263. - evil aspiration -
それは御伽話でも、作り話でもない、現実としてこの地に降り注いだ脅威。
生ける災禍。
蠢く青き巨影。
霧に包まれた沼地に突如として現れ、飲み干すようにして泥土を喰らい、瞬く間にして辺り一帯の河川をそこに引き込み、深き湖へと造り変えたのは、ただ一匹の竜。
貪竜ギリシュ。
強大な力を誇る幻獣種の中でも、その頂点に座すとされる『竜』。
生けるもの全てを呑み喰らう貪欲なる魔性の出現に、平和の最中にあった王国は揺れに揺れた。
王命により進発した討伐軍は、突如として押し寄せた巨大な泥土の波を受けて壊滅状態に陥り、生存者は十にも満たず。
貪竜の領土は時を追うごとに規模を広げてゆくばかり。
二の矢三の矢として放たれた討伐軍も、自ら進んでギリシュへの供物と成りおおせるという体たらく。
水面が広がる度に嵩を増す竜の威容に、王国の領土図に『貪竜湖』が書き記されて一年が過ぎた頃には、最早、邪竜討伐の栄誉を欲する者は残ってはいなかった。
そんな中、一人の青年と少女が貪竜が塒としていたとされる小島へと向かい……艱難辛苦を退けて、ギリシュを討ち取った。
誰一人として予期しえなかった悪夢の終焉と英雄の到来――即ち、聖伐の勇者の現出に、王国は湧いた。
青年は王によりすぐさま召し上げられると聖騎士として任じられ、少女は己が生まれ育った教団の巫女として遇されることとなり……共に救国の英雄として迎え入れられた。
青年の名は、ジン。
後に襲来した魔人王をも討ち果たし、ラグメレス王国の最後の聖騎士と呼ばれた、勇者。
中央大陸の遥か西、海を渡った地を故郷に持つと囁かれたその青年の名は、かの王国が滅び去った後も未だ人々の記憶からは消え失せておらず、語り継がれている。
……らしい。
「ええと……つまり突然現れたギリシュは、これまたいきなり現れた勇者に倒されて、聖騎士になったその勇者が、今度は王国を襲ってきた魔人王も倒しちゃった……って話ですか?」
「ああ。ざっくりいくと、そんな感じだな。おそらく勇者ジンが現れていなければ、このミストピアが生まれなかったどころか、その時点でラグメレス王国も滅んでいただろう。ギリシュが野放しな上に魔人の王が攻めてきては、無事で済む筈もないからな」
一通り、こちらに対する『貪竜の花嫁と異国の騎士』の補足を終えたハンサが、そこで腕組みを行ってきた。
なるほど……これは中々に驚きな話だった。
ラグメレス王国と魔人王の戦いで、『勇者ジン』が活躍したことも、その後に現れた魔人将との戦いで、彼が命を落としていたことも、一応知ってはいた。
けれどもそのジンが、ギリシュを倒していた、という話は初耳だった。
「……あれ? でも今の話だと、ちょっと足りていませんよね」
「ん? 足りていない、とはどういうことだ?」
「ええっと。なんていうかですね。タイトルにありますよね。『貪竜の花嫁』って」
ついつい言葉足らずで口に昇らせてしまったこちらの疑問に、ハンサが訝しげに眉をひそめる。
そこに俺は、重ねて問いを行った。
「異国の騎士は、後からジンが聖騎士になったのを先出ししている感じだとしても。いま副従士長が話してくださった内容だと、花嫁にあたる登場人物が見当たらないな……と」
「……そういえばそうだったな。すまん、少しばかり端折りすぎた」
「いえいえ。セレンさんに比べたらどうってことは……んんっ」
話が横に逸れてしまう可能性を危惧して強引な咳払いで発言を中断するも、当のセレンは話したいことを喋り終えて満足したのか、ホムラをとっ捕まえてお腹をモフっている始末。
ほんと恐ろしいほどにマイペースだな、この人。
いや、お世話になりっ放しで頭あがんないし、文句なんてないですけど。
というかジングのヤツ、未だにショックで立ち直れないのか静かにしてるし、そういう意味ではコイツを黙らせてくれたセレンには、むしろ感謝しかない。
……どうせだから、静かになったついでにしばらく『眼』『耳』『口』全部遮断しておくか。
多分また不貞寝でもしてるんだろうし、ここで騒がれたら本当に話が進まなくなるしな。
許せジング。
腕輪ポチッと。
「たしかだな。そのジンと一緒にギリシュを倒しに向かった少女だ。その娘が『貪竜の花嫁』だったと思うんだが……それで間違いないな? パトリース」
「……ええまぁ。そうですね。その通りよ。副従士長サマのいうとおりでーす……」
なんてことをやっていたら、何故だか今度はハンサがパトリースに確認をとっていた。
なんだかパトリースさん、虚ろな感じというか、若干キャラ崩壊してません?
なんだかんだ『防壁』の維持で疲れてしまってるんだろうか。
術法関連なら異様なまでにテキパキとこなしてゆく彼女だが、あまり無理をさせるとどこかでポキッといくかもだし――
「まあ、そういうわけだな。こいつがやらかしたのは、その勇者の真似事……俺がアレイザからこいつを引き取ってきて、ミストピアに帰還した直後の出来事だ。それで間違いないな、見習い神殿従士パトリース・マグナ・スルス」
「でーす。まちがいありませーん……はうぅ」
――ん?
いまのハンサとパトリースのやり取り……なんか、話がスッ飛んでなかったか?
……ああ、いや、違うか。
そういえばそうだったな、この話。
そもそもこの話は、『パトリースが以前、ミストピアで何かやらかしていて』『それが原因で、今回の査察が行われることになっていた』という、そういう話だった。
そんでもって、それは出来たら伏せておきたい内容だと。
なのでこうして、手狭な倉庫に皆で集まって密談に及んでいると。
そういう流れだった。
なんか色々ありすぎて混乱してたけど、これでやっとその本題に入れるわけだ。
ということは、だ。
「つまり、パトリースは故郷であるこの街に帰ってきて。領主や周りの人たちに大歓迎を受けて……まあ、ちょっと舞い上がっちゃっていたところで、勇者ジンの真似事をしたくなったと。それも今の話から繋げていくと、貪竜湖を根城にしていた……え、湖賊相手に、ですか!?」
「あ、あううううううううーっ!」
「流石に察しがいいな。加えていうなら、この街の神殿従士たちを焚きつけた上で、俺やカーニン従士長の目を盗んでだがな」
「もー! もうヤダヤダヤダヤダーっ! そのこと、誰にも話さないってアンタ言ったじゃない! なんで今頃になって、よりによって師匠にバラしちゃうのよーっ! うわーんっ!」
「うるさい。声が大きい。何のためにこんな所でコソコソ話していると思ってるんだ。それに話さない、じゃない。話せない、の間違いだ。このお転婆扇動娘が」
パトリースが、湖賊退治としてミストピアの皆を引き連れて『貪竜湖』に攻め入っていた。
まさかまさかの、やらかしの真相。
そんな衝撃の事実に唖然とするこちらを尻目に、ハンサが鎧の胸の部分をパトリースにポカポカとされつつも、言葉を継いできた。
「まあ、何はともあれ、だ。こうして査察が入ったとなれば、ルガシム卿の耳に話が届いていたのは確定だ。なにせ、こっちが誰かさんのお陰で湖賊のアジトを突き止めてしまったのがバレてのことだろうからな」
「な、なるほど。それで教団のお偉いさんたちは、公国軍に先んじて湖賊討伐に勝機を見出して、公国にゴリ押しする材料を得たと……」
「大方そういう事だろうな。それが出来たのもまた、卿の後ろ盾あってだろうが……ま、そこは推測のそのまた推測だ。お前は気にせんでいい」
……うん。
たしかに俺が気にすることではないし、発端が結構前の出来事ぽいしでどうしようもないけど。
しかしながらパトリースさん。
この状況下で『防壁』を切らしてないとか、貴女どんだけ器用なんですか。
普通、泣いたり喚いたりした時点で集中が乱れて、プツンといっちゃうと思うのですが。
マジで近接戦闘の鍛えようによっては、どこぞの鈍器系聖女サマ並みになれるのでは?
でもそうなると、もしもお転婆さんが再発動したときには、更にとんでもないことになりそうですね……!