300. 欠けたる証、止まる時
カチリ、と留め金の外れる音が医務室に響く。
「本当は、控室で顔を合わせた時にお願いしようと思っていたのですが」
筆箱ほどの大きさの、シンプルな木製のケースの蓋が開かれる中、フェレシーラがそんなことを口にしてきた。
続けてやってきたのは、何か鳴り合わさる微かな音。
「控室で……ってことは、俺がお前の前で固まっちゃっていた時のことか」
「そうですね。なんどお名前をお呼びしてもピクリとも動かれなかったので。一体なにごとかと心配もしましたが……」
「ああ、アレか。あの時はアレだ。いきなりお前がドレス姿で現れたからさ。金縛り状態になってただけだよ。可愛すぎたから」
ふとそれを思い出してフェレシーラに説明を行うと、「カタタンッ」という何かがテーブルの上に落ちる音がやってきた。
一体、なんだろう。
「な、ななななな……そ、そちらこそいきなり、何を言われているのですかっ」
「いや、何をって――あ、おまっ、隠すなよそれっ。気になるだろっ」
そう思い反射的にその何かの正体を確かめようとテーブルを覗き込んだところで、フェレシーラの指が素早く動いて落とし物を回収していった。
「別に隠したわけではありませんので。でも、そんなに気になるのでしたら……お渡ししますので、手を出されてください」
「うん?」
微妙に前後が噛み合わないフェレシーラの発言に首を捻りつつも、俺は彼女が胸元で握りしめた手の下で、掌を開く。
そこに純白の長手袋が折り重なるように降りてきて、微かな重みを授けてきた。
「これって……」
音もなく去ってゆく白い指先を半ば無意識の内に目で追いつつも、掌中に生まれていた感触を確かめる。
俺の掌に容易く収まるほどの、反りを持つ物体。
僅かなひんやりとした触れ心地も手伝い、すぐに金属の類で造られた品だとわかった。
同時に、何故フェレシーラが俺にそれを手渡してきたのか。
先ほどの会話の流れ、そして何より俺自身が抱いていた疑問から、その意図を察することも出来た。
「なるほどな。これとそれで完成、ってわけか」
言いつつ、俺は彼女から手渡された品を見る。
銀色の欠けた月。
三日月を模した、銀の装飾品がそこにあった。
素材は恐らくは霊銀。
色合いからして、混じりっけなしの稀少な品だ。
アトマ文字が刻まれていないところを見るに、術具としての機能は備わってなさそうだが……
自身の予測を元に月の裏側を覗き見てみると、思った通りの仕掛けが一つ。
「うん。これ、付けてみていいか?」
こちらが発したその問いかけに、青い眼差しと微かな頷きが返されてくる。
三日月がカチンと音を立てて、ドレスの胸元を目指す。
そこにあるのは、金木犀をモチーフとした大きなブローチが一つ。
小さな花びらたちの中心にある隙間へと、俺は手にした三日月を滑り込ませる。
僅かな抵抗の後に、月が止まる。
その感触を確かめてから、俺は再びカチンという音を立てて、月の裏側に施されていた留め金を固定した。
「最初からブローチは台座だったわけか。真ん中が空いてるかと思えば、どうりで」
「はい。フラムにお願いして、付けてもらおうと思っていたのですが……貴方と来たら、何を言っても無反応でしたので。そのまま持ち歩いていました」
「う……サーセン。あの時はほんと、見惚れていてさ」
「ふぅん? では、今はどうですか? もう見慣れてしまいましたか?」
「んなワケないだろ。馬鹿なこというなって」
「むむっ。馬鹿なこととはなんですか、馬鹿とはっ」
「あ、や……! い、今のは言葉の綾ってヤツだ、言葉の綾! おい、拗ねるなって! そっぽ向かれたら、ちゃんと見えないだろっ!?」
「ふーん、です」
会話の途中だというのに、ドレスごとプイっと横を向いてふくれっ面となってきたフェレシーラを、俺は慌てておいかける。
「ピ? グルゥ……ピピピピピ……!」
すると、それまでこちらの足元で蹲っていたホムラが跳ね起きて、周囲を駆けまわり始めた。
どうやら俺とフェレシーラがじゃれあっている様に見えたのか、一緒になって遊びたがっているようだ。
すまない、ホムラくん。
ちょっと今はこのお姫様の機嫌を損ねてしまったので、相手をしてやれそうにない。
というかむしろ、こっちに協力して欲しいぐらいですよ。
「いやごめんって、フェレシ……おい、くるくる回るなって! よく見えないだろっ」
「しーりーまーせーん。私、馬鹿なので。とまりかた、わーかーりーまーせーん」
「ピピーッ♪」
「だぁっ! ホムラ! なんでお前まで一緒になって回ってるんだよっ! あー、もう!」
然したるスペースもないのに、ドレスの裾をふわりと浮かせて回り始めるフェレシーラと、風のアトマを纏って旋回するホムラ。
下手に手を出せば、バランスを崩してしまうやもしれない。
まあ、このまま放っておけば目を回して倒れそうになるかもだから、そこを受け止めればいいのかもしれないが……
なんかそれだと、負けた気がしてスッキリしないのは目にみえている。
正直言って、それは癪だ。
どうにかしてフェレシーラが調子に乗っているところを仕留めてやりたい。
となれば、狙うべきは――
「どーされましたかー。あんなに沢山を相手に、あんなに格好――」
「ていっ!」
「へ? あ、きゃっ!?」
パシンッ、と軽やかなキャッチ音を立てて、俺の右手が肩ほどの高さにあった彼女の右手を捉える。
回転による力の流れが堰き止められたことで白いブーツが縺れて、フェレシーラがバランスを崩すも、それも想定内だ。
「よっ……と!」
膝を軽く折り曲げて体を落とし、落っこちるようにしてこちらの胸元に飛び込んでくる少女の体を待ち受ける。
ぼふんっ、というやわらかな、衝撃ともいえない衝撃を受け止めると、目の前にパチパチと瞼を瞬かせるフェレシーラの姿があった。
「よし。止まったな」
「……とまったというよりは、とめられた、という感じしかしませんが」
「キュピ!?」
勢いを失くして制止したドレスを頭からかぶり、ホムラが驚きの声をあげて――って、そのまま隠れるんかい。
まあ、そんなことをツッコんでいる場合ではない。
心地の良い重みが腕にかかり続ける中、俺は間近よりこちらを見上げてきていた少女と向き合った。
「つかまってしまいました」
それ以上、なにを口にするでもなくフェレシーラが俺を待ち構える。
あらためて、俺はドレス姿の彼女をみる。
爪先から手先まで、ブーツに手袋に、身に纏う白薔薇の如き装いと……その中心で輝く金色の花びらと、銀色の欠けた月を、しかとその目に焼き付ける。
「うん。やっぱ、綺麗だな。可愛いもだけど、今は綺麗の方が合っている。綺麗だよ、フェレシーラ。全部、似合ってる」
「……そうですか」
「ああ。本当は、もっと良い言い回しが思いつけばいいんだろうけどさ。俺の語彙力だと、これが限界だ」
「いえ」
自分のボキャブラリーの無さに思わず苦笑すると、ふるふると首が横に振られてきた。
「ありがとうございます、フラム。嬉しいです。急に倒れられたときは、本当に驚きましたが……不謹慎だとは思いますが、良かったです」
「そっか。そりゃ良かった」
瞳を伏せて言葉を紡ぐ少女に答えながらも、欠けたる月に吸い寄せられていくような感覚に、俺はなんとか抗う。
そこから逃げるようにして視線を巡らせると、ふと、テーブルの上で開かれたままのケースが目にとまった。