261. 貪竜伝・参 - とある青年の直感 -
『先遣隊の姿が見えない、だと?』
『は――仰せの通り使いの者を出したところ、先ほど帰りつき、その様に申しております』
『なにを馬鹿な』
立派な口髭を蓄えた男が、鞍上より街道に膝をつく伝令役の青年へと疑いの眼差しを向けた。
『500はおったであろう、あの若造の部隊は』
『それが何処にも見当たらずとのことで。それと、このような物も』
『なんだ。地図……か?』
ずいと差し上げられてきた厚手の羊皮紙を、男が奪い取るようにして手に取る。
彼が手にしていたのは、ラグメレス王国のほんの一領土を書き記したもの。
件の水竜が現れたとされる王国中央部大湿原地帯の、その入口にあたる地形図だった。
街道に河川、それに隣接大小無数の街や村、集落。
平地に林に森に山に谷と、あらゆる地形の上に行軍のために必要な情報が大まかに追記されたそれは、髭の男――邪竜討伐隊、その本軍を預かった騎士の、そのまた参謀である聖伐教団の司祭が手配させたものだ。
だが……
『なんだこれは。ほとんど炭で塗り潰されているではないか。これでは役に立たんではないか』
『湖です。その黒い部分は』
『湖……?』
『はい。神官共々引き返してきた者の一人が、行く道を確認して書き改めたものでして。その者以外も、皆口々に巨大な湖があったと』
『なにを馬鹿な』
それこそ馬鹿の一つ覚えのようにして、口髭の騎士が地図を投げ捨てた。
ひらひらと左右に揺れるそれを、青年が無駄のない所作で受け止め、筒状に丸めて懐に収める。
『なにかおありでしたか、領主殿』
『む……司祭か。下がっておれと伝えていたであろう。この先は魔物が蔓延る地。戦場に不慣れな者は不要だ』
フード付きの白い法衣に身を包み、やや小柄な馬に跨った初老の男性――教団の司祭に、口髭の騎士が顔を顰めながら言葉を返した。
『もしや竜の名に怖気づいてはいないでしょうな。500に加えて1500の兵馬。国王陛下より、早急に民の心より不安を取り除くようにと仰せつかわれたことを、お忘れなく』
『不遜だぞ、司祭風情が戦場でその様な物言い。アーマ様の威光を笠にこの儂に意見する気か』
『滅相もない。私の役目は魂源神の目と成り代わり、勇士を見定めることですので。お気にさわられたのであれば、謝罪いたします。何卒ご容赦をば』
畏まりながらも下馬もせずに詫びの言葉を口にしてきた司祭に向けて、『フン』と鼻を鳴らす音が返された。
『まあ、いい。そもそも500であっても多すぎたぐらいだがな。地図の一つどころか、報告すらまともに用意できぬようでは当てにならぬ。大方、功を焦り慣れぬ地で兵を強行させて道に迷ったのだろうが……事を済ませたら、この辺りを任せていた者も解任だ。ろくに所領の把握も出来ておらんとは、これでは領民どもの間で賄賂が横行している等と陰口を叩かれるのも当然だ』
『領主様、それぐらいにしておかれた方が……兵の耳にまで入ります』
配下への不満だけでなく、領地に関することまで口にしはじめた口髭の騎士を、青年が声を顰めて咎める。
そもそもこの口髭、己の領地であるという理由で討伐隊を率いていた男なので、先遣隊に加わっていた者ほどの熱意もなければ欲もない。
引き連れてきた者たちも、正規の訓練を受けた兵士だけではない。
竜だかなんだか知らないが、出兵したことで政務も滞っている。
さっさと掃除を済ませて館の庭で寛ぎたい、というのが彼の本音だった。
『時間が惜しい。あやつらを前に出して兵を進めよ』
『あやつら、とは……まさか、民兵を盾にされるおつもりですか!?』
『なにを戯けたことを。あのような者たち、我が領民ですらないわ。貴重な戦力を消耗する前に食わせた飯の分を働いてもらうだけのことよ』
王命により言い渡された1500という数。
それを満たすために、取り急ぎ徴兵官に領内から掻き集めたさせた結果、討伐隊の中には痩せ細った農奴や食い詰め者のゴロツキも入り混じっている。
どうせ集めたのであれば、戻したところで益にならないのであれば、有効利用してやろうというのが口髭の騎士の言い分だ。
そして彼の命に逆らえるものはこの場にいない。
士官学校を優秀な成績でもって卒業したことで、これも経験の内だとこの場に派遣された青年は内心臍を噛む。
教団の司祭にしても、横槍を入れる気配もない。
(……侮り過ぎだ。相手は幻獣、竜なのだぞ。それにこの様な差配――)
『なんだお前、まだいたのか。もう下がってよいぞ。王都の騎士団には中々良し、と便りを出しておいてやる故、あとはどこぞの部隊に入れ。ここからは伝令など無用だからな』
話にならない。
妙に湿り気を帯びた街道を馬蹄で蹴りつけながら――それでも口髭の騎士への一礼は欠かさずに――青年がその場を後にした。
『おや、行かせて良いのですか?』
『よい。お前も下がってみていろといっただろう。ここからは栄えある騎士の為の戦場だ。まったく……口煩い司祭どころか、平民上がりのガキまで面倒見切れぬわ。騎兵隊、先行する歩兵の会敵に合わせて突撃用意! ラグメレス王国の威信を示してみせよ!』
間を置かず、周囲の兵士たちの間から歓声が挙がり始める。
駆り出された雑兵が、それに押し出されるようにして先を行き始める。
先遣隊からは、錯乱した者を治療出来る神官を馬で走らせるようとの連絡を受けていた。
つまり、そうした事態がこの先……元は沼地であった筈の湖で起きているのだ。
領主である口髭の騎士は、それが何を意味するのかをまったくわかってはいない。
どうせ兵を出したのであれば、沼地に巣食った魔物を掃討しておいても損はないだろう、ぐらいの考えだ。
しかしその魔物も、ここまで一匹足りとて姿を見せてはいない。
己らの縄張りにこれだけの人間が集まってくれば、遠巻きにでも威嚇の吼え声の一つも飛ばしてきそうなものなのに、それすらない。
街道の途中に不意に現れたという巨大な水場、湖。
先遣隊がそこに到着してから、既に三日は過ぎている筈だった。
だというのに、500もの人間が忽然と姿を消してしまっている。
口髭の騎士は道に迷ったのだろうなどと言っていたが、それなら少なからず離脱者や逃亡者が見つかろうというのが、物の道理という奴だ。
嫌な予感がする。
自分達の想像もつかないことが起きようとしている。
否……既に起きてしまっている。
他の騎士や兵たちの中にも、それをなんとはなしに肌で感じている者もいたのだろう。
彼らの中には小なりとも魔物との戦いを経験した者もいる。
だが、既に一個の群として動き始めたからには、王命があるからにはそう簡単に歩みを止めることは出来ない。
なんの戦果もなく挙がり続ける歓声は、悲鳴にもよく似た響きを伴い山野に木霊し始めている。
陽も落ち始めた頃合いだというのに騒々しさを増す人の群れは、ただ、前へ前へと蠢くばかりで振り返りもしない。
まるで見えない何かに背を押されるようにして、行進が続く。
その流れに一人逆らい、青年は鞭をしならせ駆けていた。
王命に逆らうことは自分には出来ない。
しかしこの場で直接の指揮権を持つあの口髭は、こう言っていた。
お前は『何処ぞの部隊に入れ』、とだけ言っていた。
当然それは、そこで指揮下に収まり動けということだ。
だが明確な指示を受けてはいない。
王命は唯一つ、『竜を討ち取れ』という単純明確にして、これ以上ないほどの無理難題のみ。
ならばその為に自分が動くのは、間違ってはない。
そんな屁理屈を捏ねながら、青年が馬を走らせる。
そうしなければという漠然とした思いが、彼を走らせていた。
響く歓声と土踏みの不協和音に、飛沫のあがる音が入り混じり始めていた。
『貪竜伝・巻之壱 - 沼喰いの竜と逆駆けの青年 - 』より抜粋