311. 聖域を乱すもの
「ん? なんだろ、この感じ……」
男性用のドレスルームから撤収する直前で、ティオがそんなことを呟いてきた。
「どうしたんだよ。なにか『咎人の鎖』の探知に引っかかってたのか?」
「あぁ、いやね。特にこれっていうアトマの干渉を受けた形跡はないんだけど……」
「けど?」
黄銅色の鎖を振り子のように垂らして手中に収めながら首を捻る少女に、俺は尚も問う。
高位の防御神術『聖域』。
一旦は話し合いを終えてから、その術効に関してティオに尋ねてみたのだが……
この『聖域』という神術、聞けば聞くほど高性能の防御術、といった代物だった。
純粋な物理・アトマ両面への高い防御性能を誇ることのみならず。
術者がアレンジを加えることで、特性の属性のアトマに特化した対応力を発揮することも可能。
どうやら術法式の構成を、範囲内に干渉してくる事象に対応させることで一種の『対抗結界』的な代物に調整出来るようで『特定の何かが踏み入ることを拒絶する』という意味合いもあり、『聖域』の呼称が与えられているらしい。
当然ながらその制御難度、アトマの消耗は防御術の基本である『防壁』の比ではなく、また、これを無詠唱で行使出来た者の存在は確認されていないらしい。
かく言うティオも『聖域』を修得したのはここ最近のことで、詠唱短縮での発動には漕ぎつけられていない状態なのだとか。
ちなみに『咎人の鎖』と併せて『聖域』を展開させていたのは、ティオ自身がコントロールを手放しても持続時間を固定して自動実行させる為だけではなく、『咎人の鎖』をアトマの増幅器として用いることで、出力的な安定を図る役割もあったのだと教えてもらっていた。
こうして神術の専門家であるティオに話を聞いてみると、術者の望む変化を世界に『押し付けていく』のが魔術の本懐であるとするのならば。
神術とは世界に齎された変化を『押し退ける』ことを是とする術なのかもしれないとか、そんな風に感じてしまう。
まあそんな感覚的な話は横に置いておくにしても、真に恐るべきは戦術具として自由で幅広い運用法が可能な『咎人の鎖』のスペックと、それを自在に操るティオのセンスと技量だ。
鎖と防御術を用いての近中距離戦。
それが彼女の得意分野であることは、間違いない。
昼間に一度手合わせをした際にも、その奇想天外且つ、巧みな立ち回りに手も足も出せずに敗北を喫していたが……
覚えたばかりだという『聖域』に、早速改良を施して使いこなしているあたり、隠し玉的な技をまだまだ手札として伏せていそうな感がひしひしと伝わってきている。
そういや、フェレシーラも『まだ奥の手がある』って言ってたもんな。
それを使えば、俺がもし全力の『熱線崩撃』を彼女に繰り出したとしても切り返せる、って感じの口振りだったけど。
考えてみれば、その奥の手ってヤツが一つとも限らないもんな。
フェレシーラといえば、戦鎚と『光弾』を絡めた息もつかせぬ攻めと、『防壁』と『治癒』に拠る守り。
そして対象をその身に秘めたアトマごと、有無を言わさず消し飛ばす『浄化』の一撃。
これらにどう対処するか、それとも上をいくことで捻じ伏せるか。
はっきり言って、具体策すら思い浮かばない。
それに加えて更に奥の手が複数あると仮定すると、軽く絶望しそうになるが……味方としては、これ以上頼りになる存在もいないだろう。
まあ何にしても、だ。
「奥の手かぁ……なんか俺も、そういうの編み出した方がいいのかな。正直『熱線』は巻き込み被害とかを考えると、扱いにくいところがあるしなぁ。となると、ここはもっと範囲を狭めても効果の得やすいタイプの魔術がベターか……」
「おーい。さっきからキミ、なにブツブツ独り言いってんだよ。ていうか、けど? とか聞いてきたんなら、フツー返事を聞くことに集中しない?」
「あ、わるいわるい。ついなんか、普段の癖で術法の話とかになるとあれこれ考え込んじゃってさ。それで? 何か気になったことがあったのか?」
「それで? とか、キリッとした顔して誤魔化そうとしてんじゃないよ。ったく……」
ティオからの呼びかけに思考の渦から脱して返事を行うと、呆れ声で返されてしまった。
正直すまなかったと思う。
しかしこればかりは、自分でもどうにもならない感じもしている。
これまでは魔術以外には、とんと興味が湧いてこなかった。
魔術士になる、という目的の為には他は不要と考えていたからだ。
なので幾らマルゼスさんに護身術との名目で武器の扱い方を教わったり、トレーニングを命じられても、仕方なく言われたことをこなしていた感は否めない。
その自縄自縛ともいえる思い込みから次第に脱して行く中で、それらの教えも今更ながらに己の血肉としているところではあるが……
今度は今度で、知り得た知識を『どうすれば戦術に盛り込んでいけるか』ということばかり考えてしまっている自分がいる。
我ながら極端なヤツだと言わざるを得ない。
更には性質が悪いことに、俺自身この状態を自覚するに至って尚、そうした行いに歯止めを掛けたくないという想いが強いときているから困りものだ。
「通常のアトマによる術法的干渉は認められなかった。それ自体は、ボクが警戒しすぎてただけってコトでいいんだけど。どうにも妙な、説明し難い感覚が『咎人の鎖』に残っていてね。そこが気がかりっていえば気がかりかな」
「説明し難い感覚って。そりゃまた本当にわかりづらいな」
「うん。ほんと、なんていえば良いんだろうね。単なる気のせいかもしれないんだけど」
理解不能な感覚に晒されたせいか、ティオは表情を曇らせている。
そこで俺はふと思い出す。
「そういやフェレシーラが、お前のことを勘が鋭いとかなんとか言ってたっけか。それなら本当に何かあるんじゃないのか? 良ければ教えてくれよ、その妙な感覚ってヤツよさ」
「……そうだね」
ジャラリ、と鎖を鳴らして……彼女はこちらにゆっくりと向き直ってきた。
その仕草に、なんとはなしに不吉なものを感じてしまい、知らずの内に俺は息を呑む。
「こう、何か得体の知れないもので肌を微かに撫でられたような……ザラっとした感覚。もっというのであれば、この世のものではない目に見えぬ何者かが、知らぬ間に傍を通り過ぎていっていたような、残り香。残滓ともいうべき、朧げな足跡……」
一言一言、恐れるでもなく、慄くでもなく。
己が嗅覚で嗅ぎ取ったであろう、判然とせぬ来訪者の輪郭をただ只管に述べつつも――
「こういう『明らかに人ではない何か』について。キミ、覚えはあるかい?」
彼女はその金色の瞳を、俺が身に着いていた翔玉石の腕輪へと向けながら、はっきりと問うてきた。