれからずっと抱え続けていた不安をただ一言に込めて、俺は再び口を開いた。
「その。今回のこと……怒ってないのか」
「ええ。怒ってないわ。そもそも私が怪我をしたのは、私の不注意が原因だから。それで怪我をさせてきた相手を追いかけた貴方に、感謝こそすれ……怒る理由なんて、一つもないもの」
「……そっか。ありがとうな」
澱みのない答えに、俺はそう返すのが精一杯だった。
明らかに用意されていた返答だ。
不注意という言葉には正直引っかかりを感じた。
だが、ここで揚げ足を取っていても仕方がないだろう。
あそこでフェレシーラを置き去りにした俺に、四の五の言う資格はない。
怒っていないと言うのであればそれを信じるしかないし、同じ過ちを繰り返さないことのほうが先決だ。
「ま、こっちが止めてもすーぐ走り出しちゃうは困りものだけど……いい加減、慣れっこになっちゃいそうよ」
「う……あ、あのときは、お前がやられて頭に血が昇って……それで、色々あってさ……」
「はいはい。そこら辺の話は後からでいいって言ってるでしょう? まずは宿を目指して、キリキリ歩いた歩いた」
「あ、ちょ――いきなり、押すなって! ホムラが起きたらどうすんだよ! ……ったく」
「ちゃんと押すのは腰にしてあげてるから、安心しなさい。というか、その袋もかなり窮屈になってそうね……地味に結構重くない?」
「そりゃ重いけどさ。起きてるときに文句言うと、暴れてくるからな……って! ケツを叩くな、人のケツを!」
そこからも遠慮なく、バシバシと気合と元気を注入されながら。
俺は彼女の先をゆく形で、宿へと辿り着いていた。
どうやらギルドからはそう離れてもおらず、道さえ間違えなければすぐに辿り着ける位置にあったらしい。
それから食堂で、早めの夕食をく済ませてからのこと。
「それじゃ私は、一度神殿に顔を出しておくから。貴方はここで休んでいて」
フェレシーラはそう言うと、宿の一室を後にしていた。
着替えの入った荷袋を抱えていったところを見ると、つまりそういうことなのだろう。
ホムラと一緒に部屋に残された俺は、木製の大きなタライを前にして、深々と息を吐いていた。
「……風呂入りたかったなー、俺も」
ホカホカとした湯気を放つタライと手拭いを相手に、俺は独り言ちる。
だが、こうして身を清める手段を宿に頼んでくれたのも、フェレシーラなのだ。
「そりゃありがたい話だけど。自分はしっかり風呂に行くとかさ……あいつ実は、地味に怒ってないか」とか。
「神殿の設備は流石に貸してもらえないよな」とか。
「これも結構お金かかるんだろうなー」とか思いながらも……身に付けていたものを寝台の横へと追いやると。
俺は未だどこかで燻っていた悔しさと昂っていた気持ちとを、一日の汚れと共に拭い落していった。
「ふう……」
換気の為に開け放っていた窓から風が吹き込み、カーテンがパタパタとはためいている。
熱めのお湯で温められた肌を撫で上げてゆくと、何とも言えず気持ちがよい。
その感触を繰り返しを味わいながら、俺は瞼を閉じて今日の出来事を振り返る。
今回は本当に、呆れるほどに色んなことに出くわした。
依頼の発注に、町の散策。
フェレシーラの負傷と、俺の暴走。
貧民街で出くわした人々と、初めて訪れた冒険者ギルド。
そして『雷閃士団』の面々との出会いと、別れ。
たったの半日足らずの間に遭遇した出来事の数々に、俺の頭はパンク寸前となっていた。
体の疲れよりも、精神的な振れ幅の大きさに参っている形だ。
フェレシーラがゆっくりしておけと言ってくるのも当たり前だ。
これ以上なにか起こされたら、たまったものじゃないってのもあるんだろうけど。
「冒険者か……」
我知らず洩らした呟きと共に、俺は『金狼』と呼ばれていた男の姿を思い出す。
飄々としながらも、己の欲するものには迷いを見せない。
一つの集団の先頭に立ち、自らの意思で国をも超え、明日を選び掴んでゆく。
プリエラの話から逆算すれば、彼がそうした生き方に身を投じたのはいまから四年前。
十八となった頃には、既にアレクさんは冒険者として生計を立てていたことになる。
対する俺は十五歳。
あと三年で、アレクさんみたいに……なんてことを考えてしまうのは、仕方がないだろう。
当然、冒険者を目指して剣士の修練を積み続けていたあの人と、『隠者の塔』で魔術士になることしか考えていなかった自分では、比べられるものでもない。
「魔物を倒すのを想像したことはあったけど、それを稼ぎにとかは思ったこともなかったし……凄いとは思うけど、やっぱり別世界の人だよな……」
独り言を積み重ねながら布切れを手に、目元、髪、口元の順で水気を切ってゆく。
生まれ育った森を旅立って、それなりに新しいことを経験しても抜け切ることのない、ルーティンワークとなっていた俺の癖だ。
人間、そう簡単に変われたら苦労などしない……
なんて、こんな若造が口にすればそれこそ恥晒しというものだろう。
「うん。アレクさんはアレクさん。俺は俺。やれることをやっていくしかないよな。まだまだこれからって、皆にも言ってもらえたし」
そんなことを言いながら、お次はホムラを頭から尾羽根にかけて洗ってやる。
俺が使った後で悪いとは思うけど、そう何度もお湯を頼むわけにもいかない。
お金が稼げないなら、せめて節約は意識して――って。
「うお、こいつ全っ然起きないでやんの……ま、洗いやすいし助けるけどさ。おつかれ、ホムラ。今日はありがとな」
羽根を痛めぬようにゆっくりと、チャプチャプと湯を打ち鳴らしながら、気付けば俺はまた延々と独り言を口にし始めていた。
つい先程まで、周りに人が大勢いたせいだろうか。
思考を整理する為のそれとは違うというのに、半ば癖になってしまっている感じだ。
「フェレシーラのヤツ、まだ戻ってこないのか……そういや師匠も、結構な長風呂するほうだったっけか……」
彼女のことを考えていると、そこから連想する形で塔での生活が思い返されてきた。
小さい頃は、それこそ毎日の様に師匠と一緒にお風呂に入れさせられていた気がする。
まだ殆ど外に出ることもなかったのに、そうしていたということは……
多分、師匠本人が相当な綺麗好きだったのだろう。
「でも俺がでかくなってきて、風呂場が狭くなってきてからは一人で入るようになったんだっけ……」
たしか師匠から自分の部屋を与えられたのも、その頃からだった気がする。
あれは一体、いつ頃からのことだったか……
「くぁ……やば、急に、眠気が……」
記憶の糸を手繰り寄せているところに、強烈な睡魔が襲い掛かってきた。
なんだかんだで、体の方にも疲れが溜っていたということだろうか?
俺は急ぎホムラを小さな湯船から引き上げると、乾いた布で彼女の全身を拭きあげにかかった。
しかしどうやら、そこが限界だったらしい。
瞼にのしかかる重圧に抗しつつも、俺はなんとか寝台の上に体を投げ出していた。
「ごめんホムラ……ちょっとこのまま、横に……」
謝罪の言葉を口に、窓から吹き込む一陣の風に頬を打たれながら――
聞き覚えのある鳴き声と、微かな羽ばたきの音を耳に、俺は意識を微睡みの中へと投げ出していた……