280. 『反転』
欲するは陰。
陽光煌めく戦場を抱き包む、深淵の帳。
「其に字無く、我知るは嘗ての業行刻む、仇名のみ……」
築くは四方無間の闇。
人の身では決して覗けぬ、昏き井戸底。
「地に満ち、土を浸す者。夜霧食み、枝葉隠す者。降り注ぎ湧き出でる、黒き檻たちよ――」
それらを想起して、左右の掌、五指一つ一つを突き合わせてゆく。
紡いだ言霊にて、術法式の断片を練り上げてゆく。
「詠唱……!? 魔術か!」
こちらの動きを見てとり、副護衛長が反応を示す。
「各自、攻撃開始! 好きにやらせるな!」
二度に渡る『閃光』での足止めを受けたことが、彼の判断と残る者たちの動きを後押ししたのだろう。
護衛長より指示が飛ばされるのとほぼ同時に、2人の神殿従士が左右に散開しつつ前進を開始して、後ろに控えた神官が術法を行使する動きをみせてきた。
それまでの不定術の行使とは異なる、明らかな意図、方向性を備えた呪文の詠唱。
その内容から、恐らく2人の神官にはこちらが用いる術法の性質、目的についての当たりというヤツがついている筈だ。
一瞬、彼女たちが目配せをしあったところを見るに――
「させん!」
5名の教団員、それぞれの動きをみての瞬時の思考。
それを寸断する形で、大柄な男が長剣を振りかぶりながら突進してきた。
如何にも大振りの一撃だが、それだけに間違っても喰らうわけにはいかない。
半端な避け方をして、魔術を行使するための集中を解くわけにもいかない。
逃れるのは、左前方向。
「チッ――」
打ち下ろしの剣を掻い潜るようにしてやり過ごすと同時に、後方で舌打ちの音が跳ねる。
大柄な男の体に隠れる形で迫っていた、もう一人の神殿従士が発したものだ。
2人纏めて捌ききった。
そう判断した瞬間に、微かに巡らせた視界の中で何かが煌めいた。
『小僧!』
「――ッ!?」
その輝きとジングが発してきた『声』に、無意識の内に上体が反り返る。
弾けるようにしてブレた視界、その鼻先を、一直線に飛来してきた片刃の刀身が掠めてきた。
「あ……ぶなっ!?」
思わず声をあげつつも、なんとか組んだ掌印を保ったままステップを踏み連ねて、体勢を整えにかかる。
「我の奥の手も避けるか。マジで猿だな」
中肉中背の神殿従士が、そんな言葉と共に呆れ顔で退避する俺を見送る。
それまでは常にこちらの背後を狙ってきていたこともあり、比較的、口調以外は影の薄かった相手だが……
今まで何処に隠し持っていたのか、その手には投擲用と思しき小振りな短刀が握られている。
その刀身が陽の光を妙に派手に照り返しているところをみると……もしかしたら、麻痺毒やそれに近しい効果を持つ薬物が塗布されているのかもしれない。
「おい、幾らなんでもそれは……!」
「言ってる場合か。コイツは並の魔物より余程厄介だぞ。動きを止めんとやられるのは我らの方だ。貴公も声ばかりでなく、手も出せ。色々と足りん」
「そ、そんなことぐらいわかっている! 言われなくとも、元よりそのつもりよ!」
掌中で暗器を弄ぶ男の嘆息を受けて、副護衛長までもが前に出てくる。
いつまでも様子見をしたまま動かぬ味方に、痺れを切らした結果だろう。
「全員でかかるぞ! 絶対に術を撃たせるな!」
「応!」
「今更」
前、右、左。
三方より神殿従士が詰め寄ってくる。
防御を捨てての一斉攻撃。
最早、誰が先で誰が後など存在しない。
なりふり構わぬ猛攻に及んでくるも――だがしかし、全てが遅きに失している。
相手は俺にどんな印象を抱いていたのか……何を恐れて縮こまり、距離を取り守りを優先してきたのか。
それに関して、どうのこうのと言うつもりはない。
別に文句があるわけでもない。
だが、悪いが俺も魔術士の端くれだ。
その対応のチグハグさ、明らかな悪手を見過ごしてやる義理はない。
こちらは既に、不定術を用いての術法式の抜き出し、自己補完も準備済み。
呪文の詠唱に至っては――とっくの昔に、発動詞を残すのみ!
「我が内なる式よ。此処に顕現せよ……!」
体の何処かで鳴り響く、ガチリと何かが噛み合う音。
一瞬、翔玉石の腕輪がカタカタと震えたかに思えた。
そこに再び空を裂いてやってきたのは、防具で護られていない顔面狙いの短刀が一振り。
それを地に臥せる挙動で躱し切りながら、俺は両の掌を石床へと捻じ込むようにして広げきっていた。
黒一色のアトマが石床の上へと染み渡るようにして、線を描き始める。
試合場、その全域を一枚の石板に見立てるようにして、陣を刻んでゆく。
「な――なんだ、これは……!?」
突如として地を塗り潰し始めた闇色の波動に、副護衛長が辺り一帯を見回す。
その足元が、ぐらりと大きく揺れる。
己が望んだ祈りの集約、その発露。
術法式の展開と実行。
黒い火花が陣を焦がす。
その場にいたもの全てがあげたてんでばらばらの声が、しかし等しき一つの感情、恐れの響きを……その畏怖する心ごと、悉くを塗り潰すかの如くして。
「常闇の天蓋――無明の揺り籠よ!」
俺が定めた戦域を、一瞬にして闇が覆い尽くした。
地に描かれた魔法陣より生み出された、漆黒の領域。
その中心で、何かが開く音が聞こえてきた。
気づけばそこは、白一色で支配されていた。
「……あれ?」
突然のことに、俺は周囲を見回す。
遠くに、壁らしきものがあった。
黒い、巨大な壁。
円形でこちらを、真っ白な空間を覆い尽くす――閉じ込めているようにも見えるその光景には、見覚えがある。
「ここって……まさか」
そんな半端な独り言を口に昇らせつつも、足を前へと進ませる。
真っ白な地面を、歩いているという手応え。
それはあった。
しかし、遠くに見える黒い壁へは近づけてはいないという根拠のない確証も、同時にある。
まだ見慣れぬ、しかし見覚え自体はあるその空間、そして現象。
「精神領域……なのか? なんでまた、いきなりこんな所に……」
そこまで言って、俺は気付く。
自分がそれまで、何をしていたのかが思い出せない。
それどころか、何処にいたのかすらもわからない。
その事実に突き当たり、俺は激しく頭を振る。
しかし何も思い出せない。
己の名も、己が何者であるかも、思い出せない。
不思議と焦りはなかった。
ただ、何かを探しているような気はした。
探さねばならない気がした。
そう思い、俺は辺りを見回す。
真っ白で平坦な空間を、どこか他人事のようにして見回してゆく。
すると、何かが目に止まった。
白い空間に溶け込むようにして、しかし僅かな凹凸を見せて地に転がるそれに、俺は自然引き寄せられてゆく。
「これって……」
それは、鎧だった。
白い、傷だらけの金属製の鎧だ。
その傍には折れた剣。
そして元は盾だったのであろう、無数の金属片が散らばっている。
ふらふらと夢遊病者のそれで、俺はそこに歩を進めると――
『おい!』
不意にやってきた『声』に俺は顔をあげる。
視界はいつのまにか、白から黒へとすり替わっていた。
『なにいきなり、ぼーっとしてやがる! 今がチャンスだろうが! ぼさっとすんな、小僧! とっとと動きやがれ!』
全てを呑みこみ一片の光さえ喰い尽した闇の中、俺は我へと返っていた。