2. 『白羽根』
ふらふらと夢遊病者の様に山道を進む、その途中。
手近な木の幹を支えにしたところで、そいつは突然やってきた。
――ヒヒッ……ヒヒィィーン!
「う、わっ!?」
耳元で鳴り響いた甲高い嘶き声に、思わず体が仰け反る。
同時に視界に飛び込んできたのは、茶色の巨大な影。
弾けるように上方に伸びて竿立ちとなったそれは、赤褐色の毛並みを誇る一頭の馬だった。
「どう! どう、どぅ――!」
頭上からは、若い女性のものと思しき制止の声。
あ……これは所謂、結構良いとこの馬だ。
チラリと見えた紋付の白い馬装の優美さと、その体躯の見事さから、思わずそんなことを考えてしまう。
その間にも鹿毛の馬は嘶きを繰り返しながら、落ち着きを取り戻していた。
俺はと言えば……情けなくも、木の後ろに体の大部分を隠してしまっている。
そこに、よく通る中音域の美声が響いてきた。
「よしよし、いい子ね……驚かせてごめんね。もう怖くないから――ちょっと、そこの貴方」
うっ……!
優し気に馬を宥めていた声は、一転して、不機嫌そのものといった響きに転じていた。
当然、それは騎手であった人物のものだ。
無論、それはこちらに向けられたものだ。
だがそれも仕方ない……今のは完全に、こっちが悪かった。
「いきなり出てくるなんて、危ないじゃ――」
「ごめん……」
馬上よりの至極もっともな指摘に、俺は女性の前に姿を現して、謝罪の声を絞り出す。
「――っ」
「……?」
非難の声が続くとばかり思いきや、聞こえてきたのは微かに息を呑む音だけ。
不思議に思い下げ気味にしていた視線を戻すと、そこには騎手である女性の姿があった。
背の高さや雰囲気からして、歳は俺と同じく、十代半ばほどか……
ぱっと見で、こちらの一つか二つは上に見える。
髪は、肩まで伸びたセミロング。
ウェーブのかかったその亜麻色の輝きを見て、俺はまず、単純に綺麗だと思った。
そこに、つり目がちの青い瞳が合わさってくる。
明確な意思の存在をこれでもかとばかりに示してくる、強い輝きを持った目だ。
くっきりとした目鼻立ちと色白の肌を見るに、この中央大陸の出身なのだろう。
身に付けた金属製の白い胸甲の左側には、天秤の紋章が刻まれている。
右側へと大きく傾いた天秤だ。
その秤の上には、一枚の羽根が舞い降りている。
全体の印象としては、白。
胸甲以外の防具は動きやすさを優先してか、関節部などの要所要所を守るに留めており、その下に藍染めの衣服を着込んでいる。
白き女騎士。
揺らぎなくこちらを見据えてくるその姿に、自然、そんな言葉が浮かんでくる。
だが同時に、俺は彼女の役職を理解していた。
「神殿従士……それも、白羽根の……」
「――へぇ」
思わず上げた感嘆の声に、同様の響きが返ってくる。
「随分と危なっかしい真似を仕出かしてくれるから……どこの村の子供かと思ったけど」
むっ。
「中々どうして、学があるみたいね」
「……」
賞賛とも取れるその言葉に、しかし俺は無言で返してしまう。
こいつ、今絶対「ガキのわりに」とか「見かけによらず」とか思ってただろ……!
……でもまあ、今のは明らかにこっちが不注意だったのも確かだ。
一旦は瞼を閉じて、芽生えかけた反発心を鎮めて。
俺は目の前の女性――多分、こちらより少し低いぐらいの身長――恐らく160㎝ほどはありそうだが、少女と呼んでいいだろう。
ともかく、俺はその少女に対して、先程よりも気持ち深めに頭を下げてみせた。
「……いきなり出てきて驚かせてしまい、すみませんでした」
「そうね。互いに怪我がなくて何よりよ。ね、フレン?」
フレンというのは、馬の名前だったのだろう。
「あ……ごめん、お前も……急に出て来て、驚かして」
彼女がそう呼びかけたところで、俺も慌てて鹿毛の馬へと向けて謝罪する。
そんな俺の様子を見て、少女が微かな笑みを浮かべてきた。
明らかな、目下の者に対する余裕の笑みだ。
……ダメだ。
これでは確かに「どこかの村の子供」呼ばわりも仕方がない。
「それで? キミはこんな場所で何をしていたの? 山菜採り?」
「い、いや……そんなんじゃなくて、俺は」
「あら、違った? じゃあ……まさか、得物もなしに狩りに来たの? ボク一人で?」
「ぐ――それも、違う!」
寸でのところで「子供扱いするな」という言葉だけは口にせず、俺は叫ぶ。
その一言を出してしまえば、いよいよ以て相手が調子に乗ってしまうのは確実だ。
「ふぅん。まあこんな風に上から見下ろしてお姉さんぶるのも、意味はないか」
しかし俺が抱いたちっぽけな心配事は、杞憂に終わっていたらしい。
少女は軽やかな身のこなしで下馬したかと思うと、改めてこちらに向き直ってきた。
「じゃあ、もう一度だけ。キミに聞くから」
そう口にしてきた少女に、何故だか俺は気圧されて半歩後ろに下がってしまう。
何か……何か、彼女の振る舞いには、引っかかるものがあった。
突然出くわした、見ず知らずの相手への問いかけ。
それに間違いはない。そうおかしくもない。
だが――
「貴方……一体何者? こんな場所で、一人で何をしていたの?」
詰問口調となっていた少女と向かい合い、そこで俺は気がついた。
彼女の右手が、いつの間にか後ろ手に回されていたことに。
こちらに向けられていた左手に、楕円形の小盾を携えていたことに。
目の前の神殿従士――ここレゼノーヴァ公国に本拠を構える、聖伐教団の一員が。
人類種に仇なす魔人の殲滅を至上の使命と目する、化け物退治の専門家が。
敵意と歓喜の入り混じった瞳で、こちらを見据えてきていたことに。
遅まきながら、俺は気付かされていた。
「え……いや、ちょっと、まっ――」
「せいッ!」
「てくれぇ!?」
こちらが上げた制止の声も虚しく、返されてきたのは少女のあげた気合の声。
間髪入れずに跳ねあがってきた右腕の振りから、慌てて横っ跳びで逃れる。
そこに僅かに遅れて、「ブォンッ!」という鈍い風切りの音がやってきた。
的確な上半身の捻りと、見た目にそぐわぬ腕力から繰り出された、見事なアッパースイングだ。
「な……っ! あっ、ぶ……なっ!」
直撃すれば、顎どころか首まで持って行かれかねない。
それは少女が手にしていた厳めしい戦槌を見れば、子供にでもわかることだった。
「チッ」
寸でのところで直撃を免れた俺に、少女が舌打ち一つ、再び戦槌を構え直す。
仕留めそこなった……だが、次はない。
そう言わんばかりの殺気と、堂に入った所作だ。
「え、待って……なんで――え?」
対する俺は、慌てふためくばかりでまともに体勢も整えられずにいる。
なんで、何故と思うばかりで、思考が追いつかない。
わかっていたのは、唯一つ。
このまま悠長にこの場に留まっていれば、俺は眼前の少女に無慈悲に殴殺されるであろうという、事実だけだった。
これが如何にもといった追剥ぎの様な輩が相手であれば、納得はいかずとも「まあ、そうだろうな」と考えて割り切ることも簡単だ。
だが、今のは訳が全くわからない。頭が混乱するとはこのことだ。
『聖伐教団の、高位の神殿従士たち――』
そんな思考の空白に入り込むように、俺の脳裏に声が響いてきた。
『彼ら彼女らとは、極力ことを構えずに済むよう努力しなさい』
不意に脳裏を過ぎる、教導の言葉。
刹那にして蘇る、魔法使い然とした真紅の礼装。
俺の師であった女性の姿が、更に語り掛けてきた。
『特に、黒獅子、青蛇……そして、白羽根。この階位の従士には要注意。教団きっての狂犬揃いと、相場は決まっているから……ね?』
「ね――? じゃねーよ……!」
思わず口を衝いて出た悪態の言葉に、「何故どうして」という、糞の役にも立たない迷いが吹き散らされる。
そうなってしまえば、もう後は簡単だ。
ここはもう、逃げの一手しかない。
問答無用……というか、相手は問いかけながらの不意打ちを仕掛けてくるようなブッ飛び具合だ。
よしんばあちらに何かしらの誤解があったとしても、なんの手掛かりもなしにそれを解く自信もなければ、余裕もない。
戦う手段がまったくないわけではない。
だが、無事では済まない可能性が高すぎるうえに、首尾よく撃退したところで聖伐教団を敵に回すことになる。
そうなれば、今後の公国での生活に大きな支障を――いや、これ以上はやめておくべきだ。
ここでグダグダと考えてる暇はない。
この期に及んであの人の教えに従ってしまうことに対する、しょうもない抵抗はある。
しかし、今はそれどころではない。
兎にも角にも逃げ延びたい。
まだ終わりたくない。
とは言え――
「そう簡単にいくか、これ……?」
「あら。今、何か言った? もしかして、面と向かって話をしてくれる気になってくれた?」
「はは……綺麗な顔して、よく言う……!」
思わず、「話してる間にブン殴ってくるつもりだろ」と言い返したくなるが、そこは我慢。
隙を晒すだけの不毛な会話に、労力を割く必要はない。
そんな余裕があるのなら、今から酷使しまくるであろう脚に使ってやるべきだ。
「……さいならっ!」
そう判断して、俺は一目散にその場を駆けだした。