1. 望まぬ旅立ち
掃除を終えたばかりの床にじっと片膝をつき、小さな木目を見つめていたその最中。
「フラムく……」
頭上からやってきた消え入る様なその声に、俺は反射的に顔を上げてしまっていた。
「――フラム・アルバレット。今日をもってあなたを破門に処します」
目の前で、赤い髪の女性が抑揚のない声で告げてきた。
金と銀、一対の瞳が静かに伏せられて。
長く美しい真っ赤な髪が、くるりと翻る。
俺の短いくすんだ錆色の髪とは大違いの、長くて、キレイで、大好きな髪。
それが音も無く、ただ小さくゆっくりと揺れ動きながら遠ざかっていく。
暗褐色のローブの裾が、床板の上を潮が引く様に遠のいてゆく。
「――」
結局はその通達の言葉以外は、何一つ発さずに。
俺の師であり育ての親でもあった『煌炎の魔女』マルゼス・フレイミングは、教導の間から立ち去っていった。
革製のナップサックを肩に背負い、狭く古めかしい石造りの螺旋階段を下りきり。
「ふぅ。相変わらず、無駄に長い……というか、なんかいつもより暗いなこれ」
そこで一度、俺は長いため息を吐いた。
そういや今朝は、ここのチェックまで手が回っていなかったか。
壁掛けの水晶灯に目をやると、蒼白い光がチカチカと明滅を繰り返していた。
発光に必要なエネルギーの不足……
術法用語でいうところの、『アトマ切れ』の前兆だ。
万物に宿る魂の力、アトマ。
その力を自在に操り行使する者は、『術士』と呼ばれている。
破壊の力を求める者は『魔術士』と畏れられ、神の恩寵を施す者は『神術士』として敬われる。
魔術だって使いようによっては……なんて思ってしまうのは、俺がつい先ほどまでそれを目指していたからだろう。
「こんなモノ、木のウロの中に住もうだなんてするから無駄に必要なんですよ……っと」
言っても仕方のないことを口にしながら、くたばりかけの水晶灯に右の掌を添える。
ほどなくして、縦長の八面体が熱を持ち始めた。
ごく限られた範囲を照らす為だけに作られた単純な日用品が、再び輝きを取り戻す。
今の俺とさして変わらない役立たずの置物は、それで何とか息を吹き返してくれた。
「よし。良かった。これで当分は大丈夫だな。お役目、ちゃんと頑張れよ」
呪文の詠唱を介さない接触干渉。
極々初歩的なアトマ操作によるエネルギーの補充を完了して、俺はその場を離れる。
今から十一年前に、師匠が造り上げたという『隠者の塔』。
その生活面での管理は、弟子である俺の日課の一つだった。
「しかしまあ……十年近く鍛えられて、まともに出来たのはこれぐらいのもんだったしなぁ」
そりゃ破門にもなる、などと考えながら木製の扉に手をかけて。
「……お世話になりました」
ようやくのことでその一言を絞り出し、俺は生まれ育った地を後にした。
『煌炎の魔女』マルゼス・フレイミング。
今より十数年ほど前に、ここ中央大陸にて敢行された『第一次魔人聖伐行』。
その主戦力足る公国軍の討伐隊にて勲功第一を獲得したとされる、稀代の魔術士。
数多の狂猛なる魔人たちの殲滅と、その主たる魔人将の撃退を達成したとされる英雄、『聖伐の勇者』……
無尽の魔力と比類なき炎の術理を併せ持ち、生ける伝説とまで謳われた秘術の女王。
その名声は戦いの場から遠ざかって久しくありながら、色褪せること無く人口に膾炙し続け、師事を仰ごうと門戸を叩く者は未だ絶える兆しを見せていない。
そしてそれは多分、これからもずっとそうなのだろう。
「にしても――こんな何もないところまで、皆あれだけ必死で登って来るんだからさ……」
まだ朝露の湿り気を微かに残す木の根を、慎重な足取りで避けながら。
「あんまり勿体ぶらずに、才能のありそうな奴を弟子入りさせてやればいいのに」
俺はぶつくさと文句を口にしつつ、なだらかな山道を降り続けていた。
周囲の草木は、初夏の熱気にも負けずに高々と覆い茂り、遠くではイヌ科の動物が発したと思しき遠吠えが木霊している。
これまで幾度となく目にしてきた光景だが……
今日はそれら全てが、嫌に鬱陶しく感じる。
綿製の半袖シャツは既に汗でぐっしょりと濡れてしまっている。
普段使いしている丈夫なズボンを穿いてきたが、もっと薄手のものにしておくべきだったかもしれない。
「いいとこの坊ちゃんどころか、どっか国の貴族の跡取り息子だなんてヤツもいたっけか……あの人、生活力皆無なんだからさ。そういう連中を世話役共々とか、色々とやりようだって」
これまでの出来事を思い返し、何とはなしに苛立ちを覚えて道端にあった石を蹴りつける。
ごっ――
するとそれは、思った以上に派手な音を立てて草むらへと弾け飛んでいった。
まるで『今までそこに在ったのは何かの間違いだ』と言わんばかりの勢いだ。
「……くそっ」
やめだ。
やめだやめだ。
やめだ、やめだ、やめだ……!
こんな場所で俺がうだうだと考えていたところで、何にもなりはしない。何の意味もない。
なにせ俺は今日限りで、あの人から破門を言い渡されたのだ。
十五歳の誕生日を迎えるまでに、師に認められるだけの腕前を身に付ける。
そういう約束だったのだ。
俺は単に、それを果たせなかっただけの話なのだ。
だから今は、あの人のことなど考えても意味はない。どうにもなりはしない。
俺が今やるべきことは、無事にこの山を降りて、どうにかこの先――
「う……っ」
一人で生活してゆく術を、見つけなければいけないと、
「う、うぁ……」
そんな漠然とした、その癖どうしようもないほどに受け止めきれない現実を前にして――
「う、あ――あ、あああああぁ……っ!」
俺は情けのない喚き声を上げながら、転げ落ちるようにしてその場から逃げ出していた。
「……?」
気付けば、何処か知らない場所にいた。
手には粒の荒い砂利が握りしめられており、耳朶には水の流れる音が響いてきている。
ぼうっとする頭を動かし辺りを見回す。
すると、滾々と流れゆく青色の帯が目に入ってきた。
川だ。
小さな川岸の程近くに、俺は倒れ込んでいた。
「痛っつぅ……」
息切れを起こしていた肺と、擦り傷だらけになっていた腕に、力を込めて立ち上がる。
知らぬ間に、喉が異常なほどに乾いていた。
……水だ。
水が欲しい。
とにかく今は何も考えずに、水をガブ飲みしたかった。
その欲求に突き動かされて、フラフラと水音のするほうへと進む。
そこで、大きな水溜りに行く手を阻まれた。
そう深くもない、恐らくは雨水が溜って出来たであろう代物だ。
構わず、前へと進む。
すると今度は、別のものが視界に飛び込んできた。
「……ははっ」
目の前に現れたそれを見て、俺は思わず気の抜けた笑い声を洩らしてしまう。
ついこの間切り揃えて貰ったばかりだというのに、もうボサボサとなっていた赤茶けた髪。
精気なく、こちらを見返してくる鳶色の瞳。
土埃に塗れた十代半ばの、ぱっとしないヤツの顔が……
要するに、俺自身の顔が水鏡に映し出されていたからだ。
「ひっでぇ顔……」
余りに貧相で見窄らしい己の姿に、思わずそう呟いてしまう。
どれほど山中を駆け回ればこうなるのだろうか。
浮浪者か何かと見紛うばかりのボロボロ具合だ。
何をどうすれば、とも思うが……
まあ、今は兎に角、水だ。
水さえ飲めればそれでいい。
ふらつく頭もそのままに、水鏡を踏み散らす。
泥水に塗れた脚を引き摺りながら、川岸へとにじり寄る。
そうしてやっとのことで、目的の場所にまで辿り着くと。
ようやく現れた透明な水面へと、俺は思い切り顔を突っ込んでいた。
「――ぷはっ!」
数えて、丁度十秒。
水中にあっても、ゴキュゴキュと嚥下の音が五月蠅いほどに鳴り響く中。
澄み切った冷水をこれでもかというほどに貪り終えてから、俺はようやく呼吸を再開した。
「ふぃー……つめたー……」
気の抜けた声を喉奥から放ちながら、改めて周囲を見渡す。
遅まきながらの状況確認だ。
とはいえ、幾ら首を巡らしたところで辺りにあるのは水と砂利土。
そして、それを縫って生え茂る足高な草の群れがあるばかりだ。
これまで目的もなく『塔』から離れたこともなかったのだから、当然なのだろうが……
改めて、そこは俺の全く知らない場所だった。
「ま、そりゃそうだよな」
その事実にも気落ちするでもなく、目元、髪、口元の順で水を拭う。
いつも起き抜けに、師匠に与えられた自室で洗顔時にやっていたお決まりの動き、ルーティンワーク。
それを実行することで、俺は平時の落ち着きを取り戻していた。
先程までの訳の分からない、ひり付く様な焦燥感もなりを潜めている。
多分、喉の渇きが癒されたことが大きかったのだろう。
我ながら現金な話だ。
出鱈目に走り続けてしまったのは失敗だったが、今更気にしても仕方がない。
「……よし。怪我はしてないし、荷物なんかは……大丈夫そうだな」
不測の事態に陥ったときには、まずは目を動かせ。
その言葉を思い出しながら、しかしそれを教えてくれた女性の姿は極力思い返さずに。
次に取るべき行動を絞り込む為に、視線を更に遠くへと巡らせる。
しかし、俺の元にやってきた新たな情報は、『景色』ではなく『音』だった。
「……? なんだ、この……ドカッ、ドカッって」
荒々しく、それでいて一定の間隔で以て地面を叩く音。
それが傾斜の殆どなくなった山道から、どんどんと近づいてきている。
何か、危険なモノかもしれない。
そんな漠然とした危機感を抱きながらも、何故だか俺はその場を動くことが出来ない。
誰かが来る。
だが、俺が期待していたその『誰か』とやらは、決してこんな現れかたはしない。
頭では、それを痛い程に理解していながらも。
俺の脚は独りでに、その音のするほうへと向かい始めていた……