397.『真名』
翔玉石の腕輪がガタガタと震える中、轟音が辺りに響き渡る。
夜霧を圧してぶわりと吹き立つ土煙の只中より、見上げるほどの巨躯が姿を現してきた。
「まずはお一人様……いや。お二人様のご到着だな」
4mに達しようかという長身に、赤銅色の鎧。
手にはその体躯に相応しい、巨大な片刃の斧を携えている。
一瞥しただけでアトマを纏っていないことがわかるそいつは、赤銅の戦士とでも言うべき魔人だった。
その隣に、長い黒いローブを身に纏った魔人が音もなく降りてくる。
目深にかぶったフードの奥には、血のように赤い瞳。
口元より覗く犬歯は、狼のそれよりも長く鋭い。
まるで伝承のみその名を残す、血を吸う鬼。
吸血鬼を思わせる、痩躯の魔人がそこに漂っていた。
全く異なる様相の魔人が二体、時を同じくして現れる。
それに追従するようにして、地より無数の影が湧き立ち始めていた。
まったく嬉しくもない、お馴染みとなった黒の兵士、影人どもの御到着だ。
が――
「んん? あのうじゃうじゃ出てきたのって、影人だよね? なんか……前のと微妙に違わない?」
「そうね。爪か尻尾があるのは同じだけど、あとはのっぺりしているし。なんていうか、随分と安上りな感じね」
まるで夢遊病者のようにフラフラと進み出てきた影人を見て、ティオが首を捻り、フェレシーラが印象を口に述べてきた。
「多分、俺の『解呪』対策だな。体を作る術法式の構成が大幅に変わると、再分析する必要が出てくるからさ。微妙にバラバラな見た目なあたり、こっちの手の内はバレてそうだ」
「そうみたいね。となると、あまり楽は出来そうにないか」
「いいじゃんいいじゃん。そうこなくちゃっね。さっきの岩石魔人はカチコチすぎてフラストレーション堪りっ放しっだったし。ボク、右の黒フードのヤツを貰おっかな!」
「いや――」
意気揚々と前に出かけたティオを、俺は片手で制止する。
一瞬、青蛇の少女が怪訝な面持ちをこちらに向けてくるも、それはすぐに驚きの表情へと変じていた。
その視線が捉えていたのは、俺が身に付けていた翔玉石の腕輪。
先程までよりも更に激しく震えるそれを前にして、考えることは同じだったらしい。
まだ、何かが来る。
それも今までの連中とは異なる……それこそ桁と格が全く異なる、とびきりのヤツが来てしまう。
「そこにおわす、我が君よ――」
そう感じた瞬間に、低く厳かな声が頭上からやってきた。
弾かれたように顔をあげる。
見ればそこには、全てを見下ろす琥珀色の瞳があった。
第一印象は、森の梢に座す耳木兎、または梟。
第二の印象は、『死』そのもの。
それも恐ろしいまでに静かで、逃れようのない運命そのものであるかのように、重く冷たい、静謐なる終焉。
真横に伸びた冠の如き羽角を頂く、長身の魔人。
それが虎斑の翼を音もなく広げて、黒い靄と共に地へと舞い降りてきた。
「此度の遅参、釈明のしようも御座いません。どうか平にご容赦をば」
落ち着き払ったその声と共に、羽角の魔人が頭を垂れる。
脇を固める二体の魔人も地に片膝をつき、それに倣う。
同時にすべての影人どもが動きを止めて、地へと蹲った。
動くのは、漂う黒い靄。
即ち、羽角の魔人が纒い放つ瘴気のみ。
「……は?」
聞き覚えのある、間の抜けた声がそこに向けて放たれる。
それが己の発したものであると理解するのに、僅かな時間を要した。
「……む?」
なにやら様子がおかしい。
そう感じたのは、あちらも同様だったらしい。
羽角の魔人が地へと臥していた顔をあげると、琥珀色の瞳を大きく見開いてきた。
瞬間、俺は思う。
今なら先手が取れる。
考えるよりも疾く、意識は手甲の霊銀盤へと注がれていた。
瞬間、横合いから肌を刺す冷たい殺気が吹き抜けた。
「縛れ! 咎人の鎖!」
こちらの右手より伸びたのは、青いアトマの輝きを放つ黄銅色の鎖が二条。
ハの字に広がり進むそれが青銅とローブの魔人の体に巻き付き捕えたのと、フェレシーラが戦鎚を手に吶喊を開始したのは、殆ど同時のことだった。
「光よ!」
姿勢を低くとり鎖を潜り抜けての、『光弾』の掃射。
無数の光の裁きが、羽角の魔人へと殺到する。
「原初の灯火、火の源流。導く軌跡にて、我は戻り逝く……」
「天に聖業、地に誅伐!」
爆光が都合四度瞬き、詠唱が場に響く。
これ以上ないタイミングでの、完全なる先制攻撃。
フェレシーラの『浄撃』が羽角の魔人の頭部を打ち据え、閉じ下ろされた翼を弾き飛ばして、その下に隠されていた灰色の長衣を露わとする。
「残り火還り火、煌々と。楽土焦がして、堕ち昇る。天地貫き、燃え盛る」
「こん、のぉ――動くなっての!」
戦術具の上げる耳障りな軋みの音が、二体の魔人を拘束し続ける。
「起きよ、受けよ、結実せよ……! 我が内なる術法式よ、此処に顕現せよ!」
極限まで集中した精神で、最速最短、己がもてる最大最強の攻撃術を構成しきる。
眼前にて展開を果たした魔法陣が、火花散らして燃え散る。
「吹き飛べ!」
阿吽の呼吸でもってフェレシーラが飛び退いた空間にて、フルパワーでの『熱線崩撃』が炸裂する。
闇を圧して煌めく赤きアトマの奔流が、全てを塗り潰すその最中……黒き腕輪の震えが最高潮に達し、ガコン、と何かが開かれる音がした。
それに僅かに遅れて、耳木兎の頭に生えた二本の羽角がピコンと揺れ動いた。
気づけばそこは、灰色の世界だった。
「え――」
突然のことに、俺は周囲を見回す。
だがしかし、靄のような灰色のなにかに視界が遮られてしまい、上手くいかない。
「ホ、ホ、ホゥ――」
何処かから、夜鳥の鳴き声がやってきた。
梟、もしくは耳木兎の声だ。
「なんだ、これ……」
「これはこれは。中々手厳しいですな」
呆然として呟くと、再び声がやってきた。
今度のそれは、真後ろからだ。
反射的に走竜の肩当に手が伸びて、蒼鉄の短剣を引き抜く。
振り向きざまの一閃が空を切り裂く。
手応えはない。
灰色の靄にも、僅かたりとも変化はない。
ゾクリと、背筋に悪寒が走った。
意識的に後ろに跳び、見えぬ声から逃れにかかる。
明らかな異常事態。
それをそうであると認識しつつも、しかし更なる疑念が頭を過ぎる。
一体俺は、今までなにをしていた?
いつ、どこで、誰と、なにを、どうしていた――?
「どうか御心を安らかに。我が君よ」
「く……くそっ! なんだ、お前は! さっきから、なんで! なにが、なにがいいたい! 隠れてないで、姿を見せろ!」
「御意」
遮二無二短剣を振り回して叫び続けていたところに、平静そのものといった声が応じてきた。
わけもわからず、『俺』はその場に立ち尽くす。
すると、目の前にあった灰色の靄が掻き消えた。
代わりに現れたのは羽角を備えた長身の人物。
まん丸とした琥珀色の瞳でこちらを見つめてきたそいつは、深々と頭を垂れてきた。
「貴方様の一の臣下にて忠実なる僕。『砂閣』のルゼアウルで御座います」
「ルゼアウル……?」
「はい」
鸚鵡返しでその名を口にすると、肯定の言葉が返されてきた。
「如何に御身御姿変わり果てようとも……む? もしや、私のことをお忘れなのでしょうか?」
「い、いや……アンタのことを忘れたとかじゃなくて、ええと」
そこまで言って、『俺』は気付く。
自分が何者なのかがわからない。
まるで灰色の靄が、頭の中にまで広がってきたかのようで、何も思い出せない。
「ええと……他のこともだけど。名前が、思い出せないんだ」
「なんと……!」
途方に暮れた羽角の男にそれを告げると、彼は心底驚いたという表情をみせてきた。
「おぉ……それでこれまで、あのような魔女と……あぁ、なんとおいたわしや。それであのような聖女などと。我が君よ……!」
「え? あ、はい。魔女に、聖女って、いったいなんの――ッ!?」
ズキンと、目の奥に痛みが走った。
なにか、大事なことを忘れてしまっている。
それを思い出そうと念じてみるも、目の前にあった二本の羽角が、こちらの思考を乱すように、ピコピコと動いてきた。
「これはいけません。これはなりません。いますぐ、このルゼアウルめが、御身のあるべき姿、取り戻して差し上げます。いいですか。よいですか。私の言葉をよく聞いてくださいますよう。けして聞き逃さぬよう。よいですか。いいですか」
ズキズキとした痛みに手で目を覆っていると、声が耳朶の奥を打ってきた。
朦朧とする感覚にふらつきを覚えて、『俺』は踏鞴を踏む。
足裏に、何か硬いもの踏みつけた感触がやってきた。
「貴方様の御名前は……」
ガンッ、と何かが蹴り飛ばされる音に、彼の声が続いてきて――
「ぐぉらぁテンメエェェェ! おぅれ様のどぅあいじなメモリィに、ぬぅあにしてくれとんじゃーーーーい!!!」
「ブホァッ!?」
唐突に視界の外から超速で飛び込んできた鋼鉄の鷲頭が、美事、羽角の顔面にクリーンヒットを果たしていた。